本論5

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 自由を担保するのは、国家であると現在の総理が以前に発言しているが、これは根本的に

間違い。「自由」は自由主義をその国家が国是とした時点で、国民全てに与えられた犯す事の

出来ない権利であって、国家が、況や為政者の恣意で担保されるものでは無いからである。

国家は、その自由に対して、社会秩序を安定させるを目的に、法律と言う制限を加える存在で

ある。その国家権力をどこまで許すかを目的にしたのが、民主主義による国会の運営に他ならない。

この形態を法治国家と言う。

先ごろ、学校に於いて苛めを原因とした自殺がクローズアップされ、苛めを無くそうと言う趣旨の

報道や運動が盛んだが、はっきりと言って無駄である。

況や、教育基本法などの抜本的な改正によってこの問題が解決する可能性があろうはずはない。

人間に個人差がある限り、差別感による苛めは、その形態こそ違いがあるものの、無くなる事は

あり得ない。しかし少なくとも「自殺」を減少させる事は可能である。

苛めを放置せよと言う事ではない、学校と集団生活に於いて、その管理義務は学校にある、つまり

安全に秩序を保った環境を保全する為には、苛めを放置する事は、その義務を放棄した事になり、

結果として、苛められる側の教育を受ける権利を阻害してしまうからである。

しかし、学校内を完璧に把握する事も不可能であると言う現実もあり、この方策を模索する

必要があるのだが、現実には不可能であろう。そうなると苛められる側をどう救うのか?と言う

命題に学校は答えられないことになる。

何故、戦後60年、苛めの問題がクローズアップされるのか?答えは容易に出てくる。苛められる側に

自殺と言う結論を導く者が増えていると言う事に他ならない。

それでは、どうして苛めが増えたのだろうか? 実はこれも{自由}を与えられた結果である。

何度も述べているが、「自由」とは奔放、放埓なものである事を認めなければ、この意味が理解

できない。規則を守って安定し静かな生活を楽しむ自由もあれば、逆に規則を破り、自分勝手に

あるいはエゴイスティックに、そのペナルティーを甘受しながら生活する自由も存在すると言う

ことである。規制と自由を上手に使い分ける、絶妙なバランスを実現する事は不可能である。

不可能と言うより、規制を徹底した、体制は最早「自由」と言わない。

自らの自由を認めながら、他者の自由は制限して欲しいでは、自由を権利する資格はないのである。

つまり、自由を奉じたと同時にこのリスクを甘受する事が、自由を担保すると言う最低限の規則

である。つまり社会がそうである様に、学校内も同様のリスクの上に存在している。

これを理解できないと、苛められる側は常に被害者であり、間違っていない、あるいは正義が

存在すると思い込んでしまう。これで、現在の状況を説明できるのではないか、被害者の両親が

その原因を学校の管理体制や、加害児童に向けられている事である。

しかし、同様の苛めや差別を受けて尚、強く生き抜く子供の方が自殺を選ぶ子供より遥かに多いと

言う事実を、この親達はどう判断しているのか、さらに報道各社の主張も同様で、加害児童が、

自殺者に、〜発言した、〜苛めた、〜死後ですら心無い発言を繰り返している。あるいは学校が

その事実を隠蔽した、相談したが不作為であった。など、その全てが被害者、加害者の二元論で

語っている。これでは公平に考えても到底、その問題を真摯にその分析をしようと努力しているとは

言えまい。この報道姿勢には、全く考慮されていない一点が存在する。

それが、「自殺」した子供の分析であると同時に。その家庭の教育のあり方である。

少なくとも、この手の問題が起こると、マスコミは「自由主義」を忘却する。ただ被害、加害の

二元論に終始する事で、無くなりもしない苛めを無くそう等という凡そ感情論に支配される。

根底に「自由」があり、その「自由」にはリスクが付いており、結果として差別意識も、差別感も

なくなりはしない、この差別感が苛めを生む。

マスコミは、ある意味エリート集団である、その為に自らの差別意識が理解できていない。

地べたを這いずって生きる経験をしていないからだ、その為に容易な二元論に、その結論を

探そうとする。本来、豊かで平穏な生活に自由のリスクは、微小でしかないが、そうでない生活

の中には、それ相応のリスクが付いて回る。この事が理解できないとジャーナリストとして失格である。

つまり取材する記者の恣意に任せた「自由」に対する無理解がこの結論を産んでいる。

もし、この苛めによる「自殺」を無くそうと考えるのであれば、「自殺」した子供に目を向けねば

ならない。「自殺」と言う結論を引出す子供こそ少数派であり、社会から逸脱した存在である事を

認めねばならない。

苛めは無くならない、そして自殺する子供は少数である。この現実から逃避した社会が存在する。

そしてこれが、この問題の解決を不可能にしている主たる原因である。

自由主義社会で生きて行くと言う事は、子供の頃から、そのリスクを背負う事になる、この事を

理解させないから、今の子供は安易に、自己責任を他人に転嫁する。しかしその姿は、大人社会の

鏡である事は間違いない。

格差社会を容認する、優良企業と言われる経常収支黒字の大企業に対する減税が、社会を幸せに導くと

考える為政者、その穴埋めに弱い者から税金を取り立てる。この構造が巡り巡って、結果として豊かな

経済状況を作り出し、最終的にはその弱い者をも包括する豊かさが訪れると主張する。嘘である。

大手の優良企業は、贅肉をそぎ落とし、人件費を抑制する為に工場の機械化を進めた結果が、収益の

増大を促した、そして膨大な利益は次の機械化に投資される。つまり雇用の促進には繋がらない。

そして中小企業は、機械化する資本が無く、その結果、生産コストが下がらない、しかしその

注文相手である大手は、その対価を下げてくる。更に利益が縮小して、資本投下が出来なくなる。

この悪循環の中でのた打ち回っているのが、国民8割の生活を支える中小企業の姿である。

つまり大手を優遇する減税は、社会生活に反映されることはないのである。しかし為政者は、

この事を無視するかのように、その減税を実行する。その穴埋めに保険料率の引き上げ、低所得者に

対する課税強化、これは国家自体が弱い者苛めを率先垂範していると言う事に他ならない。

この苛め体質が、社会そのものを閉塞させ、それが社会的な苛めを多く産んでいる。これを

子供は見ながら生きているのである。学校社会だけ、この弱い者苛めがなくなるなど、あり得ない

のである。それにも拘らず、報道も権力機構も苛めをなくそう等というお題目に終始しているのである。

それは、双方とも、この減税に恩恵を受けるであろう勝ち組に属したエリートであるからである。

社会は須らく、平等であり、苛め等あり得ないと言う根本に立っている。この意識が、この問題を

全く違った論点へと導いたのである。

日産のカルロス、ゴーンが経営者として模範であると表彰されたが、彼をして経営者とは言わない。

彼の改革は、単に足し算、引き算であり、彼をして可能であった訳でない。しいて言うのであれば、

彼が西欧の合理主義で、日本の伝統的な慣習を否定できたと言う一点である。

つまり、増えすぎた人員の整理、赤字工場の閉鎖、これに伴う経費の削減が、黒字を生んだと言う

ことであり、膨大な失業者、下請けの廃業、倒産を招いているのである。つまり多くの犠牲者の上に

今の黒字があり、その利益から税金を多く支払うことで社会に対する謝罪であろうが、逆に減税と言う

恩恵を受ける事になる。その結果が、残った社の優遇と、新たな設備投資であり、それは機械化である。

何処に一般国民が恩恵を受ける隙間が有ると言うのか。

あの程度の改革であるなら、算数のできる子供でも充分に可能なのである。しかしリストラの嵐

をへてスリムになった大手だけが減税されると言うこの不公正な政策は、早々に実行されるであろう。

この苛めに抗うことが出来ないのが、弱い国民であり、その弱い国民は更に弱い国民の権利を圧迫する

ことで生き延びる方策を実行するのである。苛めの連鎖がここにある。 この体質が学校内に映され

苛め問題となっている。つまり苛めは無くなりはしないし、減りもしない。むしろ増加していくであろう

、社会がそうである様に・・・・・・

だからこそ、自殺と言う結論を出す側が、強くあらねばならない。その為には、自らも周囲も

その精神を鍛える努力をすべきで、死という結論を導いたと同時に負け犬なのであると言う現実を

教え込む必要がある。

格差社会と苛めの増加は無関係でない。そしてこの格差社会は、容易にその格差を狭めることは

ないのである。むしろ10年後、あるいは20年後には、その格差が更に広がり、結果として、

弱い者苛めの社会は、そのままもっと酷くなっている可能性の方が大きいのである。つまり

学校内でも同様に、この陰湿な苛めが増加している可能性の方が大きいと考えている。

すると苛めを無くすどころか増えていくと言う結論になる。だから、自らの精神を鍛える必要が

あり、そのことが自殺という結論を引出す子供を減少させる唯一の方法である。

そして、この格差こそ「自由主義社会」の最終的なリスクでもあるのだ。
 「公平と言うこと」を書き始めてついに結論を述べるところまで来た。

「公平」と「平等」との違い、この社会は須らく「公平」であるべきと言う主張は理解して

いただけたと考える。この「公平」には其々に基準があり、その基準の違いを認めることも

また、「公平」なのだと言う事を結論として申し述べたいと思う。そしてそれは自由を奉じる

事以外には達成できないと言う事を述べて行く事にする。

「自由」とは?と言う命題を的確に答えられる人がどれだけいるのであろうか?

恐らく、「自由」と言う概念を言葉として理解しているだけで、現実に「自由」を理解する事の

難しさに、曖昧にしてきたのではないか、戦後この自由を手に入れた我が国では、この

福澤諭吉が、英語のfreeを自らをもって由とすると解釈してできたと言われる、意味すら

理解できずに、自由と奔放は違う、放埓などとは一線を隔すと理解してきたはずである。

この勘違いが、自由であることの偉大さを矮小化し、逆に自由である事の難しさを理解できない

安易な自由論を許してしまった。

「自由」とは「奔放」「放埓」である。そしてその結果として背負い込む「負」もまた甘受すべき

義務である。

日本だけに限らず、欧米の大半の国家は、自由主義を奉じ、民主主義、資本主義を国是としている。

しかし、少なくとも日本に於ける「自由」と言う概念は、西欧では理解されない。西欧が是と

する訳ではないが、少なくとも彼等の奉じる「自由」には血が流れているのに対して。日本の

この概念には、血が通っていない。どうしてこれだけの差が生じる結果となったのか、この差を

鑑みると、その違いが具体的に見えてくる。

欧州、特にフランスに於いて生まれたこの「自由」と言う概念は、国民が自らの血と犠牲によって

掴み取った権利で有ると言う覚悟が、そのまま欧米に伝わり結果として、自由に伴うリスクの

責任は、その権利と裏腹な存在である事を学ぶことが出来たのに対して、日本の場合国家の体制として

この「自由」を受け入れたのは、敗戦によってであり、国民の総意的な理解によってではないからで

ある。つまり国家体制が敗戦によって強制的に変更された事で強制的に与えられた「自由」である

為、それは国家によって都合のよい「自由」と言う概念の押し付けになっている為である。

その結果、自由と奔放は違うと言う「自由」は奔放ではなく社会ルールや法律を遵守する事で

与えられる権利であると理解させられたのである。その為に本来は「自由」を奉じることで

生じるリスクは、須らく社会が取るべきであり、個々はそのリスクを認めないと言う訳の分からない

矛盾を孕みこんでしまったのである。事件や事故が起こると、日本人の殆どは、社会制度や法律の

不備、あるいは為政者の責任を問うが、その事が、自らの自由と言う根幹的な権利を制限する事に

なっている事に気付かないでいる。飲酒運転による事故が多発すると、その犠牲者の感情論に

流されて法規制の不備を問い、結果としてその法律が厳しくなる、しかし他の刑法との刑罰が

考慮されないで付け焼刃的に成立したこの法律は施行と同時に矛盾を孕みこみ、むしろ轢き逃げを

誘発すると言う悪循環を生んでしまっている。世論の感情論に押し流された法律など百害あって

一利無しと言う、いい例である。 飲酒運転による危険運転致死傷罪より轢き逃げの方が、遥かに

刑罰が軽微である為に、飲酒運転して人身事故を起こした運転手は、数日間逃亡して後に、出頭

すると飲酒運転は立件できない為に、業務上過失致死傷罪で裁かれる事になり、その刑罰は半分

以下になるからである。罰則が厳しくすれば、犯罪が減少するのであれば、米国の犯罪発生率は

日本の数分の一であるはずで、現実には全く逆で、その率は日本の数倍にも上っているのである。

しかし、米国民が強姦が多発するから、今以上の罰則規定を厳しくせよなどと言う社会的な運動を

起こすことは無い。欧州も同様で権利の侵害があると大きく社会運動として取り上げられるが、

そうでない事は、左程大騒ぎしない。しないのではなく、思想としてそのリスクを甘受する覚悟が

出来ていると言うべきであろう。

権利を制限する法律は、現実には拡大するべきではない、自由と矛盾するからである。

社会の潤滑油として最低限の法律による法治国家が自由を最大に誇るべき原点であり、それを

国民の方から制限すべきと言う議論が上がる事の矛盾を矛盾と思わぬ国民の存在が、日本の「自由」を

息苦しいものにしているのである。

自由とは、法律を守り静かに平和に生きると言う自由を与えると共に、法律を犯して、他人の権利を

侵害し社会に害毒を流し、その為に刑法で裁かれ刑務所に服役すると言う自由すら担保しているのだ。

自らが「自由」を得たと同時に、他人にも与えられているのだと言う意識を常に持つ必要があり、

その他人とは、善人で有ると言う保証は何処にも無いと言う事も受け入れなければならないのである。

ただ、為政者のみ、その自由に制限が科せられており、それが憲法である。憲法改正論議盛んである

昨今、この憲法に国民に与えられる権利を記するのであるから、義務も書くべきなどと言う事を

実しやかに主張する馬鹿者が多くいるが、権力機構に対する制限としての憲法であり、国民の義務を

規定するものではない。憲法に義務を謳った時点で、自由主義を放棄したと言うことと同義である

と理解しなければならない。国民一人ひとり、個々は生れ落ちたと同時に自由であり、その自由とは

奔放、放埓なものであると言う事を学ばせる必要がある。その事を学ばずに、自らの自由は享受しておき

ながら、他人の自由は認めたくないでは、自由を享受する資格は無い。自由に伴うリスクを自らの

責任に於いて甘受する事が「自由」を守る最低限の資質である。

この自己責任論もかつて盛んに論議されたが、その議論もまた本末転倒した議論に終始してしまった。

紛争地域にボランティアに出向く者、報道関係者、誘拐や紛争に巻き込まれる危険性が誰の取るべき

責任であるのかと言う議論である。個々が取りうる最大の自己責任は、自らの「命」である。これ以上の

責任は取りようが無い。危険地域のボランティア活動を国家が、個々の自己責任でと切り捨てれば、

国際的には、血を流さない日本人と言う不名誉なレッテルを貼られるだけであり、行く人の勇気を

阻害するものであろう。つまり、個々の責任とは、その命を懸けることであり、その国民が社会正義

の為に勇気を持ってそのリスクを甘受したのであれば、その勇気に対して自己責任を科するのでなく

国家の義務として、その援助をすると言う事が為政者の責務である。当時、小泉も安倍も随分と

身勝手な国家論をぶち上げて自己責任論を展開していたが、それは本末転倒した議論である事は

自由の意味を理解すれば分かろうはずである。

つまり、自由を守る為の最大のリスクは、自らの命であり、そのリスクを考慮する事が自由を

享受しうる最低限の資格であるのだ。

この自由と言う概念を、詳細に分類して例を挙げ、この「公平と言うこと」の結論として

展開したいと考えている。

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