日記、その他

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閑話休題

このところ、極めて体調が悪く、しかも泣きっ面に蜂ってなわけで背骨を傷めてしまい、身動きできない日々が続いている。書きたいことはたくさんあるのだが、考えがまとまらないので、今日はちょっと柔らかめの題で一つ・・・・・・
 「フラガール」と言う映画を見た、かなり以前見た覚えがあるのだが、たまたま痛みで夜、寝る事が出来ずにGYAO
で見たのだが、この映画の優劣はここでは語らない、素人の小生が何を言っても詮無き事だからだ。それより、このフラガールのモデルになったハワイアンリゾート、つまり常磐ハワイアンセンターでの思い出を書いてみる。
 昭和40年ころに、つまりこのリゾートが出来たばかりのころ、私は10歳で、両親に連れられてここに行った思い出がある、ハワイなど、まだ経験していないので、これがハワイなのかと、楽しかった思い出なのだが、この施設の背後にある炭鉱の町が衰退し、その結果、この施設が出来たと言う事は、この映画で知った、楽しかった思い出であるのだが、当時の小生は、子供心に、この施設が必ずしも楽しさの上に存在していない事を感じていたと思う、あのハワイアンショーを見て、客の中から舞台に上がり、ダンサーたちと踊る、その記念写真を思い出に持ち帰ると言うイベントの時、少年であった小生がどうして舞台に上がったのかについては記憶がないがダンサーたちに囲まれた写真が残されている。その時に、彼女たちの化粧品の強い臭いと汗で汚れた衣装にどことなく悲哀を覚えた記憶が今なお残されている。どことなく寂しいと言う感覚、この映画を見ると、その時に記憶が鮮明に思い出される。当時の小生が彼女たちの背景など知る由もないのだが、決して豊かではない、必ずしも楽しんでいないと言う印象が少年の心に影を落としたと思っている。小生は、若年のころより極めて感受性が高く、理論的に理解できなくとも感覚的に他者の悲しみや辛さを感じ取っていた、だからなのか、彼女たちが決して喜んで踊っているのではないと言った感覚を感じ取ったのではないかと今ではそう考えている。
 喜劇なのだが、その喜劇の中に衰退する石炭産業とそれを取り巻く人間の相関関係、一種の悲劇性もこの映画の中には描かれていると思う、あの当時のメンバーは今考えれば団塊の世代で演出をしていたSKDの元ダンサーは戦中派、小生より一世代上の人々である。彼女たちがその後、どんな人生を歩んだか、知る由もないが、決して平凡な人生ではなかっただろうと想像するくらいである。
 ノスタルジーなのだが、決してあの時代は良かったと言うものではなく、あの時代の裏面を感じさせるそんな映画であったと思う。
 新年初の記事は、そう小生には似つかわしくないテーマで映画を取り上げる、一つはイタリア映画、GYAOの無料映画から、「アポロンの地獄」これはギリシャ3大悲劇の一つでオイディプス王の物語をえがいた作品、1964年の作品、つまり50年ほど前のものである。実は小生、古代ギリシャの神話に関しては全くの素人で元々興味がない、この物語も概略程度の知識しかなく、映画や演劇と言った類もこの作品が初めてである。大変に不勉強であるので、この作品がどの程度原作に忠実に描かれているのか判断のしようがない。しかしながらWikipediaで調べる限り、何となく原作通りなのかと感じる、さてこの映画に関していうならば、冒頭と最後の現代にいたる場面設定が必要だったのか、上流階級と思われるギリシャの若い夫婦が登場して生まれたばかりの赤子が登場する、その赤子が育って盲目となって笛を吹きながら・・・・・この場面と古代ギリシャのオイディプス王の物語で最後に王が自分の罪の深さに目を自ら短刀で傷つけて盲目となって最後には乞食となって放浪する、この物語の一種の因果がこの現代の物語に必要なのか芸術に関して知識のない小生には理解しがたい内容であった。古代ギリシャの悲劇として見るのであれば、それなりにリアルであり、よくできていたのではないかと思うが・・・・・ただ最近見た映画の中では秀作?であったと思う。
 次に取り上げるのは、アニメ映画で「君の名は」を今更のように取り上げてみる。アニメ映画を殆ど見ることのない小生ではなるが、かつて娘が幼いころにはジブリ作品やディズニー作品などを映画館やDVDで観ていたのだが、娘が成長してからは殆ど見ていない。若いころより漫画をさほど読んだ経験がない小生には、この「君の名は」に関してその映像的な評価は出来かねるが、ただ物語の内容については、前もって話題になった折に簡単に聞いていた物語とは相当に違っていたのには驚かされた。ただ単に夢の中で若い男女が入れ替わり、その中で本当の愛を育む、そう言ったかつてこういう設定の物語は古今東西多くあり、その延長線上にある恋愛ものとしてしか認識していなかったが、現実に放送されたこの映画を見て驚かされたのは、単純な入れ替わりものではなく、一種のSFものとしての次元空間のずれが男女二人の関係性を複雑にしており、評判通りの秀作であったと思う。
 さらに感じたのは、背景に至る絵の美しさとリアルさに感心した。今のアニメーション技術は相当に進んでいるのだと認識させられた。
 この物語、ハリウッドで実写化されるらしい、果たして原作を超えられるか、ただ単に次元のずれと入れ替わりと言うだけの作品になりそうで期待感が低い、ハリウッドは複雑な内容を極端に嫌うからだ。
 わが国の歴史的な文化としての宗教を背景とした巫女や輪廻転生をハリウッドが描けるのか?大変に疑問である。ハリウッドの脚本家は、そう言った意味では哲学的なものを嫌うと言うのがあり、どうも単純なSF映画になりそうな予感がする。
 久々にアニメーション映画を評価できたと嬉しく思う。さて新年早々に余り得意ではないジャンルを取り上げてみたのだが、今年は、今まで通りに政治、経済、経営、外交や安全保障などを中心に書いて行こうと思っている。

朝から戯言

今日、久々に東京で1泊する、61回目の誕生日を知人たちが祝ってくれると言うので小山から午前中に東京に向かう予定だ、ついでに建設が始まったアパートを確認し、江戸川区葛西で入手した土地も見回って見るつもりだ。
 早く寝ると早くに目覚める、それはそれで良いのだが、あと2時間ほど寝られればと思いつつ、今朝は、マタイ受難曲を流しながら、キリスト教と言う宗教について・・・・・
 宗教としてのキリスト教はおおよそ不合理で信用できないが何故、こうも世界中の人々が宗教の対象としているのか全くをもって信じられない。
 しかし、キリスト教が生んだ芸術については、素晴らしいものが多いのも事実、近代までの欧州での音楽は、特にクラシックと呼ばれるジャンルでは、キリスト教の影響を排除しては語れない。バロックなどは特出して宗教の為に書かれた作品ばかりと言っても過言ではない。絵画も戯曲もほぼその全てがキリスト教の影響下で発展した。そう言った意味ではミシェルド モンターニュではないが、キリスト教から逸脱できずにその中でのみ発展した形骸化した作品も少なからず残っている。
 また西欧哲学も古代ギリシャを除けば、その大半がキリスト教の言う絶対的な神から見た人類であり自然で、そこから一歩も出られずに自己の内面を見つめると言うあくまで神ありきからその思考が始まっていると思う。モンターニュが出てある意味初めて神やキリストを排除してあくまで正直に自己分析が始まったと言う研究者もいるほどだ。
 それに比較してアジアでは、古代中国に孔子を始めとした儒教が紀元前から常に個人と、社会の関係性や自己を見つめると言う一種の自己分析や存在が語られている。そこに絶対的な神の存在は語られてはいない。
 本来仏教は、宗教ではなく人間がどの様に生きるかを説いた一種の思想であり哲学である。仏陀は、全てが無で空しい存在なのだから執着するなと教える。宗教的な修行すら意味なき自己満足の為の欲望と切り捨てている。そう言った意味に於いて中国から伝来してわが国で独自の発展を遂げた仏教は、本来、仏陀が教えたものとは完全に異質化しており、その為の矛盾が葬式仏教などと言われる形骸化した存在になってしまったと小生は考えている。
 さて朝から、何を言っているのか!まだ頭脳がぼんやりしている為か、心に浮かんだ言葉をただ漠然と並べていると言う状態である。
 キリスト教徒ではないが、賛美歌やミサ曲、あるいはこういった受難曲も小生は好きなジャンルである。ラテン語やドイツ語で書かれたものが多いので訳文を読まなければ意味不明なのだが、荘厳性、重厚な音が次々と流れるのは、アジアでは音楽としてこういったものは存在しない。日本では中国伝来の古代音楽が存在するが、歴史的な文化としてのみ存在を許されると言う程度のものでしかない。特に宮中で奏でられている雅楽は、実のところ、千年以上前から継承されたものは殆どない、江戸時代に天皇家を含めて公家衆は、権力を失い結果疲弊する、この公家衆が継承してきたのが雅楽なのだが、それこそ食えなくなると一子相伝のそう言った文化は継承されなくなる。継承しても金にならないからだ、むしろ武家に取り入った文化を貴び結果として楽譜がほとんど残されずに明治期になって中国の雅楽を学び直して作り直したのが現在、継承されている雅楽の正体である。現代人が聞くと何となく時代を感じてその中に八百万の神の存在を感じる様に、それを企図して書かれたのだと思う、雅楽が盛んにおこなわれた時代、つまり平安時代の人々が、今の雅楽を聞いて認めるかは分からない。
 わが国は、明治期以降、何となく世界中の特にアジアにおけるあらゆる文献を自分たち日本人にとって都合よく解釈しては言い伝えとの溝を埋める作業をしてきた。邪馬台国は存在せず、実は邪馬壹国が本当の国名だとすればこれはヤマタイコクとは読めない、これを改竄して台に置き換えてヤマタイコクと読ませて大和政権と結びつけると言う巧妙な歴史改竄が国家レベルで行われたのも明治期になってからである。つまり卑弥呼が大和朝廷の皇祖皇宗ではない可能性が非常に高いしこの邪馬壹国が日本にあった可能性も低くなる、つまり卑弥呼伝説もまた明治期に絶対天皇制にかかる皇祖皇宗の物語を歴史の中に微に入り細を穿って作られたご都合主義的な歴史改竄である可能性が高い。だからこそ、明治期になってそれまでの日本独自の歴史的文化を一気に捨て去って断絶することに躊躇いはなかったのだろう。石原元都知事などの右派の論客たちが我が国の歴史的文化と口にするが、現実にはその主流は、明治維新で隔絶されてしまい、現実に宗教行事などに散見する程度になっている。だからこそ、戦前回帰と言いながら、その形式は明治期以降の日本でしかない。つまり江戸期や武士の時代、その前の貴族文化などを否定した上で明治維新は完成したと言っても過言でない。だからこそ、彼ら右派の言う歴史的文化と言うのは明治期以降に強引に作られた西欧の合理主義に彩られたわが国独自の近代文化に他ならない。
 天皇家が洋装なのも同様の理由からで、昭和天皇時代までは皇后は和服を着ていない。宮中にすれば洋装は、明治期に西欧列強のものまで始まったのだが、一般的な和服の存在は、天皇家から見れば臣下の服装であり天皇家では元々着ることがなかったからだ。つまりだからこそ洋装なのだと書かれた書籍を読んだことがある。今の平成天皇になって皇后は和装をすることが多いが、これはその臣下の装いと言う抵抗感を皇族が感じることがなくなったからだろう。
 何を書いているのか分からくなった。
 そろそろ、シャワーを浴びて出かける支度をのんびり始めようかと思うので、これで失礼させていただきます。

老いること・・・・・

 老いると言う事について、私見を・・・・・・・・
還暦を過ぎてそろそろ老人と呼ばれる世代に入りつつある自分を見つめながら、世間でいうリタイア後の生活について男性が陥りやすい社会との関係が希薄になって徐々に鬱症を発症する。多趣味の人は、残された人生を趣味に生きることが可能だが、それこそ仕事人間で猛烈サラリーマンだった人、多忙で毎日が、あっという間に過ぎて行った人など、リタイアしてしまうと呆然自失の日々が続いて精神に負担がかかって鬱になり、あるいは孤独にさいなまれて人格が大きく変化して怒りっぽくなったり、暴力的になりそれこそ家庭内暴力で家族が逃げ出すなどと言った話など枚挙に暇がない、小生は、元々多趣味人間で、スポーツでは、空手やスキー、夏には船で出てのスキューバダイビングとリタイア後も暇を持て余すことがなかったが、持病を悪化させてから、それらの趣味を休止しなければならない状態が3年続いている。読書も音楽鑑賞も好きだが、持病の悪化に伴って視力に問題が出てから、読書もさほど以前の様に一日、数冊を読破するほどできない、突発性難聴を患ってからは、クラシック鑑賞も耳に負担がかからない程度しか本気では聞かなくなっている。精々、BGM程度に流しているのが関の山な状態で、体調が悪い日は、日永一日、出かけもせずに他人から見れば退屈だろうなと思われるほどゆったりとした生活をせざるを得ない。
 しかし、持病の克服と言う目標があり、克服して社会復帰してからの道筋はおおむね計画できているので、現在、有り余った時間にむしろ感謝している。
 忙しいと人間という生き物はなかなか、自分を振り返る余裕が持てない。忙しさにかまけて読書も適当に必要最小限にとどまってしまう。特に実用書に目が行き、哲学書や専門外の書籍など読む時間が取れない、しかし、小生の今の状態は、やりたいことの大半が出来ないのであって、それをうじうじと後悔しても一歩も進めない。
 そこで、小生は、その膨大な時間を利用してあえてその孤独を楽しむことにした。何も難しいことを考えるのでは無く、普段ならばかばかしいと思った様な無駄な事を考えてみるとそれに伴う次の段階が想像できて面白い。
 片岡鶴太郎が芸人でありながらプロボクサーに挑戦し、更には画家として芸術家として活躍もしている。同世代ながらうらやましい限りだが、彼に言わせれば、一日24時間では足りないくらいその趣味(?)に没頭できると言及している。確かにそうあったら素晴らしい老後を送れるのだろうが、ごく普通に生きてきた人にとって多くの趣味を玄人はだしにこなしてなお、それを続けるというのはほとんど不可能だろう、やはり成功者の弁である。人間そうありたいものだと思う反面、そうできない人々は、その膨大な時間をどう過ごした良いのか呆然自失に陥るというのはある意味致し方ない。
 それでは、男は老いて、その先に何をするべきなのか?
昨今、高齢化社会で老人向けの雑誌などでは、趣味を持ちなさいとか、社会にもっと出て人間関係を構築すべきだなどと言った指摘がされているが、社会に出たくても、自分が何をしたいかと言うそもそもの部分から導き出さねばならないとすれば、それを探すのに真剣になれる人ならまだしも、大半の人は面倒だなと諦めてしまう可能性が高い。
 小生の周りもそろそろリタイア組が増え始めており、中には役員とか定年のない職に就いたやつがいるがそう言った奴らを除けば、この1〜2年で大半の同窓がリタイアするはずである。その中には典型的な仕事人間も少なからずおり、今からリタイア後の生活について大きな不安を抱えている者も決して少数派ではない。小生は、心臓の手術を経験して早期にリタイアしたが、自己経営の自由業であったことで,今でも当時仕事で知り合った人から相談などで社会に時折戻っているが、それでも現役時代と比較すれば、明らかに何十分の一と言う程度の事でしかない。持病の悪化に伴って転居して療養しているのだが、この地方の小都市に来て当初は退屈するだろうなと考えていたが、与えられた膨大な時間と断絶した社会との関係を逆に楽しむ様に努力している。今まで死ぬ気で働いてきたのだから、天が与えたもうた考える時間なのだと、それは生産性のある合理的な物事を考えるのではなく、過去に自分が興味を持ったが中々時間が与えられずに考えることもできなかったものなどを呆然と考える、なにも生むことないし、何も前進できない、しかしそれでよいのだと居直るのである。具体的な計画など立てる必要もない、目標でもない、そう夢みたいな抽象的で不合理な事でよいのだと腹を決めると。何でも頭の中だけだが、想像上可能になってくる。そう言ったバカげた思索の中で時間を費やしていく。そうなるとテレビを見ながらでも音楽鑑賞をしながらでもあるいは、午睡を取る時でも就寝時でも、何かしら浮かんだくだらないものを、その日その日にテーマを決めて思索する、そうするとどうだろう、孤独感など、元々ない小生だが、あまりに余った時間があっという間に過ぎて行く、一種のマスターベーション、脳内の自慰行為、不埒ではなく、心の均衡を保つための体操とでも言うか、もし、自分があの時、違う結論を出して違う人生を歩んだら今どう練っていたか?幼い子供がヒーローになりたい、英雄になりたいと思う程度でも構わない。
小生の場合、よく考えるのは、元々音楽が大好きで、経営学の専門家として糊口を凌ぐ人生など考えもしなかった。もし父が反対しなければ、ドイツグラムフォンに職を得てドイツでクラシック音楽のプロデユーサーとして資産は貯められなかったかも知れないが、全く違った人生になっていたと思う、自分がプロデューサーなれば、どんな楽曲やイベントを企画しただろうか?どんな若手のアーティストを育てただろうか?など考え出すときりがない。
 車の趣味が高じて車道楽が過ぎた小生だが、もしプロレーサーになっていたら、など実に生産性のないバカバカしい思索を延々と堂々巡りでも構わないので、続けて行く、それこそバカバカしいと思われるかもしれないが、そのバカバカしさこそ、なんと贅沢な時間なのだろうか?と居直れば、リタイアして仕事と言う側面では現役ではなくなった自分を卑下することなくむしろ与えられた余裕を甘受して、その膨大な時間をあえて無駄に消費する。それこそ何にも縛られない贅沢と言うものだろう。多趣味の人間は現役を退いても趣味を完遂するという意味に於いては自分で自分を強制していると言える。むしろ趣味がなかったからこそ、与えられる贅沢だと思えばよい。小生は多趣味だが、現在、その趣味の大半を禁止されており、膨大な時間を消費できなと言う側面で逆にその時間を無駄に過ごそうと決めた、好きな時間に散歩に行き、好きな時間に今できることをやる、腹が減れば飯を食い、喉が渇けば凝ったいれ方でコーヒーを落とす、自分で炊事をしたいと思えば、男子厨房に立ち、掃除がしたくなれば自分で掃除機を引っ張り出す、PCを叩きたいと思えば入れっぱなしのPCを覗き、だからと言ってつけられたコメントに急ぎ返事をなどと考えもしない、現役で忙しかったころの方がはるかにネットに縛られた生活をしていた。ブログやSNSなど一種の遊びだが、書いた記事へのコメントにはできるだけ早く返事をと、外でも老眼の進んだ目で小さなスマホの画面を見ながら、せっせと書き込んでいたが、今は時間がたっぷりとある所為か、むしろいい加減に見たい時に見る書き込みたいときに書き込む、日によっては一日PCを覗かない日もある、娘など、
「パパ、スマホ時々見てよね、LINEに書き込んであるんだから」
などと文句を言ってくる。確かに多忙な頃はメールの確認や娘からのLINEなど数時間おきには必ず確認していたが、それもしなくなった。本当に急用であれば、電話してい来るだろうと思うからだ。
 こんな贅沢を楽しめる自由を満喫できるのは、現在、趣味の大半を禁止されているかに他ならない。
ありがたい経験だと思う。鶴太郎氏の仰せは確かに的を射て素晴らしいと思うが、やはり彼をしてその趣味に強制された時間が忙しいから一日が24時間では足りないと言わせるのだろうと逆に憐憫さえ感じる。もっと悠久の時間の中に身を置けば、彼の芸術も趣味もさらに広がり奥行を見せるのではないかとさえ思う。
 かつてゴーギャンがタヒチにあってゆったりとした時間の中でその思索から優れた表現を作り上げた事や、世に名を遺した芸術家がどこかでそう言った持て余すほどの時間の中で思索続けた結果、我々凡人を感動させる作品を世に送り出したのではないか?現在、歴史に名を残すような芸術家が中々でないのは、忙しいからだと思うほどである。与えられる情報も今と比較すれば何百分の一だっただろうし、必要以上の贅沢さえ望まなければ、現代人と比較してその欲望の規模ははるかに小さかっただろう、だからこその余裕、それが悠久の歴史に残る芸術作品を生んだ最大の要因だったのでは、とさえ思う。
 小生は、老いることに不安はない、このまま持病が治癒せずどんどんと悪化しても、それはそれで小生の人生なのだと割り切ることができると思っている。例えば今、癌で余命半年と言われてもおそらくじたばたしないだろうと思っている。人生など、そう言ったものだと居直っているからだ。癌や重病での寿命もあるだろうが、散歩の途中に交通事故や事件に巻き込まれて死ぬ場合もあり得ない事ではない。人間には常にリスクが付きまとっているのだ、企業経営の専門家として35年、何千社と言う企業と経営者と会う機会に恵まれたが、その人の寿命など予測もできない。まだ持病があれば、あと何年くらいは元気にしているだろうと予測可能だが、事故や事件の場合、全く予測不可能であり、それこそ突然起こる事象である。そんな運命的な経験も多くしてきた所為か、人の生き死にもまたその人が持った運命であり、場合によっては宿命であったと居直らなければいつもそう言った不安の中で生きることを強制される、それこそバカバカしいのだが、現役時代はそう考えない。
 達観したとか、どこぞのカルトではないが解脱したなどと言う不遜は持たないので、それが老いることで学んできた居直りなのだと思っている。
 なんだか、回りくどい戯言になってしまったが、自分自身で老いてなお活発なのではなく老いてこそ達することのできる究極の居直りを身に着ければ、孤独も、社会からの断絶間も払しょくできると文末にあたり小生なりの結論としたい。
 哲学者でも思想家でもない小生が生意気なことを延々と書いてしまいました。
 忙しいので、短く一文・・・・・・・・・
 
 安倍の戦後70年に於ける談話が話題だが、その為か、所謂、従軍慰安婦問題でのネット上の論議が盛んに行われている、しかしながら、あった派もなかった派も、歴史の素人同士がああでもない、こうでもないと不毛な論争を続けているのが事実である。
 
 さてこの問題は、過去にも何度もブログで取り上げているので、今さら書かないが、専門家、つまり歴史学の専門家の間では、既に結論の出ていることで、戦前、戦中、我が国が、特に軍部が直接関与して募集し、管理したのは、動かせない事実であり、その募集にあたって、法的に強制する徴用はなかったものの、強制と取られても致し方ない、事実が、多くの資料や聞き取り調査の結果、出ており、この事実が少なからずある限り、否定できないというのが結論である。
 
 この問題に、真摯に取り組んだ、専門家は、この素人同士の論争に巻き込まれるのが面倒で、次々と新たに出てくる資料の読み取りに必死で、この低俗な議論から導かれる結論など、無視しているである。
 
 さて、今日、書きたいのは、この様な、問題ではない、論議の過程で、なかった派つまり保守系の論客たちに多く見られるのは、戦後に韓国軍がベトナムで慰安婦施設を運営してベトナムの若い女性を使っていたとか、朝鮮戦争当時に、北朝鮮から連行した女性を性奴隷にしていたなどと言った、韓国を貶めることで、お前もやっているではないか・・・というネガティブキャンペーンを喧伝する輩が多くいる、小生のFBの知己の中にも、そういった記事を紹介して、過去に行われた我が国軍部の行為を正当化しようとする事に、大変に違和感を持っている。
 
 隣の家が泥棒をしているから、自分の過去の過ちは正当化できるという一種の卑劣な論議は、卑怯な論法である。
 
 更に、規模も運営状況も全く異なったベトナムや朝鮮戦争でのこういった施設運営にかかる問題とを同義と捉える低俗さにも辟易とさせられている。
 
 相手をネガティブキャンペーンで貶めて自分たちの過去の過ちをなかったことにしようとする企みは、人間として最低であると断じておく、小生が、韓国の慰安婦問題への対応、中国の南京事件への対応について、間違っていると思うのは、これを外交カードにして、自国の陳腐なナショナリズムに政治利用していることである。本来、これは純粋に歴史問題であり、これに政治家や政治学者などが口を挟む余地はない、専門家同士が、現在ある資料に基づいて、真摯に取り組むべき問題であり、その時に、各国政府は、自分たちが持っているすべての資料を全面的に公開すべきなのは当たり前である。しかし、混乱のさなか戦争が終わった中国の場合、当時の資料はその殆どが散逸している、また日韓併合により日本国内であった韓国の場合、朝鮮総督府の資料がきわめて少なく、これは終戦時に日本政府からの通達で公文書の大半を焼却しているからである、しかし、昨今、朝鮮総督府跡から、膨大な資料や公文書が埋められていたのが発見され、これを日韓の専門家たちが、現在調査中である。しかし現在公開されている残された少なからずの資料からでも事実関係が明らかになっている。ここに政治学者や況や政治家や素人が口を挟むから、互いに情緒的な感情論になるのである。
 
 これを巧みに利用する形で外交カードとする中韓の低俗さにはそれこそ辟易とさせられるが、これを政治問題化させている元凶は、間違いなく我が国の保守系政治家の不勉強で不見識な発言である。歴史を語るのであれば、専門家諸氏の極めて難しく長い論文を真摯に読んで理解した上でのことにして貰いたい、自分たちに都合の良い資料の斜め読みで理解した気になって橋下の様に世界的に恥をかかないためにである。
 
 公人たる政治家が、偽情報で間違った歴史認識をするのは、報道機関が誤報するより以上に大問題であると我が国国民も知る必要がある。
 
 多忙なので、今日はこのくらいにするが、ネガティブキャンペーン的な嫌韓、嫌中などの記事の投稿は、大変に卑劣で卑怯であると最後に言っておく。

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