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BIENVENU 海山ヒロの我が家へようこそ
旅写真日記「バルト三国・243名様歌唱の旅」連載中。

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あ、さて。潮風と冷たいバルトの海と戯れ、存分にリフレッシュしたあとは、次なる目的地へ移動することに。

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その前に、ケルツさんが「エストニアでとてもポピュラーなお菓子です」と配ってくれたタフィーで英気を養おう。


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体感、バスで10数分移動した先にあったのは、テレビ塔。ソ連の下領土内には必ずある、空を切り裂くようにやたらと高く先鋭的に作られたあれである。


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テレビ塔の下にはソ連邦時代の日々の生活を再現した博物館がある。

時間の関係から今回は内部を見学しなかったが、ガラス越しに中を見ながらケルツさんが実に興味深い話をしてくれた。

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見上げてもまだ届かないほど高いこのテレビ塔。1981年にオリンピックの為に建てられたここは、エストニアがソ連から独立を宣言した1991年、まさに革命の大舞台となったそうな。

情報統制は共産主義の十八番。それに対抗する為、革命の闘士達はこのテレビ塔を占拠し、世界中に独立を高らかと宣言。それを阻止せんとソ連軍の戦車隊が派遣され、その戦車隊からテレビ塔と中にいる闘士達を守るために、市民が集まって、いわゆる「人間の鎖」を作った。

その中になんと、ガイドのケルツさんもいたと言うのである。いや驚いた。

ソ連占領時代、彼女はまだティーンエイジャー。
彼女が笑いながら言う事には、「若い時は馬鹿な無鉄砲な事をしますよね?」。
ソ連の占領に慣れてしまっていた祖母や母は「本当の事を言えば殺されてしまう。は向かうなんてとんでもない」と彼女を止めたが、そんな言葉は10代の熱き思いを止められるはずもなく。
まだ携帯もない時代、「思えばどうやって連絡を取り合っていたんでしょうね?」と言う様な状況下で、ケルツさんは夜な夜な家を抜けだし、集会に参加していたそうな。

いやぁ。「歴史の生き証人」と言うには彼女は若く、明るく朗らか過ぎる気がするけれど。英雄って言うのは案外身近にいるんだなぁ。

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そんな驚きの過去にあくまでさらりと触れて、ケルツさんの説明は続く。

例えば、「ソ連時代は何でも配給でしたが、その代わり家庭でイモやリンゴを作っていましたから、飢えることはありませんでした」「なんでも自分たちで作って修理していましたね」

ううむ。ITが隅々まで浸透している現代のエストニアと、なにより垢ぬけたケルツさんとその「時代」がわたしの中でうまくつながらない。
1991年と言えば27年前。おそらくケルツさんとわたしは同年代。地球の反対側でわたしが高校受験に向かっていた頃、彼女は「世界」に立ち向かっていたわけか………。

そう考えると、窓越しに見えるこのソ連製の車が何か違うものに見えてくる。

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こっちのバイクなんて、今でも十分通用するデザインと色。

そうなんだよな。
「東側」「鉄のカーテンの向こう側」なんて言っているけれど、そんなの単なる社会体制の違いにすぎないわけで。そこで生きている大部分の人にとっては、はっきり言えば入れ替わってもあまり変わりがないもので。

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でも自分の人生を自分で決める権利、いわゆる「自由」は、命がけで勝ち取らねばならない時もあるわけだ。
ケルツさん達エストニアンはそれを27年前に成し遂げた。

「あの時、向かい合った戦車の中にいた兵隊さんと目が合いました。まだ子供の様な若い兵隊さんでした。たぶん彼らもよくわからないままここに命令で連れて来られ、私達と向き合ったのでしょう」

熟練兵でなかったからこそ、ケルツさん達を戦車が蹂躙する事はなく、一発の砲弾も発射されなかった。とは言え、当時はそんな事は分からなかったわけだし、目が合うほどの至近距離で本物の戦車と向き合う勇気はわたしにはない。

いまはこんな小さな石碑が立つだけのこの場所だが、27年前の夏の日、ここでケルツさん達は闘い、歴史が動いたのである。


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