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14年ぶりに行ったカンボジア。
初めて行ったのは1997年。
まだポルポト政権の残党が残っていて
シェムリアップと首都プノンペンだけが危険度1(十分注意してください)
他の地域は危険度2(渡航の是非を検討してください)
というものでした。
遺跡内では4〜12歳の子供たちがついてまわり
絵葉書やキーホルダーを売っていたり
商品を持っていない子は階段の上り下りに手を貸して
チップをねだっていました。
日本人はカンボジア通貨であるリエルを持たず
1ドル紙幣を彼らに渡します。
彼らにとっては大金である1ドル紙幣が簡単にもらえる現実。
大人になって「可愛らしさ」がなくなると同時に
通用しなくなることなど思いもしないで。
ジャングルの中にある「タ・プロム」には必ず銃を持った護衛がつき
その人も観光客にキーホルダーを売ってきます。
「ジャングルにはまだ地雷が残っているから絶対に入らないでください」
シェムリアップには大勢の片手片足のない人たちがいました。
首都であるプノンペンにはもっともっと・・・
今では「タ・プロム」のあちらこちらに策が作られ
遺跡や植物に補強工事がなされています。
ここにはアップしませんが、写真を撮るにも困難なほど大勢の観光客も
訪れています。
食事は毎回違うレストランでした。
これはフランス風カンボジア料理の前菜のサラダ。
カンボジアはフランス領でしたから。
以前は同じホテルに食事をしに戻ったのに。
それも毎回「ビュッフェ」という名のセルフサービスだったのに。
有料公衆トイレの入り口にいたネコ。
お手洗いはほとんどが水洗になっていました。
以前は遺跡内にお手洗いはなく
宿泊ホテルまで戻らなければいけなかったのに・・・
14年前とはまるっきり違う、写真付き入場チケットのシステムに驚く私に
「最期に来たのはいつ?」
とガイドのシンさんが尋ねました。
「2001年よ。
1997年と98年はは遺跡入場に写真なんて必要なかったし
最後に来たときは写真付きチケット制になっていたけれど
その写真は日本から持参しないといけなかったのに」
「1997年か・・・よく来たね」
「シンさんはもうガイドだった?
ガイドさんはみんな18歳くらいだったけど」
「いや、そのときはまだガイドじゃなかった」
彼は34歳でした。
「どこで日本語を勉強したの?」
「学校・・・じゃなくて塾かな。
お金を貯めて通ったんだ」
「それまでどんな仕事をしていたの?」
「バイクの修理だよ。
こっちは車じゃなくてバイク社会だからね」
「じゃあ、今でもバイク修理できるんだね」
「もちろんさ!!
・・・でも、もうしたくないな。辛い仕事だからね」
フリータイムにそんな話をしてバスに戻ってホテルに帰ります。
車内でシンさんが
「どんな質問でもしてください」
と言うと何本もの手が挙がりました。
「この国で一番いい仕事はやっぱり公務員かな?」
「公務員の月給は1万円。
人のために働いて安い給料なんてしたくないですよね」
「じゃあどんな仕事がいいの?」
「ホテルのスタッフ。
かっこいい制服着て、涼しいところで仕事できるから。
外国人のお客さんを迎えるために必要なことだから」
「ここには電線が通っていますが、まだ電気のない家がたくさんあります。
電気を知らない人もいます。
水道がないところも多くて、井戸で水を汲んでいます。
布団はありません。
必要ないから」
「シンさんも?」
「ボクが子供のときは石の上で寝ていましたよ」
あとでこっそりシンさんが私に囁きました。
「みんないいものを知ってるから驚くんだよね。
知らなかったら不便に思うこともないのに」
私が泊まったシェムリアップのホテルのお部屋。
クーラーが効いていました。
1997年に泊まったホテルはクーラーも電話もなく
モーニングコールはノックでした。
「シンさんはガイドの仕事好き?」
バスを降りてから個人的に尋ねました。
「カンボジアの文化を伝えるいい仕事だと思うよ。
でも毎日はしない。
ボクは真っ黒でしょう?」
カンボジア人はたしかに地黒ですが、彼はもっと真っ黒でした。
「こんな暑い中で毎日仕事をしていたら身体がダメになる。
ガイドは一日おきだね。
お金がたくさんあっても身体を壊したら何にもならないから」
バスの中から見たハス畑。
2001年にシェムリアップ空港が閉鎖となって
バスでバンコクへ移動したとき、
私の心を癒してくれたのは車窓の風景でした。
牛が草をはみ、人々がのどかに立ち働く姿は平和そのものに見えました。
行き過ぎた生活の向上は、大事な何かを失うのかもしれません。
ツアーでは遺跡見学や食事やお土産購入を重視しますが
天気とガイドさんが一番旅の印象を左右させるものだと
いつも思います・・・
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