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私はわざと友達から離れて2日目の修学旅行を終え帰って来た…





―・―・―・―・―100円サンマ

私が小学3年生になる頃、祖母は入院をする様になり祖父は仕事の時間を増やした。

祖父はパチンコ屋で働いており朝の9時から夜の10時まで働く様になった。

3年生の私は学校から帰ると自転車に載って祖父の働いているパチンコ屋に行くようになった。

夕方の4時頃から夜の10時までパチンコ屋の控え室や食道で過ごすのであった。

勿論、食事もそこで取るのだが祖父の分の食事は出ても私の食事は出る訳でも無く、私は祖父から100円を貰って近くの小さなスーパーで100円の《焼いてあるサンマ》を買って来て、それをオカズに祖父が持って来た、お握りを食べていた。

サンマの無い時や売り切れの時はフライ物を買っていたが100円ではあまり買えなかった。

だから大抵サンマを買っていた…

そんな生活が小学校を卒業するまで続いた。




―・―・―・―アルバイト


私は小学6年生になるとアルバイトを始めた。

アルバイトと行っても小学生など雇ってくれる所がそうある訳もなく《新聞配達》のアルバイトをした。


自分で使えるお金が欲しかった……


周りは親から御小遣いを貰ったり、誕生日、クリスマスにプレゼントを貰ったりしていたが私には全く無かった。


友達と遊んでいても6年生にもなると、多かれ少かれお金が必要になって来た。

友達がジュースを買っても見てるだけ…

友達が駄菓子屋に行っても入らず外から見てるだけ…

おごって貰うのは絶対に嫌だった。



新聞を前カゴと後ろの荷台に載せると小学生の私はよたよたしながらしか走れなかった。

寒い朝も台風の日も私はよたよたしながら新聞を配っていたがルートが校区内だったので友達や友達の親に見られるのがとても嫌だった。

見られると友達の親達は決まって…


《偉いねぇ》
《感心だねぇ》

と褒めてくれたが私には…

《子供なのに可哀相》

と哀れみの言葉として聞こえていた。


中学生になると知り合いの食堂で夜3時間だけ出前と皿洗いのアルバイトを始めた。

中学生なので学校の許可が必要だったが学校側も私の家庭事情を知っていたのですんなり許可が出た。

ここでは夜の7時から10時まで働き食事も付いていた。


食事が凄く嬉しかった…

土日以外の5日間は毎日ご馳走が食べれた。

トンカツ、カツ丼、ウドン、ラーメン…好きな物を食べさせてくれた。


食事が付くのでバイト代はそんなに高く無かったが、部活で使う、グローブ、スパイク、ユニホームなどが自分で買えたのがとても嬉しかった。


新聞配達と、食堂のアルバイトは当時の私にはキツかったし、普通の子供ならやらない事だが色々な意味で良い経験をしたと思う。

私は何度も涙を我慢しながらパンを食べた。

―・―・―・―・―・―学校行事…
毎年の運動会は楽しかったが、私を見に来る人は誰も居なかった。

運動会だけは祖父が《お弁当》を作ってくれたが一緒に食べる人が居なく、先生と一緒に職員室で食べていた。
先生達が気を使ってあれやこれやとオカズをくれたのでとても豪華なお弁当になったのを良く覚えている。

5、6年生になると子供達だけで食べるグループが多くなったので私も友達と食べる様になった。

運動会に限らず学校行事…
授業参観、学芸会、合掌コンクールなど誰も来る事は無かった。

それは卒業式でも変わりなかった。

私は、小学校の卒業式、中学校の入学式、卒業式、全て1人で行って、1人で帰って来た…


中学の卒業の時には私はそれが《普通》になっていた。



誕生日…

小学生になると、みんなから誕生日の話題が出る。

ケーキを食べた…

プレゼントを貰った…

外食した…


私には何1つ無かった。外食など無しだし、ケーキなど買ってくる余裕も無く、勿論プレゼントなど有る訳が無かった。

それについて、《駄々》をこねたり《怒ったり》する事は1度も無かった…

しょうが無い事なのだと思っていた。


そんな訳だから、友達の《誕生会》などには1度もお呼ばれをされた事が無かった…

中学に入ってから知ったのだが、誕生会と言う物は…


《呼ばれたら、呼ぶ》

物で、友達の親が気を回していたのだろう…



夏休み…

小学生の頃、夏休みが大嫌いだった…

遊ぶ相手が居なくなるからだ。
みんな、家族で遊びに行ってしまって、私はいつも1人で壁にボールをぶつけていた。

学校のプールは嬉しかった。
勿論、子供だからプールは大好きだが、学校のプールに行けばお金もかからないし、誰かしら友達が居たからだ。

私は夏休みのプールがある日は毎回通って居た。
小学生の私にとって夏休みとは、ただ退屈で暑い日々であった…



修学旅行…

修学旅行は私に取って《初めて》の旅行…

私は楽しさと、旅行をした事の無い事での不安で、行きたいのやら、行きたくないのやらで、微妙な感覚でした。

お金は、1年生の頃から他の人よりは少なめであったが積立てていたので心配は無かったが、旅のシオリの中の《バスタオル》が家には無かった…
祖父の家にはお風呂が無かったので2日に1度、銭湯か近くの親戚の家にお風呂を貰いに行きタオルは普通のタオルを使っていた…

プールでもスポーツタオルを使っていた。

祖父はタオルで十分と買ってくれなかったが、私はバスタオルがどうしても欲しかった…

しかし、口には出せずにタオルを旅行カバンに入れて、修学旅行に出掛けた…

タオルも辛かったが、旅行の2日目はもっと辛かった…


修学旅行だから友達はみんな《新品の服》を着ていた…

私は長袖の《体操服》を着ていた。

恥ずかしかった…

前日に着ていた、私服を着ようとしたが、前日は雨で服は全部湿っていて着れる状態では無かった…

私はわざと友達から離れて2日目の修学旅行を終え帰って来た…

我慢するしか無かった…数週間の地獄だった。

―・―・―・―・―・―
祖父母の所に戻った私は以前より明るくなっていたと思う。
友達の居る学校へ行くのが1番の楽しみだった。
学校では施設の時の様に苛められる事は無かったが、やっぱり自分は周りの子供達とは違うのだと気付く事が多々あった…



その頃、祖父母の家では祖母が半寝たきりになっており、祖父が家事などをやっていた。

食事は祖父が作ってくれたが年寄り夫婦なのでオカズは質素な物が多かった…

しかし食卓には必ず子供の好きそうな《揚げ物》のオカズが1品あった…

祖父が私の為に近くのスーパーで買って来てくれるのである。

祖父に取っては精一杯の努力であったと思うし、有りがたかったが、《お弁当》の日は辛かった…

唐揚げ、ハンバーグ、スパゲティ、チキンライス、サンドイッチ…
周りを見ると色とりどりのお弁当が並んでいる。
どれも、とても美味しそうなお弁当だったが、私の手にしているお弁当は…


菓子パンだった。


祖父はお弁当までは手が回らなかった。
始めの頃クラスの友達は弁当の日を家の人に言うのを忘れたと思いはやし立てたが、弁当の度に《菓子パン》を持って行くのを見て何も言わなくなっていった。


私は周りの美味しそうな弁当を見ない様にしながらパンを食べた…

見てしまうと、自分のパンが情けなくなって泣きそうになってしまうのだ…

何で自分だけパンなの…
そう思うと泣けてしまう…

泣けば先生が気遣って祖父に連絡をしてしまう。
私は何度も涙を我慢しながらパンを食べた…

私は毎日、父が帰って来るまで外で1人で時間を潰していた。

―・―・―・―・―・―
再び父が現れたのは小学校に入学する2ケ月前だった。
父は私を東京に連れて行った…

私には《嫌だ》とも《うん》とも言える権利は無かった。

東京では以前とは違う知らない女性の実家に住む事になった…

そこには女性の父、母、兄、弟が住んで居て、私に取って初めての大家族での生活だった。

皆、私を可愛がってくれた、女性は…


《私をお母さんだと思って良いからね》

と言ってくれたが、それまでの自分に

《お母さん》

と口に出して言った記憶が無く何て言ったら良いか解らなかった。

大人達は私を可愛がってくれたが、引っ越して来た私には友達が居ず、みんなが仕事から帰ってくるまで庭で犬と遊んでいた。

私はペットを飼った事が無かったのでこの家に犬が居た事が凄く嬉しかったのを今でも覚えている。

犬の前では本当の自分でいれた…
犬に対しては顔色を伺う事も、自分を偽る事も必要なく、6歳の子供の顔でいられた…
犬もそれに応えてシッポを振ってくれるのがとても嬉しかった。


小学校の入学の事はあまり覚えていない…
校門の桜の樹の下で写真を撮った記憶だけ残っている。
友達も居なかったので、それ位しか頭に残っていないのだろう…

何故友達が出来なかったのか?

それは入学間もない頃、私は東京を離れ再び祖父母の所に預けられたからだった。

何故あの家を出たのか…
父が、あの優しかった女性と上手く行かなかったらしい…
幼い自分には訳が解らず父について行くしか無かった。

しかし、友達に会えると思うと、祖父母の所に帰るのは嬉しかった。

嬉しい理由がもう1つあった…

それは、祖父母の所に帰る前に数週間、私は施設に入所していたからだ。

施設には色々な年齢の子供達が居たが友達と言える子は最後まで出来なかった。

出来なかったどころが入所したその日に年長の子供達に苛められた…

周りの子は見て見ぬふり、私は叩かれても泣かなかった…
泣いて問題を表沙汰にしたくなかったのだ。

苛めは私が何も反抗しないのをいい事にどんどんエスカレートして行った…

朝食時、牛乳の中にホコリや小さなゴミを入れられた…

それを飲まないと、寮母さんに…

《こいつ、牛乳残してる》

と、言うのだ。

寮母さんはまさかゴミやホコリが入ってるとは思わないので、私に飲めと進める。

私は渋々飲むのだが、寮母さんはとうとう気付いてくれなかった。

学校に登校する時は施設のみんなで班を組んで行くのだが、学校までの道のりは毎日苦痛だった…

後ろから足を蹴られる

ランドセルを引っ張られる

ランドセルを持たされる

帽子を取られて投げられる

私は反抗しなかった…

父が迎えに来るまでは問題を起こせなかった…


《問題を起こせば施設を出される》

と思って居たのだ。

今思えば、私は被害者で罰せられるのは苛めた方なのだが、幼い私にはとにかく我慢するしか無かった。

数週間の地獄だった…


つづく…

私は2人の顔色を伺いながら生活をしていた。
4歳の子供が…


―・―・―・―・―・―
その頃の私は何をするのもビクビクしながらやっていた。
2人の機嫌を損ね無い様に…

2人はあまりテレビを観ない人だった、だが当時夕方からはアニメ放送があり私はテレビが点いていない時は我慢するしか無かった…
どうしても観たい時には…

《テレビを点けていいですか?》

と聞いていたのだ。

ダメとは言われた事は無い、だけど私は毎回聞いていた。

勝手な事をしてはいけないと思っていたのだろう…

酷い時には…


《トイレに行っていいですか?》

と聞いた事もある。


私は2人が喧嘩をするのがとても嫌だった…
喧嘩の原因は自分の事だといつも思っていた。

《出て行け》

と言われるのが怖かった…
施設に入れられるのが怖かった…


そんな生活をしている内に父がやって来た。
近くに家を借りて一緒に住むのだと…

その家には知らない女性がおり、私は、父と知らない女性と3人で暮らし始めた。
その頃から保育園に通い出したが、その生活も3ヶ月で終わりを迎え、私は再び祖父母の家へ預けられ、保育園も変わった。


戻ってからは以前の様に
《………いいですか?》とは聞かなくなったが、私の生活態度は相変わらず2人の顔色を伺いながらの生活だった…

当らず触らず…

ひっそりと暮らしていた。

でも私に取っては父と女性と3人で暮らしていた時より、祖父母の所の方がホッとしていた…

3人で暮らしていた時、父が仕事から帰って来るまで、知らない女性と2人で居るのが凄く嫌だった…

その人は私の存在を認めていなかった…

私に話しかけず、気にもせず、空気の様に私の事を無視していた…

私は毎日、父が帰って来るまで外で1人で時間を潰していた。


つづく…

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