老いると言う事について、私見を・・・・・・・・
還暦を過ぎてそろそろ老人と呼ばれる世代に入りつつある自分を見つめながら、世間でいうリタイア後の生活について男性が陥りやすい社会との関係が希薄になって徐々に鬱症を発症する。多趣味の人は、残された人生を趣味に生きることが可能だが、それこそ仕事人間で猛烈サラリーマンだった人、多忙で毎日が、あっという間に過ぎて行った人など、リタイアしてしまうと呆然自失の日々が続いて精神に負担がかかって鬱になり、あるいは孤独にさいなまれて人格が大きく変化して怒りっぽくなったり、暴力的になりそれこそ家庭内暴力で家族が逃げ出すなどと言った話など枚挙に暇がない、小生は、元々多趣味人間で、スポーツでは、空手やスキー、夏には船で出てのスキューバダイビングとリタイア後も暇を持て余すことがなかったが、持病を悪化させてから、それらの趣味を休止しなければならない状態が3年続いている。読書も音楽鑑賞も好きだが、持病の悪化に伴って視力に問題が出てから、読書もさほど以前の様に一日、数冊を読破するほどできない、突発性難聴を患ってからは、クラシック鑑賞も耳に負担がかからない程度しか本気では聞かなくなっている。精々、BGM程度に流しているのが関の山な状態で、体調が悪い日は、日永一日、出かけもせずに他人から見れば退屈だろうなと思われるほどゆったりとした生活をせざるを得ない。
しかし、持病の克服と言う目標があり、克服して社会復帰してからの道筋はおおむね計画できているので、現在、有り余った時間にむしろ感謝している。
忙しいと人間という生き物はなかなか、自分を振り返る余裕が持てない。忙しさにかまけて読書も適当に必要最小限にとどまってしまう。特に実用書に目が行き、哲学書や専門外の書籍など読む時間が取れない、しかし、小生の今の状態は、やりたいことの大半が出来ないのであって、それをうじうじと後悔しても一歩も進めない。
そこで、小生は、その膨大な時間を利用してあえてその孤独を楽しむことにした。何も難しいことを考えるのでは無く、普段ならばかばかしいと思った様な無駄な事を考えてみるとそれに伴う次の段階が想像できて面白い。
片岡鶴太郎が芸人でありながらプロボクサーに挑戦し、更には画家として芸術家として活躍もしている。同世代ながらうらやましい限りだが、彼に言わせれば、一日24時間では足りないくらいその趣味(?)に没頭できると言及している。確かにそうあったら素晴らしい老後を送れるのだろうが、ごく普通に生きてきた人にとって多くの趣味を玄人はだしにこなしてなお、それを続けるというのはほとんど不可能だろう、やはり成功者の弁である。人間そうありたいものだと思う反面、そうできない人々は、その膨大な時間をどう過ごした良いのか呆然自失に陥るというのはある意味致し方ない。
それでは、男は老いて、その先に何をするべきなのか?
昨今、高齢化社会で老人向けの雑誌などでは、趣味を持ちなさいとか、社会にもっと出て人間関係を構築すべきだなどと言った指摘がされているが、社会に出たくても、自分が何をしたいかと言うそもそもの部分から導き出さねばならないとすれば、それを探すのに真剣になれる人ならまだしも、大半の人は面倒だなと諦めてしまう可能性が高い。
小生の周りもそろそろリタイア組が増え始めており、中には役員とか定年のない職に就いたやつがいるがそう言った奴らを除けば、この1〜2年で大半の同窓がリタイアするはずである。その中には典型的な仕事人間も少なからずおり、今からリタイア後の生活について大きな不安を抱えている者も決して少数派ではない。小生は、心臓の手術を経験して早期にリタイアしたが、自己経営の自由業であったことで,今でも当時仕事で知り合った人から相談などで社会に時折戻っているが、それでも現役時代と比較すれば、明らかに何十分の一と言う程度の事でしかない。持病の悪化に伴って転居して療養しているのだが、この地方の小都市に来て当初は退屈するだろうなと考えていたが、与えられた膨大な時間と断絶した社会との関係を逆に楽しむ様に努力している。今まで死ぬ気で働いてきたのだから、天が与えたもうた考える時間なのだと、それは生産性のある合理的な物事を考えるのではなく、過去に自分が興味を持ったが中々時間が与えられずに考えることもできなかったものなどを呆然と考える、なにも生むことないし、何も前進できない、しかしそれでよいのだと居直るのである。具体的な計画など立てる必要もない、目標でもない、そう夢みたいな抽象的で不合理な事でよいのだと腹を決めると。何でも頭の中だけだが、想像上可能になってくる。そう言ったバカげた思索の中で時間を費やしていく。そうなるとテレビを見ながらでも音楽鑑賞をしながらでもあるいは、午睡を取る時でも就寝時でも、何かしら浮かんだくだらないものを、その日その日にテーマを決めて思索する、そうするとどうだろう、孤独感など、元々ない小生だが、あまりに余った時間があっという間に過ぎて行く、一種のマスターベーション、脳内の自慰行為、不埒ではなく、心の均衡を保つための体操とでも言うか、もし、自分があの時、違う結論を出して違う人生を歩んだら今どう練っていたか?幼い子供がヒーローになりたい、英雄になりたいと思う程度でも構わない。
小生の場合、よく考えるのは、元々音楽が大好きで、経営学の専門家として糊口を凌ぐ人生など考えもしなかった。もし父が反対しなければ、ドイツグラムフォンに職を得てドイツでクラシック音楽のプロデユーサーとして資産は貯められなかったかも知れないが、全く違った人生になっていたと思う、自分がプロデューサーなれば、どんな楽曲やイベントを企画しただろうか?どんな若手のアーティストを育てただろうか?など考え出すときりがない。
車の趣味が高じて車道楽が過ぎた小生だが、もしプロレーサーになっていたら、など実に生産性のないバカバカしい思索を延々と堂々巡りでも構わないので、続けて行く、それこそバカバカしいと思われるかもしれないが、そのバカバカしさこそ、なんと贅沢な時間なのだろうか?と居直れば、リタイアして仕事と言う側面では現役ではなくなった自分を卑下することなくむしろ与えられた余裕を甘受して、その膨大な時間をあえて無駄に消費する。それこそ何にも縛られない贅沢と言うものだろう。多趣味の人間は現役を退いても趣味を完遂するという意味に於いては自分で自分を強制していると言える。むしろ趣味がなかったからこそ、与えられる贅沢だと思えばよい。小生は多趣味だが、現在、その趣味の大半を禁止されており、膨大な時間を消費できなと言う側面で逆にその時間を無駄に過ごそうと決めた、好きな時間に散歩に行き、好きな時間に今できることをやる、腹が減れば飯を食い、喉が渇けば凝ったいれ方でコーヒーを落とす、自分で炊事をしたいと思えば、男子厨房に立ち、掃除がしたくなれば自分で掃除機を引っ張り出す、PCを叩きたいと思えば入れっぱなしのPCを覗き、だからと言ってつけられたコメントに急ぎ返事をなどと考えもしない、現役で忙しかったころの方がはるかにネットに縛られた生活をしていた。ブログやSNSなど一種の遊びだが、書いた記事へのコメントにはできるだけ早く返事をと、外でも老眼の進んだ目で小さなスマホの画面を見ながら、せっせと書き込んでいたが、今は時間がたっぷりとある所為か、むしろいい加減に見たい時に見る書き込みたいときに書き込む、日によっては一日PCを覗かない日もある、娘など、
「パパ、スマホ時々見てよね、LINEに書き込んであるんだから」
などと文句を言ってくる。確かに多忙な頃はメールの確認や娘からのLINEなど数時間おきには必ず確認していたが、それもしなくなった。本当に急用であれば、電話してい来るだろうと思うからだ。
こんな贅沢を楽しめる自由を満喫できるのは、現在、趣味の大半を禁止されているかに他ならない。
ありがたい経験だと思う。鶴太郎氏の仰せは確かに的を射て素晴らしいと思うが、やはり彼をしてその趣味に強制された時間が忙しいから一日が24時間では足りないと言わせるのだろうと逆に憐憫さえ感じる。もっと悠久の時間の中に身を置けば、彼の芸術も趣味もさらに広がり奥行を見せるのではないかとさえ思う。
かつてゴーギャンがタヒチにあってゆったりとした時間の中でその思索から優れた表現を作り上げた事や、世に名を遺した芸術家がどこかでそう言った持て余すほどの時間の中で思索続けた結果、我々凡人を感動させる作品を世に送り出したのではないか?現在、歴史に名を残すような芸術家が中々でないのは、忙しいからだと思うほどである。与えられる情報も今と比較すれば何百分の一だっただろうし、必要以上の贅沢さえ望まなければ、現代人と比較してその欲望の規模ははるかに小さかっただろう、だからこその余裕、それが悠久の歴史に残る芸術作品を生んだ最大の要因だったのでは、とさえ思う。
小生は、老いることに不安はない、このまま持病が治癒せずどんどんと悪化しても、それはそれで小生の人生なのだと割り切ることができると思っている。例えば今、癌で余命半年と言われてもおそらくじたばたしないだろうと思っている。人生など、そう言ったものだと居直っているからだ。癌や重病での寿命もあるだろうが、散歩の途中に交通事故や事件に巻き込まれて死ぬ場合もあり得ない事ではない。人間には常にリスクが付きまとっているのだ、企業経営の専門家として35年、何千社と言う企業と経営者と会う機会に恵まれたが、その人の寿命など予測もできない。まだ持病があれば、あと何年くらいは元気にしているだろうと予測可能だが、事故や事件の場合、全く予測不可能であり、それこそ突然起こる事象である。そんな運命的な経験も多くしてきた所為か、人の生き死にもまたその人が持った運命であり、場合によっては宿命であったと居直らなければいつもそう言った不安の中で生きることを強制される、それこそバカバカしいのだが、現役時代はそう考えない。
達観したとか、どこぞのカルトではないが解脱したなどと言う不遜は持たないので、それが老いることで学んできた居直りなのだと思っている。
なんだか、回りくどい戯言になってしまったが、自分自身で老いてなお活発なのではなく老いてこそ達することのできる究極の居直りを身に着ければ、孤独も、社会からの断絶間も払しょくできると文末にあたり小生なりの結論としたい。
哲学者でも思想家でもない小生が生意気なことを延々と書いてしまいました。