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慰安婦について書いてある元軍人の戦記や日記、回想本は私が数えたところ200以上あるだろう。重要な内容のものもあればさして重要とも思えないものもある。
ここで取り上げているのは、その一部である。
 
 
 
藤原拓 『外科医戦場物語』 1977
北部ビルマ カレワ
1942
「乾季に入ってから九州男児の中隊と東北健児の中隊とが交代した。東北健児の戦績の程は知らないが、朝鮮の女を何人か連れてきている。」

 
 
三浦徳平 『一下士官のビルマ戦記』 1981
 
 1944、6月
 
ミートキーナ(蜜支那)
 
地獄の戦場と言われたビルマ。第18師団の生存率は40人に一人だという。
 
 
「連隊本部の付近には商売が駄目になった慰安所の妓たち10数人が避難してきて、前線に運ぶ握り飯などを作るのを手伝っていた。」
 

 
 
別所源二 『青春と戦争』1980
マンダレー東北の避暑地メイミョウ
1944
将校用クラブの様子
「8時ごろになると2階の食堂で鐘が鳴り、私の横を「丸玉」の女たちを含めた2階の住人(将校)が通り抜けて、いそいそと食堂に入っていく。やがてコーヒーのよい香りがこちらに漂ってきて腹をくすぐる。私は毎朝心の中で”畜生”と叫ぶのであった。」

 
 
 
 井坂源○ 『弓兵団インパール戦記』 1987
1944,5
マンダレー西 サガイン
「慰安所があると聞いて立ちよったが、超満員なのには驚いた。」
 
1945、3
シャン高原ケマビュー付近
1944年5月インパール作戦に参加した作者は、地獄と言われた戦場を「食糧、医薬品の皆無に泣き、生への望みはいたるところで絶たれた。」と書いている。
 
「師団のやつら女まで連れ歩いていたのか」
「6名の彼女たちの運命に幸あらず、山を越えることができずに死んだと戦後人伝に聞いた。」

 
日本軍にとって最悪の戦場はガダルカナルとインパールである。インパールは無策・無謀な自殺戦であった。
 
 菊地○『狂風インパール最前線』1982
 
1944,3
メイミョー
 
「この町には日本人の慰安婦のいるところや日本人の経営する酒場もあった。この日本の女たちは15軍の参謀らがわざわざ日本からつれてきたもので、ほとんど高級将校が独占していたようである。」
 
*著者によると富山県の小学校にビルマ方面軍司令官河原正三大将の肖像が立っているという。

 
 
 
高崎伝 『最悪の戦場に奇跡はなかった』 1974
1945
シャン高原からタイへ撤退中
「傷病兵と看護婦、慰安婦たちは、タイ国のチェンマイに向かった。この途中、軍の女郎屋の女将が、軍票をリュックにどっさり詰め込んで、兵隊と一緒に行軍していたが、ついに落伍して「兵隊さん・・・お金やるから、荷物を持ってくださいよ」と哀れな声で頼んだが、兵隊たちは笑って、「おばさん、もう軍票は役に立たんとばい。みんな捨てちまいなよ。」冷やかす兵隊たちを、女将はうらめしそうににらみつけていた。」
 
 
 
福永勝美 『ビルマの地獄戦』1984
 
1945 ペグー山中マヤン
 
「どこから来たのか慰安所の女たちも、この嶮しい山路をテクテク歩いていた。ダブダブの兵隊服に戦闘帽・・・・・言葉使いから広東娘と思われた。他国の戦乱にまきこまれ、生死の淵にあえいでいるかと思うと、哀れさが先に立った。」
 
「坊主頭に軍帽をかぶっていたが、顔を見ると広東娘だった」
 
*本書の前書きには「近頃の世界情勢は、大東亜戦争前のそれに一歩一歩近づきつつあるように「感じられてならない」と書いている。「国内的には戦火の恐ろしさを知らない若者に戦争を肯定するものが増えつつある・・・それは戦慄すべき現象である」という。

 
 
後藤基治 『海軍報道戦記』 1975
 
1942
ジャワ
毎日新聞記者として従軍
 
「大宅君は大邸宅を接収して、そこで「白馬会」と「黒馬会」なるクラブを組織していた。・・・・実はこのクラブは「白馬」がオランダ系女性、「黒馬」がインドネシア女性のクラブだったのである。」
*大宅 荘一
 
 
この白馬会については
 町田敬二『戦う文化部隊』 (1967)
 
にも記述があり、
ジャワ派遣軍宣伝班長
ジャワ島
 
「常夏の島に春(?)がやってきた。春といっても季節の春でもなければ、例の「じゃがたらおはる」でもない。かつての大陸同様、軍の慰安所が開かれたのだ。その人肉の市にはさすがに国際色豊かなニョナン・ノサン(女性)の群像が絢爛と咲きみだれ、むくつけきサムライや蒼白きインテリーなどが、ベチャ(小馬車)を飛ばして夜の蝶を求めたことはいうまでもない。
それとは別に、しかるべき婦人をオンリーさんとして、しかるべくやっていた達者なトアン・トアン(旦那衆)もいた。その中に「白馬会」というのがあった。白人の婦人を専らとするグループである。」
 
和田敏明 『証言・太平洋戦争』 1975
ジャワ
 
「おおっぴらにやるのとひそかにやるのと違いはあったが、それこそ戦勝族の多数が、オランダ人、混血女、ジャワ人女性を、それぞれの好みに応じて、不自由なく享楽しているといった感じでした。占領軍の収奪が激しくなればなるほど、原住民の生活が苦しくなるから、善良な婦女まで娼婦化する傾向にあったと言えるでしょう。ことに、夫を俘虜にされた軍人、兵士の妻は、オンリーになるとか売笑婦の道をとるのが、多かったのではないでしょうか」
   ジャワ生活で一番くだらないと感じたこととして
「料飲店やホテルの経営者、慰安所設営者などをはじめ、そこで働く芸者、酌婦、慰安婦たちを多勢つれてきたことです。きれいな芸者などは、あれは参謀長用、副官用、部隊長用など専属が決められていたようでした。」
 
この点について
黒田秀俊は『軍政』で、「ジャワが陸軍地域であったので、白人は陸軍が独占するところとなった」と書いている。マダラガイにつくられた将校専用慰安所について「「なかなかきれいなものもいますよ。もっともそういうのはたいてい参謀のやつらが独り占めしていますがね」と軍医は言った」と書いている。
将校が特権階級となり、さらに軍の階級上で上位の参謀たちが特権を享受していたのである。
 
 
 中村八郎 『ある陸軍予備仕官の手記』 1987
 
スマトラのメラボー
1942
 
「ある日中隊長は私に対して「慰安所を造れ」という命令を下した・・・」
 
スマトラのカパンジャヘ
 
「町はずれにオランダ人の宿舎があって、そこが軍の慰安所になり料理屋と女の家になっていた。休日に兵隊はそこに出かけた」
 
巻末の丹羽文雄との対談で
 
「・・・海軍は慰安所のほかに芸者もおいていたんですよ。8人ぐらいいましたかね。海軍のオフィサーが遊ぶところなんです。・・・・・」
 
 
 将校の特権が多いな
 
奥村明『セベレス戦記』1974
 
1944,5月
セレベス島
 
「正規の慰安所を工事現場付近に開設したのである。・・・」
 
「驚いたことに、街から10キロ奥地の山中に日本人経営の料亭「隅田園」があった。・・・佐官以上でないと「陸軍さん」は遊べないという。・・・日本女性が7,8人働いていたが・・・。」
 
 

 
 
 
戸石秦一『消灯ラッパと兵隊』 1976
 
スマトラ
1944,45
 
「将校慰安所をかねた日本料理屋に行くと、畳敷きの部屋があって、日本髪の”芸妓”が出て来る。」
 
ブキ・チンギ
「将校用慰安所兼料理屋には、「治作」という店と「立花」という店と2軒あった。・・・ここには日本髪のかつらをつけ、長い裾を引いた妓たちがいた。」
 
1945,3月赤十字交換船「阿波丸」は台湾沖で撃沈したがその中に
乗船の許可を得た朝鮮人慰安婦がいた
「その中に朝鮮人慰安婦がいた。彼女たちは中国各地を日本軍とともに強制的に行動させられ、マレーからシンガポール、そしてスマトラまでつれてこられたのである。」

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

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