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ブログサボり気味ですいません。
京都では鉾町にて鉾建てが始まりいよいよ祭本番です。
僕もちょっとお祭り関係者なんで毎日忙しくなって来ました。
祇園祭は平安時代に都に流行った疫病退散の祈願がルーツとされ、祇園社(八坂神社)の奉納からはじったとされています。
現在の有名な祇園祭は町衆の祭とされ都の町衆の財力にて発展して行きました。
織田信長が上杉謙信に贈った洛中洛外図屏風にも祭の様子が描かれています。
この祭は皇族や公家、武将の援助を全く受けずに発展して来ました。
これはこのお祭りが都の伝統産業であった織物、染物、飾り金具、など一流品を惜し気もなく使って言わば都のアンテナショップ的役割を果たしていたからです。
また都の人は町衆でも高い教養を持っている事をアピールするため、中国の故事を題材にした山や鉾が作られました。
こうして各鉾町では競って海外の良品の染織物を買って飾る様になりました。
現在の約30の山鉾があり中国、インド、ヨーロッパの国々から約300点の染織物を所有し飾られます。その中でいくつかは国の重要文化財にしてされています。
特筆するは、鯉山と鶏鉾に使われてる毛織物です。
この毛織物はベルギーブリュッセルの織物工房で織られたタペストリでデサインがギリシャ神話の逸話を題材にした物になります。
このシリーズの織物は祇園祭の他にも大津祭、長浜祭のダシの見送り幕に使われています。
近年、購入経路から日本に伝わった経緯等が調べられて意外な事実がわかりました。
時は戦国時代、1613年に伊達政宗の命をうけ支倉常長がフランシスコ会士ソテロとともにのヨーロッパに向かいました。太平洋を渡りメキシコ経由でスペインに到着。
スペインでは国王フェリペ三世に謁見後、ローマに移動しローマ法王パウリス五世に謁見。
ローマ、スペインでは国賓扱いで迎え、帰りに日本の国王にと、たくさんの財宝が与えられました、この中にベルギーブリュッセル製のタペストリも含まれていました。
当時タペストリは絨毯として地面にひくのではなく壁に飾る美術品として扱われました。
支倉がスペインに訪問した表向きの目的は貿易ルートの開拓でしたが、真の目的は伊達藩とスペインとで軍治同盟を結び幕府討幕が真の目的でした。
しかしこれはスペインから断られため実現しませんでした。
支倉がヨーロッパから帰国した時には徳川幕府も盤石になり鎖国政策もはじっていました。結局貿易も軍事も実現しませんでした。
さて持ち帰ったタペストリですが5点シリーズだった様です。しかし現在タペストリは伊達家には一枚も現存しません。
現在判明している所在は、
加賀前田育徳会に1枚
芝増上寺に1枚(ただし火災により焼失)
祇園祭鯉山に1枚
祇園祭鶏鉾・祇園祭霰天神山及び長浜曳山祭鳳凰山に分割して1枚
祇園祭白楽天山及び大津祭月宮殿山・龍門滝山に分割して1枚。
加賀前田育徳会所蔵のタペストリは三代藩主前田利常の時の伝来品とされ、図柄はギリシャの詩人ホメロス作のトロイ戦争を題材した叙事詩「イーリアス」の一場面でトロイの王子パリスと美女ヘレンとの出会い図。
このタペストリは江戸以前に伝来したタペストリでは唯一完全な形の壁掛けとして残っています。
ほとんど使用されず、保存状態もよく当時の彩色も鮮やかに残っています。
増上寺のタペストリは徳川家の菩提寺であったため前田家に伝来したのと同時期と考えられ、増上寺の本尊後ろにかけられてましたが、明治の火災で惜しくも焼失してしました。
残された写真で確認出来る図柄はトロイ戦争を題材した叙事詩「イーリアス」の中のトロイのプリアモス王が単身敵将アキレウスの幕舎を訪ね、王子エクトルの遺体返還を求める場面。
京都にある川島織物が所有するタペストリが構図が酷似しており同じ下絵から織られたのではといわれています。
この2枚は伊達家より徳川家に献上され、その1枚が前田家に譲られてたのでないかと言われています。
増上寺は徳川二代将軍秀忠以降の菩提寺(墓地)となっていますし、前田利常の妻は秀忠の次女ですので嫁入りに徳川家より送られたのではないかと推測されます。
残り3枚は各町が購入してお祭りに使われています。
まずは祇園祭の鯉山。
図柄はギリシャの詩人ホメロス作のトロイ戦争を題材した叙事詩「イーリアス」の一場面でトロイの王プリアモスと后ヘキューバを描いた図。
このタペストリをノミにて大胆に分断して山の胴掛け、前掛け、見送りにしたてなおして飾っています。
次に祇園祭鶏鉾見送りと長浜祭鳳凰山見送り
図柄はギリシャの詩人ホメロス作のトロイ戦争を題材した叙事詩「イーリアス」の一場面でトロイの王子エクトルとその后および子息との別離の場面を描いた図。
このタペストリは半分に分断してそれぞれの見送りにしたてなおして飾っています。
次に祇園白楽天山前掛けと大津祭月宮殿山・龍門滝山見送り
図柄はギリシャの詩人ホメロス作のトロイ戦争を題材した叙事詩「イーリアス」に続く「オデュッセイア」の一場面でトロイ陥落の情景を描いた図。
このタペストリもいくつかに分断してそれぞれの見送りや前掛けにしたてなおして飾っています。
このタペストリはトロイの木馬など重要な部分が描かれた中心部分ロストしており、他の山鉾町に売られその後の幕末の大火で焼失したかもしれません。
京都、滋賀のお祭り関係に点在している3枚は現在の各町内に渡った経緯ははっきりしていません。
現在の各町内はそれぞれの京都の商人より購入して使用するようになりました。
各町内が商人より購入した時期が1800年から1820年の間に購入されてました。
鯉山町にはこのタペストリの経路を物語る言い伝えがあります。
「奥羽のてんねん寺から京の寺町頭の天寧寺へ、織物を運んで山鉾町へ見送りとして売り込むためその寸法に合わせて切ろうとしたが・・・」
伊達藩の仙台およびその周辺にはてんねん寺なるお寺は存在しないのだが、会津藩の会津若松に天寧寺があり、京の天寧寺と密接な関係のある寺院があります。
タペストリが売買された1800年ころは天明の大飢饉あとになり、当時の天寧寺の住職は会津藩に信頼を得ており、住職をへて飢饉での財政難を乗り切るために売りに出されたのではないかと考えられています。
ちなみにタペストリ半分を金200両で購入したとの売渡証文がのこっています。
伊達藩から会津藩に渡った経緯はわかりません。でも徳川家、前田家にわたったタペストリと一緒に伊達家より徳川家に献上されたと考えると話がつながる部分が出てきます。
会津藩は織田、豊臣時代に近江日野出身の蒲生氏郷が基盤を築き、最終的には90万石の大名になり、会津若松城を築きました。しかし蒲生家は三代忠郷が25才の若さで亡くなり、会津蒲生家は絶えます。
その後会津藩は2代将軍秀忠の実子で家光を補佐した保科正之が会津松平家の藩祖となります。
前田家と会津藩は保科正之の次女が五代前田綱記に嫁いでます。
また蒲生家と前田家も関係では氏郷の娘が初代前田利家の次男利政に嫁いでます。
こうした関係で前田家、徳川家、会津藩は三者密接に関係しており徳川家から献上された3枚が会津に渡ったと考えても不思議ではないです。
5枚のタペストリにまつわる歴史ロマンです。
祇園祭では貴重な織物のため、現在は複製品を作成し使用しています。
本物は宵山の時に町会所に飾られます。宵山時に一度見学に行ってみて下さい。
画像1
祇園祭鯉山
画像2
祇園祭鶏鉾
画像3
祇園祭鯉山の見送り
画像4
祇園祭鶏鉾の見送り
画像5
大津祭月宮殿山の見送り
画像6
大津祭龍門滝山の見送り
画像7
長浜祭鳳凰山の見送り
画像8
祇園祭鯉山
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とても、素敵なブログですね。
宜しければ、私のブログにあなたのブログをリンクさせて
頂いても宜しいでしょうか。
2008/7/11(金) 午後 3:46 [ ルカ ]
こんにちは
心の隙間を埋めてくれるホームページです。
ここで、リフレッシュして下さい。
ご迷惑でしたらスルーして下さい。
2008/7/11(金) 午後 6:07 [ シマリス ]
ルカさん、はじめまして。
ブログをリンクは頂くのは結構ですよ。
サボり気味ですが、よろしくお願いします。
2008/7/11(金) 午後 6:29 [ サッカーボーイ ]
へぇ〜!さすがにすごい歴史がありますね。
地元に住んでるけど、詳しいことは何も知らないので・・・
非常に勉強になります
今年は秋葉原の事件があったから、宵山も厳重な警戒態勢になるようで
何かと面倒で迷惑な話ですねぇ〜(-_-;)
2008/7/12(土) 午前 9:14 [ まる子♪ ]
まる子さん、どうもです。
見送りや胴掛け一つにすごい歴史がありますね。
さすがに千百年の歴史でしょうか?しかし当時の町人の財力にも驚かされますね。
宵山、厳重な警戒態勢引くこと聞きました、残念ですね。
2008/7/12(土) 午後 0:02 [ サッカーボーイ ]