ちゃきとしおのブログ

自叙伝を書こう マイストーリー連載中

2章1〜モータースポーツに魅せ

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第2章 モータースポーツ(MS)に魅せられて 15 「募集していないのにJMCのドアをノックし、新聞社へ入社」   
 
(文中敬称略)   
 
当時ラリーを職業にしたいと思ったら二つしかなかった。
一つは三菱ラリーチームに入いるか、もう一つは全国でラリーを開催スしている日本モータリストクラブ(JMC)に入るかである。
 
しかしその二つとも募集はしていない。そこで考えた。
当時篠塚健次郎は既に三菱のファクトリードライバーとして活躍している。同い年の私が仮に門を叩いたところで可能性はまずないだろう。しかもファクトリードライバーは勝つことが使命だから、ある意味では命がけでもある。

ではもう一つのJMCはと考えてみると、木内と言う若手が渋谷道尚の後継のような立場でいたが、その人が外れた。

するとコース設定者は一人となったので、募集はしていないが私が入れる余地はあると踏んだ。それで意を決して両親を説得し、募集もしていないのにJMCの門を叩いた。その頃、ラリー界の神様こと渋谷道尚とはすでに面識があった。

「私を社員にしていただけませんか。」
その申し出に「こんな苦労は私一人で沢山だ。苦労ばかりだからやらない方が良い」と対応してくれた渋谷は答えた。

しかし、そんなことで引き下がっていては話にならない。
「いえ、どんなつらいことでもやりますから是非社員にして下さい」と食い下がった。

「ここは日刊自動車新聞社の事業部門で、単独で社員は採用していない。私も新聞社の社員だ。だからどうしても入りたいというなら、新聞社の試験を受けて採用してもらうしかない」。
 
それで、中途採用の臨時試験を受けた。新聞社の広瀬総務部長は、元JMCの事務局長であり、新聞社の日曜版の編集長も歴任した人で、ラリーにも記事を書くことにも造詣が深かった。
その広瀬部長と松本社長室長が試験に立会い、ペーパーテストと面接に加え、木賊峠(とくさ峠)などラリーにまつわる地名も含めてテストされた。
 
結果は合格。こうして晴れて新聞社の社員となりJMCへ出向となった。そしてラリーコース設定を職業とし、ラリーに明け暮れる日々へと入って行く。
 

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茶木寿夫関連のHP
1:運検(安全運転講習&検定) 運検http://unken.jeez.jp/
2:モータースポーツ ALC http://www.alc-j.com/
3:自叙伝出版 寿出版 http://kotobuki-pub.sakura.ne.jp/
メール alc@jp.bigplanet.com
ツイッター(Twitter) http://twitter.com/#!/chaki_alc
(無断転載禁)
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第2章 モータースポーツ(MS)に魅せられて 14 御大「古我信生」に教えられた2つのこと    
 
(文中敬称略)   
 
1972年(昭和47年)第14回日本アルペンラリーの管理車として、モータースポーツ界の御大“古我信生(こが のぶお)”を乗せて最後尾を走った。イメージ 2
 
このとき、私は古我信生がヨーロッパのベルギーからブルガリアのソフィアまでの往復約6,000kmのラリーに挑戦していたことも、1965年(昭和40年)にドイツのニューブルックリングの82時間耐久レースにホンダS600で栄光のクラス優勝を果たしていたことも、全く知らなかった。
 
管理車として走りだした初日の夜、群馬や長野の山場に入り、我々は高峰高原に差し掛かった。ここは標高2000mほどある。
私はその時もう一人のドライバーにハンドルを渡し、助手席に座り、ナビゲーションをしていた。林道を駆け上がり、濃霧を抜け、雲上に出た。すると見事な雲海である。その時思わず「うゎ! きれい!」と言った。
 
その時、間髪を入れず後部座席の古我から言葉が飛んだ。「バカヤロー、ドライバーの気の散ることを言うな!」。そして紙を丸めたもので、軽くポコッと頭を引っ叩かれた。
 
その時、尤もだと思った。この言葉は心に染みる言葉である。その言葉は今でも金言としていつも言い聞かせている。命を掛けて世界を渡り歩いてきた大先輩の言葉は有り難い。
 
そしてもう一つ教わったことがあった。それは「車から何かを降ろした時は、必ず一周してから乗れ」であった。
引っ叩かれたあと、ドライバーは少し先に進んだ路肩で車を停めた。停まったついでだからと思い、私はトランクから予備のガソリンを出し給油した。

ラリー車のトランクは、荷物で一杯である。予備のガソリンタンクを出す為に、その周りの物をイメージ 1一旦降ろした。給油後、荷物を積み込み車に乗ろうとした。
 
その時である。「車から何かを降ろした時は、必ず一周してから乗れ」と言われた。

「あのなぁ茶木君、全部積んだと思っていても、どこに忘れ物があるか分からない。特に暗い時はなおさらだ。だから、必ず一周してから乗るもんだ」と諭された。
 
言葉は直截的で厳しいが、その言葉には愛情があった。この人は凄い人だと思った。
 
 
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第2章 モータースポーツ(MS)に魅せられて 13 「車を知るため整備業務に」   
 
(文中敬称略)  

ラリーに魅せられた私は、ラリーをやるには車を知らなくてはならないという思いが強くなった。それで自動車の整備の仕事につき、車のことを学ぼうと思った。
遊びで楽しくやる程度であれば車の構造はそれほど知らなくても出来る。しかしそれなりに本格的に身を入れてやろうとすると、足回り、エンジン、その他全般を知らなくては話にならない。

世界に羽ばたく国際ラリースト篠塚健次郎は私と同じ歳だが、後年彼もまた車を知るために三菱自動車から、三菱のディラーに出向し、整備についていた時期があるとのことだったから、車を知ることが重要だと分かる。
 
兎に角、私がそう思っている時、ラリー仲間の宝田文彦が「そんなに思うのなら、うちの会社へこないか」と誘ってくれた。彼はJMCデ―&ナイトノンストップラリーにトヨタのマークⅡGSSで参加していた人で、彼の言う「うちの会社」とは富山トヨタの本社工場だった。
 
私はそこで作業服を着て整備業務をした。
イメージ 1
クラッチのオーバーホール、エンジンバルブのすり合わせ等、整備をやるにつけ色々分かってきた。だが同時に、見よう見まねでは、整備学校を出てきた彼らには到底及ばないと思った。

しかし私は自動車整備で身を立てる素地にしょうとした訳ではなく、ラリーを本格的にやるために“車を知る”ことが目的だったから、それはそれでよしとした。
 
そしてJMCに頼み込み、第14回日本アルペンラリーは管理車として、モータースポーツ界の大御所“古我信生(こが のぶお)”を乗せて、最後尾を走ることになった。
 
(写真:第14回日本アルペンラリースタート会場になった東京の神宮絵画館前にて。左から二人目の白いレーシングスーツの人が古我信生)

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第2章 モータースポーツに魅せられて 12 「ライバルは”理解しあえる最良の友”」    
 
(文中敬称略)    
 
第13回日本アルペンラリーで我々は15位でゴールした。その時44位でゴールしたホンダ1300があった。当時の車はFR車が主流であり、エンジンは水冷が当たり前の時代に、そのホンダ1300はFFであり、エンジンは空冷であった。つまりどう見てもトップを争う車には見えなかった。
「よくこの車で参加しているなぁ〜。よほどホンダ車が好きか、あるいはホンダの社員んだろうなぁ〜」と思っていた。

メンバーは福井威夫、森脇基恭、荒木純一。確かにその人はホンダが好きだった。福井威夫はそれから33年後の2003年、本田技研の社長になるその人であった。そしてナビの森脇基恭は後年、F1の解説で名を馳せる人となった。
もちろん当時そんなことは知る由もなかった。同じ大会で競った仲間が、日本経済の一翼を担うリーダーとしての活躍は、同好の士として嬉しい限りだ。
 
そしてもう一人、47位でゴールした男がいた。それはスカイラインに乗る関根基司だった。
彼らの車は乗鞍でクラッチが壊れたが、人力で車を押してプロペラシャフトの回イメージ 1転に合わせてギヤを入れ、押した人が飛び乗るという高度な離れ業を繰り返し、松本を経て200キロも先にある大礒ロングビ―チのゴールになんとか辿り着いた。

私は、その後ラリーコースを設定して走らせる立場になっていくが、関根基司はプリンスの主要ドライバーとしてこの日本アルペンラリーの王座を狙うまでに成長していく。そして後年、私と彼は共著として単行本「PMC・Sにみる日本のモータースポーツ」を上梓するまでになる。

もちろんその当時、面識は全くなかった。
しかし、モータースポーツを通じて知り合えた仲間は“理解しあえる最良の友”であると、年月を経るにつけ思うようになった。 
 

写真:単行本 「PMC・Sにみる日本のモータースポーツ」
茶木寿夫/関根基司 共著
ISBN978-4-9905817-0-1
定価2,000円+消費税
アマゾンドットコムで購入可。
 

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第2章 モータースポーツに魅せられて 11 「いざ日本最高峰の日本アルペンラリーへ その2」    
 
(文中敬称略)   
 
第12回の日本アルペンラリー第二ステージは、岐阜の山奥、北アルプスの濁河温泉から始まった。イメージ 1
 
ここは車でいける一番高い所にある温泉だ。そこへ通じる道は、山肌を削っただけの様な道路で、路肩にガードレールなどという気のきいたものはない。1m横はまさに“千尋の谷”だ。ラリーコース図にも「ここで落ちたらパラシュートがないと助からない。十分注意して走行せよ」と書いてある。
 
そこは無事に抜け、岐阜県内の古川、神岡、天生峠、ひるがの高原、郡上八幡などを周回し、いよいよ最後の山場である乗鞍岳の登頂に差し掛かった。
 
この年、平湯から上がる乗鞍スカイライン道路は通行が出来ず、乗鞍ヒルクライムは戦後に造られた裏側の通称自衛隊道路と呼ばれる道路であった。この道路は子供の頭大の石がごろごろしており、悪路と云うよりは河原を走っているのかと思えるような道路で、そこを平均速度40キロ近い速い速度で駆け上がらなければならない。
 
4日目の未だ世が明けぬ3時頃、その挑戦は始まった。悪路に加え、漆黒の闇、山霧、空気の薄い高高度走行、既に1,600キロ以上走ってきているクルーの疲労、マシンの損傷、そして速い速度に、各チーム最後の死力を尽くして駆け上って行く。

我々も永瀬の巧みなドライブで走るが、何しろ山霧が出ており、前が見えずらい。
ナビの私は叫んだ。「5秒遅れ、10秒遅れ」、その声にドライバーはコンマ1秒でも取り戻そうと、必死になってアクセルを踏む。今回のコース設定車は例のスカイライン2000GTだ。あの大きいスカイラインでこんなに速く走ったのか! そんな思いが脳裏をかすめる。イメージ 2
 
途中での先行作戦を食い止めるために、中腹の“位が原山荘”付近にチェックポイントがあった。そしてさらに頂上を目指して走る。しかし一体どの辺を走っているのか分からない。とにかく1秒でも早く走りたい。
 
そんな気持ちでフロントについているライトと云うライトは全て点け、ライトに照らされる路面だけを見て、ひたすら走る。そして突然ピッ―と云う笛が鳴った。頂上のチェックポイントだった。ここが実質的に最後のチェックポイントで、ここで2時間近くの休憩があった。全車が駆け上がるのを待って、今来た同じ道を下る為の措置だ。
 
そして、満身創痍のラリー車を修理するため、標高3,000m近いこの乗鞍山頂の畳平に、突如としてサービス村が出現したのであった。
 
その後は、最終ゴールである神奈川県の大磯ロングビーチに向かうだけである。この乗鞍から郷里の富山へ直接帰ればわずか3時間で帰れるが、最終ゴールまで行かなくては失格になるから事故を起こさないように注意し、我々は国道20号線の塩尻峠を抜け、一路大磯ロングビーチを目指した。
 
第二ステージ減点9。トータル減点21点で、総合成績は15位。これは入賞となり主催者から賞状を貰った。初出場にして15位の成績に、我々は十分満足した。
 
その大磯ロングビーチで、私を探して声をかけてきた人がいた。それは三菱ラリーチームの山崎英一だった。山崎英一はラリー界のスター篠塚健次郎育ての親として知られる人だ。その憧れの三菱チームの人から何の話かと思ったら、三菱の機関紙で取り上げるためのインタビューだった。

そして、三菱自動車は、このラリーにプライベートで参加している三菱車の上位3台に、特別賞として賞金を出していた。我々は3万円貰った。
「帰ったら、チームの仲間とこれで御苦労さん会が開ける」、そう思って有り難く頂戴した。
 

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