本論3

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 自由とは奔放なものであるのだから、その自由を享受する為には、リスクを伴うものである。

そのリスクをどうやって回避する事が出来るのか、その事を書いていく。

自由主義が、歴史的な潮流になっている事は事実であり、今のところ、これを否定して生きて行くのは

難しい、しかしリスクの増大は、誰しも望むところではあるまい。 そこで、自由を謳歌しながら、

負の部分を減少する事が可能であるのか、それが教育である。 明治維新以降に、思想、倫理、道徳、

文化、宗教の大半を神道に求めてしまった。 この事が、日本人の道徳観を欠落させたと言って過言

でない。 神道には明確な教義が存在しない、神道に於ける経典に類するものは、古事記、日本書紀

あるいは民説による伝説の類である。 古事記や日本書紀を通読した事があるだろうか、凡そ、

道徳的な事などの記述は殆ど無いのである。登場する神々は、嫉妬深く、強欲で、人間より遥かに、

欲望の塊である事が理解できると思う、 日本の場合、この千五百年有余、思想や哲学、倫理道徳は

儒学に求め、宗教は仏教に、日本の伝統的な文化として、神道を使い分けてきた。 その歴史を

完全に否定した上に明治が存在する。 西欧のキリスト教に匹敵する、国民を一つに纏め上げる、

宗教を模索していた明治政府にとって、徳川時代に学問の中心であった、儒学特に朱子学は、感情的に

否定したい、かと言って仏教は、富国強兵を目指す貪欲な為政者にとって、虚無的に感じたはずである。

仏教は、その欲望を否定した上に教義が存在するからである。 残ったのは、地方地方に残る、

神社の統合による、天皇を神聖化した中央集権の確立の国家神道である。 しかし、この神道が、

殆ど道徳や、倫理観あるいは、思想を持たないから、結果として矛盾を抱え込んでしまった。

この事が、日本人から道徳観や倫理観を、喪失させた元凶である。 戦前は、そんな事も無く

日本人は、立派に道徳観ある生活をしていたでは無いかと言う事を、主張される人もいるが、

勘違いである。 明治時代までは、その儒学の教育や仏教の教えの中に、まだ人がいることが出来た

だけで、それが徐々に薄れて行き、その延長線上に今がある。 儒学と聞けば、人の上下関係だけを

論じた古臭い封建の世だけに通用する思想であると、勘違いしている人が多いのだが、 儒学には

時代時代によって学派が存在しており、江戸時代に主流であった、朱子学は確かに上下関係を、

規定した思想で出来上がっている事は事実であるが、 論語には、全く別の世界が広がっている。

この儒学による思想を明治以前に戻して、口語体で構わないので幼年時より、教えるべきである。

キリストやイスラムの様に、宗教にその道徳や生き方を強制される事が、苦手である日本人にとって

唯一、その思想の中に道徳や倫理観を語る事の出来る思想が儒学である。 この中には、神の存在も

絶対的な国王も書かれていない。 国王も人であり、絶対的な存在ではない。 そこが日本人の

感性に合致しているからこそ、1世紀以上に渡って、国学として君臨できたのである。 

今でこそ堂々と政教の分離を規定しているが、日本の場合、源平の頃から、宗教が政に関与するを

嫌っている。 平清盛による比叡山の強訴の鎮圧等を見ても理解できる。 同時代に、欧州で、

キリスト教の総本山バチカンを否定する様なものである。 日本人にとって武家による政治が

その宗教の政治関与を嫌った事が、日本人の宗教観を他国のものとは違ったものにしたと、言えるで

あろう。

神も仏も存在しない、道徳観、倫理観、この日本の歴史的な思想を、明治政府は歪な、神道と言う

ありもしない、不合理な思想を無理やりに作り上げた事で、壊してしまった。

この儒学を、現在に同化させた思想を模索し、教育する事で、社会道徳の向上を図り、その結果として

充分に日本人らしい日本人でありながら、自由を謳歌し、法律に縛られる事なく、安全な社会へと、

導かれる。 この個々の道徳観倫理観の向上が不可欠で、米国や仏国が、自由で奔放な社会であり

ながら、社会が崩壊することなく続いている、キリスト教の宗教的な道徳観に、勝るとも劣らない

思想を作り上げることが出来ると考えている。

この思想は、宗教で無いので、憲法に抵触する事もなく、公立、私学、宗教に関わらず、教える事が

可能であり、 充分に国是になりうる、 この儒学の復活を提言すると共に、それが自由を享受しながら

そのリスクを回避できる唯一の方法であると結論する。
 自由とは奔放なものであるのだから、その自由を享受する為には、リスクを伴うものである。

そのリスクをどうやって回避する事が出来るのか、その事を書いていく。

自由主義が、歴史的な潮流になっている事は事実であり、今のところ、これを否定して生きて行くのは

難しい、しかしリスクの増大は、誰しも望むところではあるまい。 そこで、自由を謳歌しながら、

負の部分を減少する事が可能であるのか、それが教育である。 明治維新以降に、思想、倫理、道徳、

文化、宗教の大半を神道に求めてしまった。 この事が、日本人の道徳観を欠落させたと言って過言

でない。 神道には明確な教義が存在しない、神道に於ける経典に類するものは、古事記、日本書紀

あるいは民説による伝説の類である。 古事記や日本書紀を通読した事があるだろうか、凡そ、

道徳的な事などの記述は殆ど無いのである。登場する神々は、嫉妬深く、強欲で、人間より遥かに、

欲望の塊である事が理解できると思う、 日本の場合、この千五百年有余、思想や哲学、倫理道徳は

儒学に求め、宗教は仏教に、日本の伝統的な文化として、神道を使い分けてきた。 その歴史を

完全に否定した上に明治が存在する。 西欧のキリスト教に匹敵する、国民を一つに纏め上げる、

宗教を模索していた明治政府にとって、徳川時代に学問の中心であった、儒学特に朱子学は、感情的に

否定したい、かと言って仏教は、富国強兵を目指す貪欲な為政者にとって、虚無的に感じたはずである。

仏教は、その欲望を否定した上に教義が存在するからである。 残ったのは、地方地方に残る、

神社の統合による、天皇を神聖化した中央集権の確立の国家神道である。 しかし、この神道が、

殆ど道徳や、倫理観あるいは、思想を持たないから、結果として矛盾を抱え込んでしまった。

この事が、日本人から道徳観や倫理観を、喪失させた元凶である。 戦前は、そんな事も無く

日本人は、立派に道徳観ある生活をしていたでは無いかと言う事を、主張される人もいるが、

勘違いである。 明治時代までは、その儒学の教育や仏教の教えの中に、まだ人がいることが出来た

だけで、それが徐々に薄れて行き、その延長線上に今がある。 儒学と聞けば、人の上下関係だけを

論じた古臭い封建の世だけに通用する思想であると、勘違いしている人が多いのだが、 儒学には

時代時代によって学派が存在しており、江戸時代に主流であった、朱子学は確かに上下関係を、

規定した思想で出来上がっている事は事実であるが、 論語には、全く別の世界が広がっている。

この儒学による思想を明治以前に戻して、口語体で構わないので幼年時より、教えるべきである。

キリストやイスラムの様に、宗教にその道徳や生き方を強制される事が、苦手である日本人にとって

唯一、その思想の中に道徳や倫理観を語る事の出来る思想が儒学である。 この中には、神の存在も

絶対的な国王も書かれていない。 国王も人であり、絶対的な存在ではない。 そこが日本人の

感性に合致しているからこそ、1世紀以上に渡って、国学として君臨できたのである。 

今でこそ堂々と政教の分離を規定しているが、日本の場合、源平の頃から、宗教が政に関与するを

嫌っている。 平清盛による比叡山の強訴の鎮圧等を見ても理解できる。 同時代に、欧州で、

キリスト教の総本山バチカンを否定する様なものである。 日本人にとって武家による政治が

その宗教の政治関与を嫌った事が、日本人の宗教観を他国のものとは違ったものにしたと、言えるで

あろう。

神も仏も存在しない、道徳観、倫理観、この日本の歴史的な思想を、明治政府は歪な、神道と言う

ありもしない、不合理な思想を無理やりに作り上げた事で、壊してしまった。

この儒学を、現在に同化させた思想を模索し、教育する事で、社会道徳の向上を図り、その結果として

充分に日本人らしい日本人でありながら、自由を謳歌し、法律に縛られる事なく、安全な社会へと、

導かれる。 この個々の道徳観倫理観の向上が不可欠で、米国や仏国が、自由で奔放な社会であり

ながら、社会が崩壊することなく続いている、キリスト教の宗教的な道徳観に、勝るとも劣らない

思想を作り上げることが出来ると考えている。

この思想は、宗教で無いので、憲法に抵触する事もなく、公立、私学、宗教に関わらず、教える事が

可能であり、 充分に国是になりうる、 この儒学の復活を提言すると共に、それが自由を享受しながら

そのリスクを回避できる唯一の方法であると結論する。
 今日から自由と言う事について語っていく。

自由と言う文字を見た時に、何を感じるだろうか? 米国のこと、あるいは仏国のこと、

人それぞれに、その印象は違うだろう、実はそれが自由と言う事である。

自由と奔放は違うと言う人が多いのだが、それが一番の間違いである事に気づかない為に、

混乱が生じるのである。

米国もこの混乱の中にある。 9.11がそうしてしまった、本来、自由と言うものは、

奔放で危険なものである、法律を守って、善人として生きるのも自由なら、それを侵して、悪人として

生きるのも勝手であるのだ。 法を犯せば、それなりのペナルティーを科せられる。この罰則を、

義務として受ける覚悟であるなら、悪党として生きるのも人生である。 

日本の場合、暴力団に所属する事で、基本的には、そう言う生き方を選んだと言う事になるのだが、

その存在を法律で規制する事は出来ない。 もし自由が奔放なものでなく、法の下に自由なのだと

主張すると、その存在を法で規制出来るはずである。 どうして出来ないのか、憲法があるからで

もし、統制的な自由認めない制度を持つ国であれば、その様な組織は存在出来ようはずはない。

つまり、国家が自由主義を認めた時から、国民は自由な権利を有すると同時に、そのリスクも

甘受しなければならない。 

この覚悟無しに、自由を謳歌してはならないのである。 しかし、日本人はその覚悟が出来ていない。

治安が悪化すると、警察の所為にする、政府の責任を問う、あるいは社会の所為にと、凡そ己の

責任を考えていない。 自分だけが自由なのではない、周囲に存在する全ての人が自由なのである。

この危険性を認識せずに、自分だけが自由を謳歌するなど、一種のエゴイズムである。

国家が自由を担保すると言った間抜けな政治家がいたが、国家が自由を担保した事など、歴史上

存在しない。国家とは、その自由を法律で制限する事によって、その秩序を保っているのである。

もし国家が自由である事を担保したら、法律など必要が無い、全てを自由にして国民一人ひとりに、

そのリスクを配分すれば事足りるのである。 テロの多発で、米国もその自由を、制限し始めている

その事が世界を閉塞的な状況を作っている。  しかし奔放な自由を謳歌してきた米国民が、この

閉塞感に長く絶える事は出来まいと思っている、早晩、その規制は薄れてくるはずである。

しかし日本の場合、一度規制すると、それが無くなる事は殆ど無い、 国民がそれを望むからである

治安の悪化に伴う、生活環境の著しい危険性に、日本人は耐えられない。 その為に、自由と言う

権利を放棄しても左程の閉塞感を持たない文化を有しているからだ、自由主義が、正しいかどうか、

それは、未来の人々が決める事である、この時代に生きる者には、判断できないのである。

少なくとも、今、日本は自由主義国の一端を担っているとすれば、自由を守る側にいるわけである。

だからこそ、北朝鮮の制度や思想は歪に感じ、否定的に判断しているのである。 かの国の様な、

統制国家から見れば、自由主義は罪多き体制と感じているはずである。 この手の思想に中間は、

存在しない、統制の中で息苦しくとも、平安に過ごすか、あるいは統制の無い自由を謳歌する

国にてそのリスクを自己責任と割り切って生きて行くかのどちらかである。 

これが自由であると言うことである。 さてこの自由を謳歌しながら、その危険性をどう回避するか

つまりリスクを低減するにはどうすべきかについて、次回から具体的に述べて行く、 制限や、統制を

せずにである。 一見不可能に感じる、この命題も、公平に考えれば、その答えが容易に導き出せる

のである。

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