平成中野学校

トランプ政権こそ国防軍創立のチャンス

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2009/9/3

本日の走行予定は約215km、走行時間は5時間30分の予定。

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(↑朝食を済ませ、地図をチェックするめぐちゃん)

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(↑市房山を下って市房ダムを超えたところで、日本の典型的とも云えそうな美しい田園風景に出会った)


肥薩線・大畑駅のスイッチバック

今日は、鉄道ファンのめぐちゃんを肥薩線の人吉駅まで送って、鹿児島県の吉松駅でピックアップする。
どうやら途中の大畑駅がスイッチバックの場所らしい。
こちらが先行して大畑駅で待ち構えてみる事にしたのは良いが、この駅は無人のようでそこまで行くのに畑の中の農道を通っていくような按配だった。
やっと到着してみると木造のきれいに管理された、懐かしさを感じるような駅舎だ。
鉄道ファンのようなお兄さんが一人居て、話を聞くと彼はここから乗車するという。
暫くすると列車が入って来た…

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(↑肥薩線・大畑駅舎とホームに入ってくる「いさぶろう・しんぺい号」)

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(↑乗り鉄・撮り鉄?これが50を越えた親爺かね〜笑。まあ人様の趣味を笑うと私の趣味も…)

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(↑進入してきた方向に又戻って行くのが「スイッチバック」だそうで、別に大した事にも思えませんが、車内は鉄道ファンで一杯でした。スイッチバック停車場に類型が1から5まであって、ここは類型2で日本ではここだけとの事です・ダカラドウシタ)
スイッチバック(switchback)とは、険しい斜面を登坂・降坂するために、ある方向から概ね反対方向へと鋭角的に曲折する道路又は鉄道軌道を指す。トンネルや切り通しの設置が難しい地形において丘陵を登坂する方法の一つとして、短区間において進行方向を反転させるものである。道路におけるswitchbackはヘアピンカーブ(つづら折れ)とも呼ばれる。(Wiki)

「いさぶろう・しんぺい号」を見送って、終点の吉松駅までの時間を見ると少々飛ばさねばならない。
道路も標高差があるようで、「人吉ループ橋」や「えびのループ橋」などがある。
めぐちゃんを待たせたくないと思い、追い越しを繰り返してなんとか到着時間に間に合わせた。
ところが…待てども列車は到着しない、結局一時間待って「いさぶろう・しんぺい号」が到着。
話を良く聞くと、どうやら私が一時間勘違いしていたようだ…ただ、人吉駅でめぐちゃんに聞いた(私は少し難聴ぎみ)到着時刻を私はメモにして彼に確かめている。ソワソワと気もそぞろだった彼はどうやら上の空だったようだ。

私はムッとなり…車内は、一時、**なムードに…


鹿児島

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(↑そうこうしている内にナビには桜島が、あの突端を過ぎれば…オ〜SAKURA-JIMA〜♪)

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(↑少し遅い昼食を「鹿児島黒豚ラーメン」で済まし、南国風な街路樹の道を知覧に向かう)


知覧特攻平和会館

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(↑「知覧特攻平和会館」正面入り口)
前身は、旧帝国陸軍元特攻隊員・関係者の方々が遺品などを持ち寄って設立した「知覧特攻遺品館」。
写真、遺書などの遺品約4,500点、特攻隊員の遺影1,036柱などが展示されている。

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(↑特攻勇士の像 とこしえに)

沖縄戦に向け、第6航空軍(福岡)所属の振武隊と第8飛行師団(台湾)所属の誠飛行隊による特攻も行われたが、このうち、第6航空軍司令官は元陸軍航空総監菅原道大中将が務め、知覧・都城などを基点に作戦が遂行された。小泉首相が訪れ、特攻隊員の遺書を読み涙された事で「知覧」は一躍有名になった。

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(↑一式戦闘機「隼」III型甲
復元複製機。映画『俺は、君のためにこそ死ににいく』の撮影に使用され、映画配給元の東映より知覧町へ譲渡されたほぼ実寸大精巧レプリカ。

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(↑三式戦闘機「飛燕」II型改
実物。世界で唯一原型を留めた良好な状態で現存する機体。元陸軍航空審査部所属機で、終戦直後にアメリカ軍に接収され日本航空協会に譲渡された機体。日本航空協会所有の貸与機。

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(↑四式戦闘機「疾風」I型甲
実物。世界で唯一原型を留めた良好な状態で現存する機体。フィリピンの戦いにおいて、アメリカ軍に鹵獲された経歴を持つ第一線からの里帰り機。

陸軍では他に四式重爆撃機「飛龍」と九九式双発軽爆撃機なども体当たり機へと改修された。

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(↑借用写真:1945年4月12日、知覧基地を出撃する第二十振武隊のキ43一式戦「隼」)
知覧高等女学校三年生勤労女子学生「なでしこ隊」が桜の枝を振って、特攻隊の出撃を見送る。
搭乗するのは第20振武隊の隊長穴沢利夫少尉(23歳)と思われる。

陸軍航空特攻隊員:1,417名
丹羽戦車特攻隊員:9名
陸軍海上挺身隊員(マルレ):263名
合計:1,689名

陸軍では少年飛行兵出身者が多く、他に幹部候補生・特別幹部候補生・特別操縦見習士官出身者が主体となった。隊員たちの遺書を熱心に読んでいためぐちゃんがボソッと一言「兄弟に、いつか俺の仇をとってくれ…って書いた遺書もあったよ」。俺…無言


特攻作戦の真意とは

命令によって初めて航空特攻を出したのは、第一航空艦隊司令長官大西瀧治郎である。彼が神風特攻隊を発進させた目的は、捷一号作戦の要となる栗田艦隊レイテ湾突入を成功させる為(結局、突入せず「謎の転進」)、敵空母の甲板を使用不能にしようとする事にあった。零戦に250キロ爆弾を載んで体当たりしたとしても、空母を撃沈できる筈はない。一時的に飛行甲板を使用不能にするのが狙いだった。
1944年10月25日の敷島隊(零戦6 隊長:関行男大尉)による突入によって米護衛空母「セント・ロー」を撃沈。他に零戦10、彗星1が突入し米艦船5隻を撃破したのが最初とされている。

その大西瀧治郎自身が「特攻は統率の外道である」と言った通り、やらせてはならぬ戦法である。
ではなぜ大西長官は特攻作戦を決意したのか、参謀長小田原大佐などに話した内容とされるのが以下。
『もう戦争は続けるべきではない』
『一日も早く講和を結ばなければならぬ。マリアナを失った今日、敵はすでにサイパン、成都にいつでも内地を爆撃して帰れる大型爆撃機を配している。残念ながら、現在の日本の戦力ではこれを阻止することができない。それに、もう重油、ガソリンが、あと半年分しか残っていない。

軍需工場の地下建設を進めているが、実は飛行機を作る材料のアルミニウムもあと半年分しかないのだ。工場はできても、材料がなくては生産を停止しなければならぬ。燃料も、せっかく造った大型空母信濃を油槽船に改造してスマトラより運ぶ計画を立てているが、とても間に合わぬ。半年後には、かりに敵が関東平野に上陸してきても、工場も飛行機も戦車も軍艦も動けなくなる。
 
そうなってからでは遅い。動ける今のうちに講和しなければ大変なことになる。しかし、ガダルカナル以来、押され通しで、まだ一度も敵の反抗を喰い止めたことがない。このまま講和したのでは、いかにも情けない。一度で良いから敵をこのレイテから追い落とし、それを機会に講和に入りたい。

敵を追い落とすことができれば、七分三分の講和ができるだろう。七、三とは敵に七分味方に三分である。具体的には満州事変の昔に返ることである。勝ってこの条件なのだ。残念ながら日本はここまで追いつめられているのだ。
 
万一敵を本土に迎えるようなことになった場合、アメリカは敵に回して恐ろしい国である。歴史に見るインデアンやハワイ民族のように、指揮系統は寸断され、闘魂のある者は次々各個撃破され、残る者は女子供と、意気地の無い男だけとなり、日本民族の再興の機会は永久に失われてしまうだろう。このためにも特攻を行ってでもフィリッピンを最後の戦場にしなければならない。

このことは、大西一人の判断で考え出したことではない。東京を出発するに際し、海軍大臣と高松宮様に状況を説明申し上げ、私の真意に対し内諾を得たものと考えている。
 
宮様と大臣とが賛成された以上、これは海軍の総意とみて宜しいだろう。ただし、今、東京で講和のことなど口に出そうものなら、たちまち憲兵に捕まり、あるいは国賊として暗殺されてしまうだろう。死ぬことは恐れぬが、戦争の後始末は早くつけなければならぬ。宮様といえでも講和の進言などされたことが分かったなら、命の保証はできかねない状態なのである。もし、そのようなことになれば陸海軍の抗争を起こし、強敵を前にして内乱ともなりかねない。
 
極めて難しい問題であるが、これは天皇陛下御自ら決められるべきことなのである。宮様や大臣や総長の進言によるものであってはならぬ』
 
『大西は、後世史家のいかなる批判を受けようとも、鬼となって前線に戦う。講和のこと、陛下の大御心を動かし奉ることは、宮様と大臣とで工作されるであろう。天皇陛下が御自らのご意志によって戦争を止めろと仰せられた時、私はそれまで上、陛下を欺き奉り、下、将兵を偽り続けた罪を謝し、日本民族の将来を信じて必ず特攻隊員たちの後を追うであろう。
 
もし、参謀長にほかに国を救う道があるならば、俺は参謀長の言うことを聞こう、なければ俺に賛成してもらいたい』

後に大西中将は陛下の玉音放送の日の夜に自宅にて割腹自決(翌日まで苦しんだ)したが、戦争指導の不味さのツケを若者達に回した責任は大きく、そうしたやり方は戦争をやる資格無しと言わざるを得ない。
しかしながら、なぜそうした戦争をやらざるを得なかったのか…現在の感覚で安易に断罪すべきでも無い。

彼らは小型機に満タンの燃料と重い爆弾を抱え、「決死(死ぬ覚悟)」ではなく「必死(死ぬ事が前提)」の任務を揚々として受け入れ桜島・開聞岳に最後の別れを告げた。敵のレーダーピケット駆逐艦や戦闘空中哨戒機の警戒網を潜り抜ける為に、海面スレスレの低空飛行を行い650km・3時間弱にも及ぶ行程を緊張の中で飛び、沖縄の海に散華した若者たちの心情はどのようなものであったのか…。

我々は感謝の念と共に、心に深く想いを至らせねばならないと思う。合掌



指宿エコ・キャンプ場

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(↑鹿児島湾に面した整備の行き届いたキャンプ場入り口ゲート)

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(↑シーズン・オフで閑散とした管理棟周辺)

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(↑AC電源付きのキャンプサイトは好きな所を選べた。我々の貸切状態)

我々はテント設営後、指宿温泉に入り今夜の食材を求めた。
キャンプは今日が最後、鹿児島湾からの潮風と波の音とを聞きながら、二人静かに酒を飲む…。

明日はいよいよ海軍特攻の「鹿屋基地」だ…zzz



                                        つづく

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