戦後、日本の教育から道徳の2文字が消えた。その代わりに倫理社会、今は公民と言う、中途半端な 授業でお茶を濁している。 昨今、再びこの道徳教育を復活する動きがあるが、はたして効果があるのか よもや、教育勅語をもって道徳と言う様な極端な人は少ないだろうが、何を基準に道徳を教えるのか。 本来、道徳と言うのは、その国の歴史の中で培われた、文化にこそ、その存在があると言っても過言で ないが、現実に、明治維新後、日本は歴史的な文化を否定した上に、近代文明を得たのであるから、 歴史的な文化に培った道徳もその時に、捨て去ったと見るべきである。 脱亜入欧、拝欧主義により、明治維新後日本は、一夫一婦制を代表に、キリスト教的な道徳の概念を その中心に置いてきた、しかし、宗教としてのキリスト教は、否定しないまでも全面的に受け入れた と言う事実はない。この為にキリスト教を抜きにした、キリスト教的な道徳概念と言う矛盾を受け入れ なければならなかった。この為に、神道と言う日本古来の原始宗教を土台に、儒学の良い所取りで、 道徳の概念を、付け焼刃的に作り上げたのである。 本来、神道と儒学は、相容れない存在である。 神道の基礎は、大きく3つに分かれる。 1、天皇家を中心にした、神話を元に作られたもの。 2、その土地土地に伝わる、神話、民話を基にした神々の物語。 3、時の英雄や、恨みを呑んで死んだ者の恨み、この様な人間の霊を安からんとしたもの。 この3つである。(1)の場合、その経典は古事記や日本書紀である。この国創りの物語を中心に 展開して行く、(2)は、山や川、空に大地、海に風、そして、それを包括する自然を崇拝する 物語が中心となる。(3)については、平将門、菅原道真、豊臣秀吉、徳川家康などが有名で、その他 にも、加藤清正等の神社もある。明治までは、神道と言う区分けでなく、其々が別々の神社として 存在してきた。出雲、伊勢、香取、鹿島など有名な神社も同様である。これを、維新後一つに 纏め上げ、其々の教義に矛盾が無いようにする為に、統一し、その中に現代宗教の色づけとして、 儒学の思想を盛り込んで、宗教ならしめんと画策したのが、国家神道である。 この神道の思想の元 道徳教育が行われた。しかし、古事記を読んで、その神々に人間としての道徳が存在すると感じる人は 少ないであろう。登場する神々は、人間より欲深く、嫉妬し、そして恨む、感情的であり、人間より 遥かに人間らしいと言えるのではないか。 自然崇拝は原始宗教に多く見る事のできるもので、日本 独自のものでは無いし、英雄や、恨みを呑んだ人々は、即ち人間そのものである。 豊臣秀吉に道徳を望んでも意味が無いし、それは徳川家康に於いても同様であろう。 一つのキャラクターを平面的に見れば、成功者には成功する何かが存在し、その事を持って、是とすれば 彼らも一つの道徳であると見えるが、現実の彼等は、英雄であると同時に、戦いの勝利者で、逆に見れば 殺戮を恣にした、残虐な征服者に他ならないのである。 この様に、明治以降、日本独自の道徳観は消失していると見るべきで、戦前、儒学の要素が少しでも 残っていたのは、明治以前の教育を受けた人間が、まだ多く残って居たと言うことだけである。 日本人は、歴史的に、歴史的な文化の象徴として、神社を、宗教として仏教を、思想としての基本を 儒学において千五百年近く、社会生活を送ってきたのである。これを否定し、無理やりにしかも、 付け焼刃に作り上げた、明治以降の道徳観は、矛盾と背中合わせで、早晩、崩壊する事は自明の理で あったのである。その結果が、第2次大戦であり、その結末である。 この結果から、意味の無い反省をする事となり、道徳教育や思想教育を、放棄して来たのが、戦後教育 である。此処に来て、その思想教育や道徳教育を復活しようと模索しているのだが、不可能である。 それは、教育する側に、その素養が全く無いからである。 道徳や思想は、その教える側の生き様が 如実に現れるからである。 しかし、現在教育者として現場に立つ、教師達は、その教育を全く受けて いない世代である為に、教科書を作っても、その文面を、歴史や地理と同次元でしか教える事が できないからである。 欧州や米国は、その中心に宗教としてもキリスト教が存在する為に、 思想教育や道徳教育は、その聖典である、聖書を中心に教える事が可能であり、現実に、その地で 育つ子供達も、また、幼児期より教会の中で、その概念を教え込まれている、この事が、その教育を 容易にしている。欧米の殺人者が、罪を犯しながら、神に「アーメン」と祈るシーンは、有名である。 イスラム教国は、その宗教が国家を作り、その法もまた宗教が作っている、道徳や思想も同様である。 宗教を失った日本の場合、その中心に何を持って来るのか? 儒学であるのか、あるいは、宗教である のか、ともかく、今の状況では、教科書を作ることも難題であるが、それより、それを教える教師を 育てる事が遥かに難題であろう。 仏作って魂入れず、と言う事になりかねない。中途半端な、 道徳教育や、思想教育は、寧ろ逆効果で、その矛盾を子供が感じた途端に、破綻し、それが子供の 反抗心を育てて行く事になりかねないのである。 小生が、思うのは、既にその手の教育に対して、遅きに失しており、全て手遅れと感じている。 為政者が、法でどう規制しようが、規定しようが、既にどうしようも無い状況であろうと思う。 それでは、道徳と言う概念を、どう子供達に教えるべきであるのか、それは、幼年期より、法の概念 を教育する事であろうと思うのである。 道徳は社会通念上の規則であるのに対して、法は、国家が その権力を行使する、国民の義務であるからだ、この法律と言う概念、法治国家と言う理念を、 少年期より叩き込む事で、少なくとも法を犯せば、どうなり、結果として、どれだけの負を背負い込む 事になるのかを、教え理解させる事で、犯罪の減少を促せるものと感じるのである。 また、思想教育については、自由、民主主義と言う概念を、もっと詳しく、中学までに教えるべきで 自由を享受する為には、自己リスクをどれだけ、甘受する必要があるのかも具体的に教えるべきである。 統制国家や警察国家の様に、治安は良いが、自由の無い国が良いのか、あるいは、少々危険と言う 自己リスクを甘受しても自由が良いのかを考えさせると同時に、哲学教育を少年期より始めることで 自分とは?と言う命題を考察させ、それが、人間の存在意義を感じる基本となろうと思うのである。 道徳と言う曖昧な、しかも教える側の素養の無い、教育を行うより、遥かに現実的な教育であると 結論している。 戦後、日本は、思想や宗教、哲学など心の教育に対して敢えて目を瞑って来た事実があり、その為に 心の問題が、この21世紀、表に表れてきている。 この道徳と言う概念を、発言する為政者そのものが、その教育を受けていない世代なのである。 過激な発言の、知事や議員が多く存在するが、彼らとてまともな、道徳教育を受けていないからこそ、 国民を愚弄する様な発言を繰り返し、人種偏見を堂々と語っているのである。その為政者が道徳を 語るなど、有り得ないのである。 教える者がいないのに、教科書だけ作っても意味が無いのである。 |
本論2
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大人の過度の介入が招いた、教育現場の崩壊は、緊急に改めねばならない。しかし、教育基本法の 改正論議に現場も為政者も終始し、その結果が自民党も民主党も、愛国心や道徳教育で、その荒廃が、 是正できると勘違いしている。 只でさえ、過度に介入してきているにも関わらず、さらに介入しようと 言うのか、馬鹿げている。 道徳とは何ぞや、愛国心とは、具体的に法律に描ききれるとでも、考えて いるのか、いるとすれば、如何にも不遜である。 子供を教育するに、一番大切なものは、大人の世界に巻き込むなの一言で事足りる。 昔の大人は、 よく子供にこう言ったものだ、「大人の話しに、口を挟むな、入るな。」 しかし、親も教師も、 子供がその会話に入る事を暗に認めている。 子供の前で、教師の悪口を言う親、仕事の愚痴を こぼす親、 授業中に、政治を語る教師、自己の思想を教え込む教師、これらの全てが子供に どれだけの悪影響を与えいるのか、全てが大人同士の会話である。 情報を垂れ流す、マスコミや 視聴率さえ上がれば、低俗であろうが子供が視聴するであろう時間帯に番組を流すテレビ局、 その流行を肯定するような、時代の流れに取り残されるなと話す、評論家。 この全てが悪である。 これらの情報を管理する事の出来ない親や教師、 挙句に教師が、その番組の話で、子供との関係を 築けると堂々と論を張る低俗な教師。 子供と同次元、同じ目線で語る事が正論と思い込んでいる 教師も存在する。この全てが子供を大人扱いしている証左である。 子供と大人は明確に違うのだ。 と何故教えないのか、 法律を如何に、微に入り、細を穿って制定し様が、肝心の親や教師が、 これでは、どうにもなるまい。 子供は子供なのだと言う事を、教え込む事から始めなくてはならない。それには子供に与える情報の 管理を徹底的にコントロールすべきであり、その事が、マスコミの報道の自由を侵す事になっても 致し方あるまい。 少なくとも、低俗な番組をゴールデンで流させない。 芸無し芸人による マスターベーションに近い番組など、凡そ子供に与えるものでは無い。 またそれらの芸人が、 下卑たCMに登場し、その下卑た芸を子供に与えている。 そう言えばテレビを見せるなと言う 場かもいるが、中には充分に教育上素晴らしい番組も存在するのだ、こう言う番組が大半、9時過ぎ の遅い時間帯に流れる。 本来マスコミ自身が、その程度の常識を守るべきなのだが、その自浄能力は 皆無と言って過言で無い。 この大人が密かな、楽しみで見る様な番組を、子供に見せる様な、番宣 を夕方から流し、子供の意識を煽る。 好奇心旺盛な子供なれば、当然見たいと思うはずである。 この様な情報の管理が不可欠である。 次に、子供の前で、大人の話をしない。 それは親も教師もである。 更に、子供と大人が同次元の 会話をしない、今の子供の大半は、教師とタメ口である、敬語の復活、目上である事を、子供に 分らせなければならない。 テレビの影響も大きいが、子供が親や教師に感謝を述べる時に、 「ありがとう」と平気で喋る、宣伝やドラマが多いが、本来、目上の者に対して、「御座います」 を付けるのが当然であろう。 その事すら、今の脚本家は判っていない、その様な無知蒙昧な、 脚本家は、追放すべきである。 子供が親や教師、老人に何が{ありがとう」だ、ふざけるな。 教師は友達ではない、無論親も友達ではないのである。儒学と言うと、上下関係だけの古臭い思想で あると、屁理屈を言っている馬鹿者もいるが、儒学の中で朱子学の一派がその形式に拘っただけで、 論語等は、上下関係ではなく常識的な礼儀をその思想としている。 礼節のかい会話が子供を、 プチ大人にしており、大人もまた、その様な子供を何処かで、認めている。 だからこそ、過度に 子供の世界に介入できるのである。 大人は大人、子供は子供と、はっきりと分け隔てて教えるべき である。 同次元、同じ目線と言うのは、教育者の敗北を意味している。 この様な勘違いが、 今の教育現場を崩壊させているのである。 体罰の問題も同様で、大人と子供は違うのだという 次元でしかるのであれば、それは教育であり、同次元で行えば暴力である。 また、体罰と 拷問は違う、戸塚ヨットスクールは体罰ではなく、完璧に拷問である。これも子供を大人と同様に 考える低次元な論で、彼をして教育者とは言わない。 彼は単なる程度の低い独裁者である。 子供の自我を崩壊させて、度しやすい子供を作り上げているだけである。子供の自我は伸ばさねば ならない、この自我が個性を作り、その個性が人間性を養うのである。 結論を申し述べる。 1、子供を大人扱いするな。 2、子供に自分は子供なのだと理解させろ。 3、大人の世界に巻き込むな。 4、子供の世界に大人が介入するな。 5、情報を徹底的に管理しろ。 6、敬語を確りと教え込め。 7、大人は目上なのだと言う、事を叩き込め。 8、確りと叱り飛ばせ。 この様に基本的な礼儀を教え込めば、道徳などを学校で教える必要もないし、いわんや、 愛国心など、強制せずとも、自分の国の文化を愛するようになるものである。 今日は、わざと極論にしました、それは、そうでもしないと、この国の教育は本当に米国の様に 完璧に崩壊してしまうからです。それ程、危機的な状況であるのです。 |
戦後民主主義の台頭で、平等と言う思想が日本に押し付けられた。教育界もこの思想を、 金科玉条の如くに、その現場にも反映させた。 その結果は、現在の状況を見れば、理解できるだろう。 子供のコミュニティーに対して、過度の大人の介入が、不自然な平等意識となって、その序列を、 破壊させてしまった。 本来、人間も動物である以上、どうしてもその関係に、序列が存在し、 その事が、秩序を作っている。 而して現在の社会は、現実に序列がはっきりと存在するにも関わらず、 教育の現場では、意味不明な平等を叩き込む、実社会と教育現場の乖離は、子供の思考に矛盾を植えつけ その結果が、子供の言動を著しく、不一致にしている。 小生の娘が、幼稚園時代に何度かその現場を見せてもらったが、 3歳児であっても、遊ぶとき、学ぶ時 既に、その序列があり、指導力のある子や、早熟でませた子、運動能力の優れた子という様に個性が、 その序列を作っている。 これは、人間の本能的な序列であり、否定できないであろう。 しかし、小学校に上がると、その序列は先生によって、崩壊させられる。 かつて、戦前から、戦後 昭和40年代の初頭まで、学校には、暴力的な番長と言う様な存在が容認されていた。 その暴力において、序列の上位に位置する乱暴者を、現代の教育者は否定し、徹底的に排除した。 子供のコミュニティーに大人が介入した結果、子供の序列は、完全に崩壊してしまった。 番長がいた時代は、その暴力の頂点にいる、数人が、学年あるいはその学校の他生徒を虐めの 対象にしたが、それは少数による大多数に対する暴力であった。 この手の番長は、弱いもの虐めを 認めない、序列だけで、人を使い命令する。 他校からの暴力があれば、自分のテリトリーを保護する この序列が崩れた結果、現在の虐めは、弱いものが、徒党を組んで、さらに弱いものを苛めると言う 陰惨な状況を作り出している。 不自然な平等教育に名を借りた、子供社会の崩壊である。 教師自らが度しやすい存在である、おとなしい子、言うことに逆らわない子を育て上げた結果が、 この歪な、子供社会を作り上げている。 子供社会に大人が介入し過ぎたのが原因である。 小学校時代は、まだ体力的にも教師の方が強く、強かでさえある。その時代に、教師が、平等を強制 する。度しにくい子供は、徹底してその癖を押さえ込む、そして出来上がった子供社会は、不自然な リーダーの存在しない、序列なき社会である。その様な社会が安定するはずもない、それが、虐めを 生み、子供の意識を偏向させる。 教育とは、子供の持つ自我を、押さえ込む事でない。 逆にその自我を上手に伸ばす必要がある。 しかし、今の教育は、その逆を推し進めているとしか思えない。 才能を認め、その個性を伸ばす。 などときれい事を並べ立てて、何をするつもりなのか? 子供の才能など、早熟な子であれば、 就学時代に開花しようが、遅い子供は、高校生あるいは、その才能を大学更には、社会人になって 開花する可能性もある。 才能を伸ばすなど、詭弁であり、教師の不遜でしかない。 自我の開花、それだけで良い、その自我を強制的に作り変え、押さえ込み結果として、そこに 有るのは、無自我で人間性の乏しい、歪な人間でしかない。 何か、青少年が起こす犯罪に対して、報道各社のコメントを見ても、空虚な暴論だけである。 「あんな、おとなしい子が」「ごく普通の子が」と言うコメントは、その現実を見極められない 無能な解析でしかない。 子供社会を、崩壊させたのは、大人たちの、この平等と言う意識であり。過度の介入である・。 そのことを、重々承知の上で、教育とは? と言う命題に答えて行かねばならない。 (2)からは その具体的な改革の方法論を、描いていく事にする。 |
まず、教育について述べるに、何故、論旨が男女平等なのか、についてお話しする、 小学校に上がって、直ぐにこの男女平等を、言葉としてではなく、扱いで体得させられるからだ。 確かに第1次性徴を迎えるまでの、幼児は、ネオセックス的で、男女の性差は殆ど無い、しかし、 問題は、男は男として育てられる、あるいは女児は女として育てられる原点がここにある。 男女7歳にして席を同じゅうせず。 と故事にあるのは、科学的な見地からでは無く、本能的な 性差に対する根幹である。 この年齢期に、性差を認めず平等な扱いをする事で、ありもしない男女平等を、子供達は体得 させられる。 しかし、体力的にも、その能力に於いても、あるいは成長の度合いも、男女間には 明確な差が存在する、子供達は、この現実との乖離に戸惑い、混乱する。 戦後、男が軟弱になり、女性的になったのは、この教育が原因している。 この男女平等と言う、間違った思想は、悲劇的な事件となって我々を襲っている。 この思想に 抜けている存在がある。その欠落した存在こそ、子供である。 ある実験結果を、テレビで見た事がある、2歳未満の幼児10人を、両親と別の部屋に連れて行き 残された両親は、大きな外から見えないケースの中に隠れる。 5個のケースには、其々、違う 親達が一人ずつ入っている。 隠れるのが母親の場合、別室から連れて来られた2歳以下の幼児は、 ほぼ100%、声も聞かず、母親が隠れているケースを見つける事が出来るのに対し、父親が隠れて いるケースを見つけられる幼児は、殆どいない。 つまり子供は、本能的に母親を見つけるが、父親 は見つける事が出来ない。この結果は何を意味しているか、答えは容易に結論できる、子供にとって 必要不可欠な存在が、父親でなく母親で有ると言うことだ。 男女平等を語る、女性評論家や学者、政治家に欠落しているのは、男女の本能、子供の存在である。 女が社会進出を図る事を、批判はしないが、結婚し子供が出来た場合、女である事以上に母性が 必要であるのに対して、現在の女は、まず女である事を主張する、これが子供にとってどれだけ、 不幸であるか、母親を必要としている年齢時に、母親は、社会に出ており、保育所などに預けられる 少子化問題を語る時に、良く言われる主張に、子供を育てる環境の整備と言う女が多いが、これは 完全に矛盾している。自分の子供を育てるのに、社会や周囲に配慮しろと言う事を、言っている事に なる。 いい加減に甘えるのはやめろ!と言いたい、かつて多産であった時代に保育所が存在したか あるいは、子育てに社会や周囲の配慮を求めたであろうか、父親が、家の中で母親と同次元の子育て に従事したと言うのであろうか、当時の男は、日がな一日、野良仕事か、狩り、あるいは武士として 外にあったはずで、子育ては母親の社会的な仕事であったはずである。 その本能的な責務を放棄 して、なお社会に進出する事が、正解と言うのであろうか、 それこそ子供にとっていい迷惑である。 子供の人権を蔑ろにした、男女平等など糞食らえである。 幼児期に母親の愛情を体全体で受け止め その中で、人を慈しむ感情や、社会的なルールを身につけて行く、一番大切な時期に、保育所の様な それこそ、十把一絡げの集団生活の中に放り込む、この残酷さを認識した上で、尚、男女平等と 言うのであれば、それは人間の皮を被った悪魔である。 子供が本能的に母親を求める事を否定できない、この事をもとっと考えるべきで、この思想が如何に 子供にとって害有る結果を残しているか、現実を見れば明らかである。 社会進出を男と同次元に果たすと言う女は、母親になってはならない、それを両立しようなどと 言うのは、大変、不遜な考えでしかない。 小生は、男尊女卑の思想を肯定しているのでは無い。本来性差による本能的な、社会に対する、責任が あるのでは無いか、と言う事を提起しているのである。 また、その意識の中に、子供を巻き込むなと言う事である。 この事を中心に、現在の教育について その問題点、そして具体的にどうすべきかを、述べていく事にする。 この序文だけで、相当の批判があるで有ろう事は、想像している。どんどん批判下さり、自らの 考え方の公平性を、描いて行く事にする。 |
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