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この写真には日付が入っています。 右下に2005年9月13日。 でもこれを撮影したのは実は12月。 タオルミーナで買ったばかりのデジカメの設定を変えないまま撮影したので、日付が違っています。 一緒に行ったのは添乗員の友人。 彼女はアメリカ・カナダ・オセアニアが主でヨーロッパはほとんど行きません。 (私はヨーロッパが主なのでこれらの国へはほとんど行きませんが) その彼女の 「アルベロベッロとタオルミーナとアマルフィに行きたい!」 の一言で二人旅が始まりました。 私は仕事で100回以上イタリアへ行っていますが、仕事は仕事です。 好きなところへ行けることはまずないので、彼女の案に乗りました。 私が行きたいのはシラクサとパレルモのシチリア地方美術館。 南イタリア周遊ツアーはパレルモからナポリまで実質5日間で回るツアーが多く これらの場所に行くことはほとんどありません。 ずっとシラクサのマドンニーナ聖堂とドゥオモ、そしてパレルモのシチリア地方美術館に展示されている アントネッロ・ダ・メッシーナの「聖母マリアへのお告げ」を見たいと思っていました。 仕事ではお客さまが迷子にならないように、スリが紛れ込まないようにチェックすることで手一杯。 自分で絵画を楽しむことはできません。 それまでにもプライベートでローマへ2回、フィレンツェとミラノ・ジェノバへ一回ずつ旅していました。 ローマは両親と一回。 あとはすべて添乗員以外の友人です。 この長い南イタリアの旅で同業者と旅することがどんなに楽がわかりました。 ローマ一泊、バーリ一泊、アルベロベッロ2泊、ナポリ一泊、夜行寝台、シラクサ2泊、タオルミーナ2泊、パレルモ1泊、アグリジェント1泊、夜行寝台、アマルフィ1泊、ローマ1泊の 15泊17日の旅。 いろんなトラブルもあったのに無事で有意義な旅になったのは友人Hのおかげだと思います。 シラクサでは何十年ぶりという豪雨に見舞われ、列車は運休。 代替バスでカターニャへ移動してから列車に乗り換え。 アマルフィからローマへ戻る前日には列車事故。 日本では報道されなかったようですが、現地では大混乱でした。 友人H「仕事じゃなくてよかったね」 コウ「ホントに。二人だけならどうとでもなるもの」 不思議なことにアルベロベッロやタオルミーナのレストランで 「Capo gruppo(添乗員)だろう?」 と言われ、デザートをサービスされました。 私たち二人ともにそんなオーラがでているのでしょうか・・・? 実はこの旅行で私は目的を果たせませんでした。 「聖母マリアへのお告げ」は貸し出し中だったのです・・・(><) いつかまたプライベートでシチリアへ行きます。 「イタリア古寺巡礼」はこのときの旅のお供でした。 京都大学助教授だった和辻哲郎さんが文部省の海外留学生としてドイツに渡ったのが1927年(昭和2年)のこと。 そのあいだにフランス・イタリアを巡り、日本にいらっしゃる家族へ書簡を送りました。 この本はそれらの主要部分を一本にまとめて刊行したものです。 タオルミーナの景色が気に入ったので、劇場のすぐ下のホテル・ティメオへ昼食に寄ったついでに ここへ泊まる気になって、室はないかと聞いてみると、お気の毒だが満員だという。 (中略) 今はこの地のシーズンである。 2月1日から3月へかけてプリマベッラ・シチリアナ(シチリアの春)のために ローマやナポリからシチリアのパレルモへ五割引きの往復切符が売り出されている。 われわれの乗ってきた列車もわりに込んでいた。 今この地にうんと客が集まっているのも無理はない。 そういう中へ無理に割り込むほどのこともなかろう、というので、やはり予定通り、今日のうちに シラクーサまで行くことにした。 ホテル・ティメオは1970年代から休業していましたが、私たちが行ったときには営業再開していました。 私は和辻さんのようにここでランチにしたかったのですが、ここは5ツ星ホテル。 予算の問題でギブアップしましたが、今では後悔しています。 どんなに高くてもチャンスがあったら経験しておくべきなんですね。 和辻哲郎さんは「風土」「古寺巡礼」が有名ですが、こちらもお奨めの一冊です。 |
機内で読書
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詳細
機内で読んだ本のこと。
コメント(12)
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日本発着のヨーロッパ系航空会社ではほとんどの場合、日本人客室乗務員が乗っています。 ギャレーに置かれたセルフサービスのドリンクを取りに行ったときに、そのかたに声をかけられました。 (ほとんどの航空会社ではエコノミークラスの場合、ギャレーにドリンク・スナックがセルフサービスで置かれています) メアレさん「申し訳ございません。アルコールはセルフサービスではないんです」 私はソフトドリンクと一緒に置かれた赤ワインのボトルに手をかけていました。 コウ「あ、そうなんですか。 そういえば、ビールはいつもお願いしていただいていました」 メアレさん「置いてあれば、セルフサービスと思って飲まれますよね。 うちのスタッフが悪いんです。 スタッフにはアルコールはここに置いておくなと言っているんですが みんな、置いてしまうんですよ。 でもアルコールはお客様の様子を見ながらサービスするので置いておいてはいけないんです。 機内での急性アルコール中毒は本当に多いんですよ」 コウ「そうですよね。 私も何回かそういうかたを見かけたことがあります。 アルコールはセルフサービスではないんですね。 ひとつ勉強になりました」 メアレさん「(プラスチックコップに赤ワインを注ぎながら) お仕事ですよね、帰国ですか?」 こうしてメアレ・祐子さんとのおしゃべりが始まりました。 もう一人、私の同僚がいて話は盛り上がり、最後にメアレさんが出版した本のことを教えていただいたのです。 家に帰った私はすぐに取り寄せ、一気に読みました。 この本は丁寧に出国から現地のこと、帰国のことを説明しています。 私はメアレさんの体験談にうんうん頷いていましたが。 メアレさんから聞いたお話のほうが印象深いものでした。 私もここにツアー中に起こったすべてのことを記事にしているわけではありませんが・・・ ごめんなさい。【メアリ】ではなく【メアレ】でした。 結婚後のご主人の姓です。 |
「山岳会であろうがなんであろうが、剱岳には登れません。 弘法大師が草履三千足を費やして登れなかったという山ですからね。 それにね、剱岳はもともと人が登ってはならない山なんです。 あの山は地獄の針の山です」 前人未踏の剱岳山頂に三角点埋設を命令を受けた陸地測量部三角科の柴崎芳太郎はさまざまな困難と戦いながら、剱岳山頂に立ちますが・・・ モンブランの初登頂成功は1786年8月8日。 それまでモンブランには悪魔が住むと言われていました。 「アルプスの雪の上で一夜を過ごせば生きてふたたび帰ることはない・・・」 雪山で野営する術を知らない時代のことです。 ジュネーブ生まれのド・ソシュールは1760年に初めてシャモニーの谷越しにモンブランを見ました。 「いつか自分が登ってみせる」 しかし年月はいたずらに過ぎていきます。 ソシュールは自分が登れないのであれば登山道を発見した者に多額の報奨金を与えることにしました。 そしてジャック・バルマとガブリエル・パカールがモンブラン初登頂に成功したのです。 ソシュール自身は翌年の夏にバルマの案内でモンブランに登りました。 ここからヨーロッパで登山というスポーツが生まれます。 モンブラン初登頂から80年近く経っているのはソシュールが 「この山は神が斧で割って創った山だから、人間が征服するのは無理だろう」 と言ったほど、切り立っているから。 そのマッターホルン初登頂に成功したのはイギリス人でした。 挿絵画家だったエドワード・ウィンパーは1860年、山の絵を依頼されてツェルマットにやってきました。 そして山の魅力の虜となり、毎年のようにマッターホルンに挑みます。 ウィンパーが登頂に成功したこの日、下山途中でザイルが切れ7人のメンバーのうち4名が氷河の底に消えたのでした。 国内添乗をしていたころの私は信州・北陸チームにいたこともあって 夏の週末は黒部・立山アルペンルートが定番でした。 一番多かった夏は16回のアルペン越え。 立山という山はなく、雄山・大汝・富士の折立で立山三山。 この中で3000メートルを越えているのは雄山(3016メートル)だけ。 剱岳が2999メートルというのもこのときに知りました。 その名前からどれだけ高い山だろうと思っていたのですが、姿を見て納得しました。 山は高さではなく難易度が関係するのですね。 富士山は3776メートル。 これは小学生のときに教えられましたが、日本で2番目に高い山は南アルプスの北岳(3192メートル) 中央道からも見える白峰三山の一つです。 三番目に高いのは奥穂高(3190メートル) これも穂高連山の一つ。 私が国内から海外添乗になるころのバスツアーではバスガイドなしのツアーが主流になりつつあったのでノートを作って勉強していました。 私たちの仕事はガイドではありませんが、お客様には添乗員もガイドも同じように見えます。 海外添乗員になって、せっかく覚えたことも忘れてしまうと思いましたが、毎年夏にはスイスに行きます。 日本では3000メートル以上の山は27。 スイスでは3000メートル以上の山は1506あるといいます。 4000メートル以上は40。 私が国内添乗で覚えたことは、海外で日本人のお客様をご案内するときの役に立っています。 そして、私たちがこうして素晴らしい景色を楽しむことができるのも先人の苦労があったからこそ、と思います。 どの山にもそれぞれのドラマがあることをこの本で再認識しています。 読後はいつの時代でもこういうことがあるものなのか、と歯がゆく少し悲しくなりますが・・・
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光野桃さんのエッセイを初めて読んだのは8年前。 「個人生活−イタリアが教えてくれた美意識」でファンになって出ている文庫本すべてを買占めました。 光野さんのお洒落に対する考え方の変遷、そして美意識は私の考え方も変えました。 着飾ることではなく装うことの大切さを噛み締め、何度も読み返しました。 しばらく光野さんの著書を目にすることはなかったのですが、バーレーンにいらしたそうです。 ファッションの歴史を学ぶと、流行とはまさしく人間の心理そのものである。 以前、日伊協会で、イタリアの服飾史と建築史との関係を読み解くといったテーマでクラスを持っていたことがあった。長い時間軸で見通すと、まさに建築とファッションとの流行とはリンクしており、それがたとえば食卓のセッティングから食文化にまで及んでいる。上へ上へと伸びるゴチック建築の時代には、人々は首の詰まった服に三角の帽子をかぶっているし、ルネッサンスの頃になると、ドレスの襟は四角く開き、肖像画も上半身を四角く切り取るように描かれる。 私は持っていた世界服飾史をもう一度、読み返しました。 光野さんの視点から考えると服飾史を含む世界史はまだまだ奥が深く、知りたいことが増えてきます。 この本は決して堅苦しいものではなく、一人の女性の美意識が書かれているものです。 私も光野さんのように素敵な大人の女性になりたい・・・
(年齢的には大人すぎるのですけれど・・・ね) |


