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冒涜と言うなら生温い

 あれから67年と言います。でも、あの日に何が起きたのか、確かな記憶をお持ちの方は、年々少なくなっていきます。私の父は、今年77歳になりました。当時は、たった10歳の少年でしかありません。父の記憶と言えば、「芋ばっかり食わされた!!」「たまに米があるかと思えば,芋のツルの入ったお粥だった。」と、食べ物の不満から始まります。次に出てくる事と言えば、「働き手の長男・次男は兵隊に行っていたから、畑仕事だって大人と同じようにやっていた。だから、馬の扱いは慣れたものだ。」と言います。
 
 父の当時の話で、もっとも印象にあるのは、父がどんなに当時の苦労話をしようとも、当時はたった10歳の少年でしかなったという事実を誰もが感じる話です。
 
 「S市が空襲されているのを海越しに眺めていたが、花火のように見えて、ずーっと見とれていた。」
 
 10歳の少年には、空襲の下で逃げまどい、火に焼かれ、多くの人が家を失い、家族を失い、友を失い、恩師を失い、多くの人々が死んでいくという現実は、実体験する事の無い田舎の子供には、現実離れした話だったのでしょう。
 
 父は、10人兄弟の下から2番目で、長男と二男は兵役に就き、長男である叔父は、南方で戦った経験があります。田舎の出身としては、異例ともいえる部隊に所属していた事が誇りであったようで、酒を飲むと時々思い出したようにその部隊の自慢話はしてくれたものの、戦争の話は一切してくれませんでした。多分、家族にも戦争の話は、一切していなかったのではないかと思います。
 
 当時は、幼稚な子供であった私には、十分に理解できなかったし、今にして思えばもっと当時の話を聞いておけば良かったと後悔するばかりです。ただ、当時の話を聞き出そうとしても、決して話してくれはしなかったろうと、今では理解しています。
 
 私の父とこの叔父は、中が良いのか悪いのか、子供心にはちっとも分かりませんでした。普段は、長男を立てる父でしたが、酒を飲んで昔話になると必ず喧嘩になっていました。当時の私には、「また始まったよ!」ぐらいにしか思っていませんでしたが、今考えると叔父は言葉にできない言葉を相当呑み込んでいたのではないでしょうか。もし、戦地の話を父が聞いていたとしたら、叔父に対して言葉使いはもっと違ったものになっていたのではないかと思うのです。なぜなら、父は自衛官だったからです。
 
 「戦争を知らない子供たち」という歌があります。私も歌った覚えがありますが、今にして思えばロクでもない歌を歌っていたものだと思います。「反戦歌」と言えば聞こえは良いですが、全共闘世代の愛唱歌でもあり、当時の日本では、所謂「流行」でもあったのでしょうが、こんな歌がテレビやラジオで盛んに流れていた事を考えると背筋が寒くなります。
 
 戦争を実体験として経験した人と、所謂「内地にいた人」では、その温度差は大きいのでしょう。
 
 日本では、戦後余り時を経ず左翼に洗脳された若者が、その猛々しいエネルギーを学生運動という間違った事に使ってしまいましたが、日本は間違った道を歩む事はありませんでした。それは、戦争を経験した世代が、「何を馬鹿な事をしている!」という良識を持って、この時代の流れを見ていたからではないかと思うのです。
 
 どちらが良識を持っていたかは、その後の「よど号ハイジャック」や「浅間山荘」を見れば明らかな事だと思います。
 
 さて、韓国・ロシア・シナと領土問題で日本を馬鹿にしたようなパフォーマンスを続けていますが、ここにきて激しくなっているのは何故なんでしょう。確かに、反日民主政権の対応は褒められるようなものではないというより、「売国政権」の名に相応しい対応しかしていませんし、相手が調子に乗るような事しかしていません。
 
 しかし、もっとも大きい理由は、かの国の指導者が、「戦争を知らない子供たち」だからではないのでしょうか。
 大東亜戦争を知らない世代は、日本ばかりではなく、実は特亜三国とロシアも同じなんです。日本と戦争をしていた時代を知る国は、日本を本気で怒らせることを極力嫌いましたが、今は「戦争を知らない子供たち」の世代なんです。しかも、民主党という「売国政権」が親中媚韓である以上、調子に乗るのは当たり前の事です。
 
 もし、先人を冒涜する様な事を今の政権がしているといううなら、それは生温い話でしょう。今の外交を見る限り、先人が命を懸けて守ろうとした全てを否定しているようにしか思えません。
 
 自民党の政治も褒められたものではありませんでしたが、先人や英霊の眠る靖国神社をギリギリ守ってきた事はちょっとだけ評価してもよいし、その流れがあるからこそ「尖閣で慰霊祭」ということになるのでしょう。でも、上陸を認めない現政府は、慰霊の気持ちすら持ちえない外道ということなんでしょう。
 
 外道が語る言葉は、冒涜などと言う生温い言葉ではないように思いますけどね。
 
 明日は、靖国神社に参拝に行かせて頂きます。
 「終戦記念日」と言う人がいたら「日本人として屈辱の日」と言ってあげましょう。
 
 テレビでは、「ポツダム宣言」を受け入れ、「無条件降伏」をした日と言いますが、それこそが先人や英霊の方々の全てを否定する事になる事を知るべきです。
 
 
 
 
 

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続きです
 
 こうして各お部屋を回られた陛下は、一番最後に禅定の間までお越しになられます。

 この部屋の前で足を停められた陛下は、突然、直立不動の姿勢をとられ、そのまま身じろぎもせずに、ある一点を見つめられます。
 それまでは、どのお部屋でも満面に笑みをたたえて、おやさしい言葉で子供達に話しかけられていた陛下が、この禅定の間では、うってかわって、きびしいお顔をなされた。
 入江侍従長も、田島宮内庁長官も、沖森知事も、県警本部長も、何事があったのかと顔を見合わせます。
 重苦しい時間が流れる。

 ややしばらくして、陛下がこの部屋でお待ち申していた三人の女の子の真ん中の子に、近づかれました。
 そしてやさしいというより、静かなお声で、
 「お父さん。お母さん」とお尋ねになったのです。

 一瞬、侍従長も、宮内庁長官も、何事があったのかわからない。

 陛下の目は、一点を見つめています。そこには、三人の女の子の真ん中のこの手には、二つの位牌が胸に抱きしめられていたのです。
 陛下は、その二つの位牌が「お父さん?お母さん?」とお尋ねになったのです。

 女の子が答えます。
 「はい。これは父と母の位牌です」

 これを聞かれた陛下は、はっきりと大きくうなずかれ、「どこで?」とお尋ねになります。

 「はい。父は、ソ満国境で名誉の戦死をしました。母は引揚途中で病のために亡くなりました」この子は、よどむことなく答えました。

 すると陛下は
 「おひとりで?」とお尋ねになる。
 父母と別れ、ひとりで満州から帰ったのかという意味でしょう。

 「いいえ、奉天からコロ島までは日本のおじさん、おばさんと一緒でした。船に乗ったら船のおじさんたちが親切にしてくださいました。佐世保の引揚援護局には、ここの先生が迎えにきてくださいました」

 この子が、そう答えている間、陛下はじっとこの子をご覧になりながら、何度もお頷かれました。そしてこの子の言葉が終わると、陛下は「お淋しい」と、それは悲しそうなお顔でお言葉をかけらた。

 しかし陛下がそうお言葉をかけられたとき、この子は
 「いいえ、淋しいことはありません。私は仏の子です。仏の子は、亡くなったお父さんとも、お母さんとも、お浄土に行ったら、きっとまた会うことができるのです。お父さんに会いたいと思うとき、お母さんに会いたいと思うとき、私は御仏さまの前に座ります。そしてそっとお父さんの名前を呼びます。そっとお母さんの名前を呼びます。するとお父さんもお母さんも、私のそばにやってきて、私を抱いてくれます。だから、私は淋しいことはありません。私は仏の子供です」

 こう申し上げたとき、陛下はじっとこの子をご覧になっておいででした。この子も、じっと陛下を見上げています。陛下とこの子の間に、何か特別な時間が流れたような感じがしたそうです。

 そして陛下が、この子のいる部屋に足を踏み入れられます。部屋に入られた陛下は、右の御手に持たれていたお帽子を、左手に持ちかえられ、右手でこの子の頭をそっとお撫でになられました。
 そして陛下は、
 「仏の子はお幸せね。これからも立派に育っておくれよ」と申された。

 そのとき、陛下のお目から、ハタハタと数的の涙が、お眼鏡を通して畳の上に落ちた。
 そのとき、この女の子が、小さな声で「お父さん」と呼んだそうです。これを聞いた陛下は、深くおうなずきになられた。
 その様子を眺めていた周囲の者は、皆、泣いたそうです。東京から随行してきていた新聞記者も、肩をふるわせて泣いていた。

 子供達の寮を後にされた陛下は、お寺の山門から、お帰りになることになります。山門から県道にいたる町道には、たくさんの人達が、自分の立場を明らかにする掲示板を持って道路の両側に座り込んでいます。その中に「戦死者遺族の席」と掲示してあるところまでお進みになった陛下は、ご遺族の前で足を停められると、

 「戦争のために大変悲しい出来事が起こり、そのためにみんなが悲しんでいるが、自分もみなさんと同じように悲しい」と申されて、遺族の方達に、深々と頭を下げられました。
 遺族席のあちここちから、すすり泣きの声が聞こえてくる。
 陛下は、一番前に座っていた老婆に声をかけられます。
 「どなたが戦死されたのか?」

 「息子でございます。たったひとりの息子でございました」
 そう返事しながら、老婆は声を詰まらせます。

 「うん、うん」と頷かれながら陛下は、「どこで戦死をされたの?」

 「ビルマでございます。激しい戦いだったそうですが、息子は最後に天皇陛下万歳と言って戦死をしたそうででございます。でも息子の遺骨は、まだ帰ってきません。軍のほうからいただいた白木の箱には、石がひとつだけはいっていました。天皇陛下さま、息子はいまどこにいるのでしょうか。せめて遺骨の一本でも帰ってくればと思いますが、それはもうかなわぬことでございましょうか。天皇陛下さま。息子の命はあなたさまに差し上げております。息子の命のためにも、天皇陛下さま、長生きしてください。ワーン・・・・」

 そう言って泣き伏す老婆の前で、陛下の両目からは滂沱の涙が伝わっています。

 そうなのです。この老婆の悲しみは、陛下の悲しみであり、陛下の悲しみは、老婆の悲しみでもあった。
 そばにいた者全員が、この様子に涙した。

 遺族の方々との交流を終えられた陛下は、次々と団体の名を掲示した方々に御会釈をされながら進まれます。そして「引揚者」と書かれた人達の前で、足を停められた。
 そこでは、若い青年たちが数十人、一団となって陛下をお待ちしていたのです。実はこの人達は、シベリア抑留されていたとき、徹底的に洗脳され、日本革命の尖兵として日本の共産主義革命を目的として、誰よりも早くに日本に帰国せしめられた人達です。
 この一団は、まさに陛下の行幸を利用し、陛下に戦争責任を問いつめ、もす陛下が戦争責任を回避するようなことがあれば、暴力をもってしても天皇に戦争責任をとるように発言させようと、待ち構えていたのです。そしてもし陛下が戦争責任を認めたならば、ただちに全国の同志にこれを知らしめ、日本国内で一斉に決起して一挙に日本国内の共産主義革命を実施し、共産主義国家の樹立を図る手はずになっていたのです。

 そうした意図を知ってか知らずか、陛下は、その一団の前で足をお止めになられます。そして「引揚者」と書いたブラカードの前で、深々とその一団に頭を下げられた。

 「長い間、遠い外国でいろいろ苦労して大変であっただろうと思うとき、私の胸は痛むだけでなく、このような戦争があったことに対し、深く苦しみをともにするものであります。みなさんは、外国において、いろいろと築き上げたものを全部失ってしまったことであるが、日本という国があある限り、再び戦争のない平和な国として新しい方向に進むことを希望しています。みなさんと共に手を携えて、新しい道を築き上げたいと思います」

 陛下の長いお言葉だったのですが、そのときの陛下の御表情とお声は、まさに慈愛に満ちたものでした。
 はじめは眉に力をいれていたこの「引揚者」の一団は、陛下のお言葉を聞いているうちに、陛下の人格に引き入れられてしまった。
 「引揚者」の一団の中から、ひとりが膝を動かしながら陛下に近づきます。
 そして、

 「天皇陛下さま。ありがとうございました。いまいただいたお言葉で、私の胸の中は晴れました。
引揚げてきたときは、着の身着のままでした。外地で相当の財をなし、相当の生活をしておったのに、戦争に負けて帰ってみれば、まるで赤裸です。生活も最低のものになった。ああ、戦争さえなかったら、こんなことにはならなかったのにと思ったことも何度もありました。そして天皇陛下さまを恨んだこともありました。しかし、苦しんでいるのは、私だけではなかった。天皇陛下さまも苦しんでいらっしゃることが、いま、わかりました。今日からは決して世の中を呪いません。人を恨みません。天皇陛下さまと一緒に、私も頑張ります!」

 と、ここまでこの男が申した時、そのそばにいたシベリア帰りのひとりの青年が、ワーッと泣き伏したのです。
 「こんな筈じゃなかった。こんな筈じゃなかった。俺が間違えていた。俺が誤っておった」と泣きじゃくるのです。すると数十名のシベリア引揚者の集団のひとたちも、ほとんどが目に涙を浮かべながら、この青年の言葉に同意して泣いている。
 彼らを見ながら陛下は、おうなずきになられながら、慈愛をもって微笑みかけられた。
何も言うことのない、感動と感激の場面だったそうです。

 いよいよ陛下が、御料車に乗り込まれようとしたとき、寮から見送りにきていた先ほどの孤児の子供達が、陛下のお洋服の端をしっかりと握り、
 「また来てね」と申したそうです。

 すると陛下は、この子をじっと見つめ、にっこりと微笑まれると
 「また来るよ。今度はお母さんと一緒にくるよ」と申された。

 御料車に乗り込まれた陛下が、道をゆっくりと立ち去っていかれます。そのお車の窓からは、陛下がいつまでも御手をお振りになっていた。
 
 宮中にお帰りになられた陛下は、次の歌を詠まれています。

 みほとけの
  教へまもりて すくすくと
   生い育つべき 子らに幸あれ
 
 
続きです
 
意識は、懸命に文字を探そうとしている。けれどその文字はまったく見えず、発する言葉も声もなくなってしまった。ただただ、目から涙がこぼれてとまらない。どう自分をコントロールしようとしても、それがまったく不可能な状態になってしまわれたのです。

 その時、誰かの手が、自分の背中に触れるのを感じた。
 入江侍従さんが、「落ち着いて、落ち着いて」と背中に触れていてくれたのです。

 この時、住職は、前に挨拶に立った知事の姿を見て、自分はあんなことは絶対にない、と思っていたのに、知事さんと同じ状態になってしまったと述べています。

 こうしたことは、外国の大使の方々も同様のことがあるのだそうです。
 外国の大使の方々は、日本に駐在していていよいよ日本を離れるというときに、おいとまごいのために陛下のところにご挨拶に来る習わしになっています。
 駐日大使というと、長い方で6〜7年、短い方でも2〜3年の滞在なのですが、帰国前に陛下にお目にかかってお別れのご挨拶をする時、ほとんどの駐日大使が「日本を去るに忍びない、日本には陛下がおいでになり、陛下とお別れをすることがとても悲しいともうされるのだそうです。
 この言葉が儀礼的なものではないことは、その場の空気ではっきりとわかるのだそうです。そして陛下とお話しをされながら、駐日大使のほとんどの方が、目に涙を浮かべられ、言葉を詰まらせる。特に大使夫人の方々などは、頬に伝わる涙を拭くこともせず、泣きながら陛下においとまごいをされるといいます。
 こうしたことは、その大使が王国であろうと、共和国であろうと、共産圏の方であろうと、みな同じなのだそうです。むしろ共産圏の国々の方々のほうが、より深い惜別の情を示される。

 さて、ようやく気を取り直した住職は、自らも戦地におもむいた経験から、天皇皇后両陛下の御心に報いんと、羅災孤児たちの収容を行うことになった経緯を奏上します。この奏上が終わると、何を思われたか、陛下が壇上から床に降り立ち、つかつかと住職のもとにお近寄りになられた。
 「親を失った子供達は大変可哀想である。人の心のやさしさが子供達を救うことができると思う。預かっているたくさんの仏の子供達が、立派な人になるよう、心から希望します」と住職に申された。

 住職はそのお言葉を聞き、身動きさえもままならなかったといいます。

 この挨拶のあと、陛下は、孤児たちのいる寮に向かわれます。
 孤児たちには、あらかじめ陛下がお越しになったら、部屋できちんと挨拶するように申し向けてありました。
 ところが、一部屋ごとに足を停められる陛下に、子供達は誰一人、ちゃんと挨拶しようとしない。
昨日まで、あれほど厳しく挨拶の仕方を教えておいたのに、みな、呆然と黙って立っている。
 すると陛下が子供達に御会釈をなさるのです。
 頭をぐっとおさげになり、腰をかがめて挨拶され、満面に笑みをたたえていらっしゃる。れはまるで、陛下が子供達を御自らお慰めされているように見受けられたそうです。
 そして陛下は、ひとりひとりの子供に、お言葉をかけられる。

 「どこから?」
 「満州から帰りました」
 「北朝鮮から帰りました。

 すると陛下は、この子供らに
 「ああ、そう」とにこやかにお応えになる。
 そして、
 「おいくつ?」
 「七つです」
 「五つです」と子供達が答える。

 すると陛下は、子供達ひとりひとりにまるで我が子に語りかけるようにお顔をお近づけになり、「立派にね、元気にね」とおっしゃる。

 陛下のお言葉は短いのだけれど、その短いお言葉の中に、深い御心が込められています。この「立派にね、元気にね」の言葉には、「おまえたちは、遠く満州や北朝鮮、フィリピンなどからこの日本に帰ってきたが、お父さん、お母さんがいないことは、さぞかし淋しかろう。悲しかろう。けれど今、こうして寮で立派に日本人として育ててもらっていることは、たいへん良かったことであるし、私も嬉しい。これからは、今までの辛かったことや悲しかったことを忘れずに、立派な日本人になっておくれ。元気で大きくなってくれることを私は心から願っているよ」というお心が込められているのです。
 そしてそのお心が、短い言葉で、ぜんぶ子供達の胸にはいって行く。
 
 陛下が次の部屋にお移りになると、子供達の口から「さようなら、さようなら」とごく自然に声がでるのです。すると子供達の声を聞いた陛下が、次の部屋の前から、いまさようならと発した子供のいる部屋までお戻りになられ、その子に「さようならね、さようならね」と親しさをいっぱいにたたえたお顔でご挨拶なされるのです。

 次の部屋には、病気で休んでいる二人の子供がいて、主治医の鹿毛医師が付き添っています。その姿をご覧になった陛下は、病の子らにねんごろなお言葉をかけられるとともに、鹿毛医師に
 
 「大切に病を治すように希望します」と申された。

 鹿毛医師は、そのお言葉に、涙が止まらないまま、
 「誠心誠意万全を尽くします」と答えたのですが、そのときの鹿毛医師の顔は、まるで青年のように頬を紅潮させたものでした。
 
続く


 憲法記念日を迎えましたが、まともな日本人なら現憲法制定を祝う気になれるはずもない様に思います。占領軍が、「勝てば官軍」とばかりに国際法も無視して押し付けていった憲法を何時まで後生大事に守るつもりなのか、昨年の大震災でも何の役にも立たなかった憲法に何の価値があるのか、「日本の憲法を考える日」にでも変えた方が良いのではないでしょうかね。
 自民党は、改憲に向けて起草案を出したようですが、保守というのなら改憲ではなく自主憲法の制定ではないのでしょうか。現憲法を停止したのち、明治憲法に戻し、現状に合うように改憲するぐらいの気概を見せてほしいものです。
 日本の憲法は、日本の伝統文化を踏まえたうえで、日本人の魂を反映したものでなければいけないと思うのです。その理由は、昨年の大震災後の天皇陛下のTVを通してのお言葉や天皇皇后両陛下が被災地や避難所をお見舞いするお姿を見た日本人なら理解できるのではないでしょうか。
 
 以下は、調寛雅(しらべ かんが)氏という佐賀県の因通寺の住職によって書かれた「天皇さまが泣いてござった」という本から、先帝陛下が戦後各地を行幸し佐賀県を訪れた時のお話です。
 字数制限の関係で已む無く分けて掲載する事をお許しください。
 
  
  陛下が佐賀県に行幸されたのは、昭和24年5月24日のことです。
この日、陛下は、たってのご希望で、佐賀県三養基郡にある因通寺というお寺に行幸されています。

 因通寺は、戦時中に亡くなられた第十五世住職の恒願院和上が、皇后陛下の詠まれた歌を大きな幟(のぼり)にして、それを百万人の女性たちの手で、歌を刺繍して天皇陛下と皇后陛下の御許に奉じ奉ろうとされていたのです。
 その歌というのが、昭和13年に皇后陛下が戦死者に対して詠まれた次の二首です。

 やすらかに 眠れとぞ思う きみのため いのち捧げし ますらをのとも

 なぐさめん ことのはもがな たたかいの にはを偲びて すぐすやからを

 というもので、陛下もこのことにいたく喜ばれ、皇后陛下はすぐに針をおとりになって、御みずからこの大幟に一針を刺繍してくださったという経緯があります。また終戦後は、因通寺は、寺の敷地内に「洗心寮」という施設を作り、そこで戦争で羅災した児童約40名を養っていたのです。
 陛下が寺にお越しになるという当日、寺に至る県道から町道には、多くの人が集まっていました。道路の傍らはもちろんのこと、麦畑の中にも、集まった方がたくさんいたそうです。

 その町道の一角には、ある左翼系の男が、麦畑を作っていたそうです。この男は、行幸の一週間くらい前までは、自分の麦畑に入る奴がいたら竹竿で追っ払ってやる、などと豪語していたのですが、当日、次々と集まってくる人達の真剣なまなざしや、感動に満ちあふれた眼差しをみているうちに、すっかり心が変わってしまい、自ら麦畑を解放して「ここで休んでください、ここで腰を下ろしてください」などと集まった方々に声をかけていたといいます。
 朝、8時15分頃、県道から町道の分かれ道のところに、御料車が到着しました。
 群衆の人達からは、自然と「天皇陛下万歳」の声があがります。誰が音頭をとったというものではありません。群衆の自然の発露として、この声があがった。

 御料車が停車すると、群衆の万歳の声が、ピタリとやみます。一瞬、静まり返ったところに、車から、まず入江侍従さんが降り立つ。そのあとから、陛下が車から降りられると、入江侍従さんが、陛下に深く頭を下げられる。その瞬間、再び群衆の間から、「天皇陛下万歳」の声があがります。

 陛下は、その群衆に向かって、御自らも帽子をとってお応えになられる。その姿に、群衆の感動はいっそう深まったといいます。

 ここに集まった人達は、生まれてこのかた、お写真でしか陛下のお姿を拝見したことがない。その陛下が、いま、目の前におわすのです。言い表すことのできないほどの感動が、群衆を包み込んだ。

 お車を停められたところから、因通寺の門まで、約700メートルです。その700メートルの道路の脇には、よくもこんなにもと思うくらい、たくさんの人が集まっていた。そのたくさんの人達をかきわけるようにして、陛下は一歩一歩お進みになられたそうです。

 町役場のほうは、担当の役席者が反日主義者(当時、まともな人は公職追放となり、共産主義者が役席ポストに座っていた)で、まさかこんなにも多くの人が出るとはおもってもみなかったらしく、道路わきのロープとかもありません。陛下は、人混みのまっただ中を、そのまま群衆とふれあう距離で歩かれたのです。そして沿道の人達は、いっそう大きな声で「天皇陛下万歳」を繰り返す。その声は、まるで大地そのものが感動に震えているかのような感じだったと言います。

 陛下が寺の山門に到着します。山門の前は、だらだらした上り坂になっていて、その坂を上り詰めると、23段の階段がある。その階段を登りきられたとき、陛下はそこで足を停め、「ホーッ」と感嘆の声をあげられたそうです。

 そうです。
石段を登りきった目の前に、新緑に彩られた因通寺の洗心の山々がグッと迫っていたのです。陛下は、その自然の織りなす姿に、感嘆の声をあげられた。陛下が、その場で足をお留めになられている時間があまりに長いので、入江侍従さんが、陛下に歩み寄られ、何らかの言葉を申し上げると、陛下はうなずかれて、本堂の仏陀に向かって恭しく礼拝をされます。そして孤児たちがいる洗心寮に向かって歩かれます。寮の二階の図書室で、机を用意して、そこで佐賀県知事が陛下にお迎えの言葉を申し上げるという手はずになっていたのです。
 図書室で、所定の場所に着かれた陛下に、当時佐賀県知事だった沖森源一氏が、恭しく最敬礼をし、陛下にお迎えの言葉を述べます。
 「本日ここに、90万県民が久しくお待ち申し上げておりました天皇陛下を目の当たりに・・・・」
 そこまで言上申し上げていた沖森知事は、言葉が途切れてしまいます。

 知事だって日本人です。明治に生まれ、大正から昭和初期という日本の苦難の時代を生き、その生きることの中心に陛下がおわし、自分の存在も陛下の存在と受け止めていた知事は、陛下のお姿を前に、もろもろの思いが胸一杯に広がって、嗚咽とともに、言葉を詰まらせてしまったのです。
 するとその時、入江侍従さんが、知事の後ろにそっと近づかれ、知事の背中を静かに撫でながら、「落ち着いて、落ち着いて」と申された。

 すると、不思議なことに知事の心が休まり、あとの言葉がスムーズに言えるようになったのだそうです。
 この知事のお迎えの挨拶のあと、お寺の住職が、寺にある戦争羅災孤児救護所のことについてご説明申し上げることになっていました。
 自分の前にご挨拶に立った知事が、目の前で言葉を詰まらせたのです。自分は、あんなことがあってはいけない、そう強く自分に言い聞かせると、住職は奏上文を書いた奉書を持って、陛下の前に進み出ます。
 そして書いてある奏上文を読み上げた。

 「本日ここに、一天万乗の大君をこの山深き古寺にお迎え申し上げ、感激これにすぎたるものはありません」住職は、ここまで一気に奏上文を読み上げた。

 ところが、ここまで読み上げたところで、住職の胸にもググっと熱いものが突き上げます。
 引き揚げ孤児を迎えに行ったときのこと、戦争で亡くなった小学校、中学校、高校、大学の級友たちの面影、「天皇陛下万歳」と唱えて死んで行った戦友たちの姿と、一緒に過ごした日々、そうしたありとあらゆることが一瞬走馬灯のように頭の中に充満し、目の前におわず陛下のお姿が霞んで見えなくなり、陛下の代わりに戦時中のありとあらゆることが目の前に浮かんで、奏上申し上げる文さえも奏書から消えてなくなったかのようになってしまったのだそうです。

  続く

今年も終わります

 今年一年を振り返れば、「震災」と「原発」という事になるのでしょう。父母が被災地に住んでいた事もあり、震災直後の一カ月はあっという間だった様な気もします。また、震災直後の仕事の異常な忙しさもあって、ついに被災地に行く事も出来ないまま一年が終わろうとしています。
 
 個人的には、師とも兄とも思っていた方が亡くなり心の中に穴が空いたような一年でもありました。
 
 来年は、よい一年でありたいと思いますが、現政権下で果たしてまともな一年が送れるものなのか不安ではあります。しかし、心を新たに新しい一年を迎えたいと思います。必ず来年は良い年になると信じて・・・。
 
 皆様も良いお年をお迎えください。

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