河野談話を守る会のブログ

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1993年8月。河野談話の前に政府が集めた資料の中にはバタビア臨時軍法会議の記録」がありました。

この資料には「ジャワ島セラマンほかの抑留所に収容中であったオランダ人女性らを慰安婦として使う計画の立案と実現に協力したものであるが、慰安所開設後(一九四四年二月末ころ)、「一九四四年二月末ころから同年四月までの間、部下の軍人や民間人が上記女性らに対し、売春をさせる目的で上記慰安所に連行し、宿泊させ、脅すなどして売春を強要するなどしたような戦争犯罪行為を知り又は知り得たにもかかわらずこれを黙認した」などの記述があります。

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(「バタビア臨時軍法会議の記録」)


「部下の軍人や民間人が上記女性らに対し、売春をさせる目的で上記慰安所に連行し、宿泊させ、脅すなどして売春を強要するなどしたような戦争犯罪行為」と書かれているのですから、当然それは安倍の言うところの「狭義の強制連行」を直接述べているような資料と言えます。

河野談話当時の新聞も、一応は言及しています。
例えば、河野談話を伝える1993年8月15日の日本経済新聞は、こう書いています。

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ここで日経は、「旧陸軍の軍法会議で・・・有期刑を受けた記録が見られる」と書いていますが、これは誤報です。

刑罰を言い渡したのは、戦後の連合軍によるバタビア法廷であり、「旧陸軍の軍法会議」ではありません。


右派論壇では、1996年ころから、20年間に渡って、河野談話攻撃がなされてきました。しかしこの「バタビア臨時軍法会議の記録」について述べたものは、当会が調べた範囲内では発見できませんでした。資料についてもっともコメントしている秦郁彦の『慰安婦と戦場の性』にも、言及がありませんから、「まったく無視されている」と述べても過言ではありません。

ところが、この「旧陸軍の軍法会議で・・・有期刑を受けた記録が見られる」という誤報は、スマラン事件の解説として右派に受け継がれているらしく、今日でもネトウヨがデマを飛ばすことがあります。


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        (ネトウヨデマ例)




そこで、2013年6月10日。共産党の赤嶺議員が質問書(質問第一〇二号)を提出し、問いただしました。


四 この〔法務省関係〕(バタビア臨時軍法会議の記録)は、1「ジャワ島セラマン所在の慰安所関係事件」について、「判決事実の概要」を記しているが、そこには、「ジャワ島セラマンほかの抑留所に収容中であったオランダ人女性らを慰安婦として使う計画の立案と実現に協力したものであるが、慰安所開設後(一九四四年二月末ころ)、「一九四四年二月末ころから同年四月までの間、部下の軍人や民間人が上記女性らに対し、売春をさせる目的で上記慰安所に連行し、宿泊させ、脅すなどして売春を強要するなどしたような戦争犯罪行為を知り又は知り得たにもかかわらずこれを黙認した」などの記述がある。間違いないか。


この問いに対して、安倍政権は「三及び四について
 内閣官房内閣外政審議室が平成五年八月四日に発表した「いわゆる従軍慰安婦問題の調査結果について」において、御指摘のような記述がされている。」と答えています。http://www.shugiin.go.jp/internet/itdb_shitsumon.nsf/html/shitsumon/b183102.htm

赤嶺議員は次にこう聞いています。
五 この「判決事実の概要」には、「一九四四年二月末ころから同年四月までの間、部下の軍人や民間人が上記女性らに対し、売春をさせる目的で上記慰安所に連行し、宿泊させ、脅すなどして売春を強要するなどしたような戦争犯罪行為を知り又は知り得たにもかかわらずこれを黙認した」との記述がある。「上記女性」とは、「ジャワ島セラマンほかの抑留所に収容中であったオランダ人女性」である。これらの記述は、「軍や官憲によるいわゆる強制連行を直接示すような記述」にあたらないのか。

これに対して安倍政権は、
「五及び六について
 政府の認識は、答弁書一の1から3までについてでお答えしたものと同じである。」と答えています。http://www.shugiin.go.jp/internet/itdb_shitsumon.nsf/html/shitsumon/b183102.htm

「答弁書一の1から3までについてでお答え」というのは、これです。

一の1から3までについて

 お尋ねは、「強制性」の定義に関連するものであるが、慰安婦問題については、政府において、平成三年十二月から平成五年八月まで関係資料の調査及び関係者からの聞き取りを行い、これらを全体として判断した結果、同月四日の内閣官房長官談話(以下「官房長官談話」という。)のとおりとなったものである。また、同日の調査結果の発表までに政府が発見した資料の中には、軍や官憲によるいわゆる強制連行を直接示すような記述も見当たらなかったところである。

 この赤嶺議員の質問自体がこの答弁書に関するものだったのだが、安倍政権は「軍人や民間人が上記女性らに対し、売春をさせる目的で上記慰安所に連行し、宿泊させ、脅すなどして売春を強要する」と書かれていても、それは軍や官憲によるいわゆる強制連行を直接示すような記述も見当たらなかった」
と言い張ったわけだ。


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たくさんの女たちが泣く泣く慰安婦にさせられた。

これが「自発的だ」とか「強制はなかった」とか、どこのバカがほざいとるのか?


創価学会青年部反戦出版委員会編
『戦争を知らない世代へ9・宮城編 生死の炎をこえてー出征兵士の手記』
第三文明社、1975年
同書中、「トンネル暮らしのラバウルで」と題する53歳男性の手記。筆者は、昭和16年、海軍の久里浜・通信学校に入学した。
昭和17年、ラバウルへ

「通信学校にいた時、日米開戦となった」「通信学校を卒業した私はラバウルへ向かった。航海中は敵襲を避けるために蛇行の連続である。そして私の乗った船の中には朝鮮人女性が慰安婦として乗せられていた。皆が船の中で泣いていた。途中寄港したトラック島では日本人囚人が飛行場造りということで降ろされた。いよいよラバウルへ入港したが、その翌朝、早々とニューギニアのポートモレスビー米軍飛行基地から発進した敵機の空襲に見舞われた」 (p153〜155)



平塚柾緒編『知られざる証言者たちー兵士の告白』 p339ーp349

2007年発行。(『週刊アサヒ芸能』1971年連載)



菊丸さんは、親友の五十鈴ちゃんとともに約100人近い女性たちとともに日本を離れたのだった。『横浜を出て神戸に寄って、それから韓国の釜山で韓国人の女性もかなり乗船しました。彼女たちは私たちと違って志願ではなかったようで、チョゴリを着て乗り込んできたのですが、「アイゴ、アイゴ」と泣くのがなんとも悲しくて……私たちもつられて泣き出しましたよ。ほんとうにあの日本を出発して、トラック島に着くまでのなんともわびしい気持ちは忘れられません』




小俣行男著『戦場と記者 - 日華事変、太平洋戦争従軍記』冬樹社 1967


私の相手になったのは23、4歳の女だった。日本語は上手かった。公学校で先生をしていたと言った。「学校の先生がどうしてこんなところにやってきたのか」と聞くと、彼女は本当に口惜しそうにこういった。「私たちはだまされたのです。東京の軍需工場へ行くという話しで募集がありました。私は東京に行ってみたかったので、応募しました。仁川沖に泊まっていた船に乗り込んだところ、東京に行かず南へ南へとやってきて、着いたところはシンガポールでした。そこで半分くらいがおろされて、私たちはビルマに連れて来られたのです。歩いて帰るわけに行かず逃げることもできません。私たちはあきらめています。ただ、可哀そうなのは何も知らない娘達です。16、7の娘が8人にいます。この商売は嫌だと泣いています。助ける方法はありませんか」



品野実著『異域の鬼』谷沢書房、1981年。

昭和19年、応召し、ビルマ方面で戦う。著者の体験、戦友の証言などで同地区の戦況などををまとめている


(慰安婦の)第一陣が到着したのは昭和17年の暮れも押し詰まっていた。初めは朝鮮娘10名だった。みんな将校クラブ勤務とか挺身奉仕隊など『お国のため』という、かっこよい触れ込みにだまされて集められた。逃げ場のない輸送船内で、抱え主に事実を告げられいい含められて、泣く泣く『実習』で仕込まれてきた娘たちだ。





(林博史『マレー半島における日本軍慰安所について』http://www.geocities.jp/hhhirofumi/paper09.htm ;陸軍通訳の永瀬隆の証言


シンガポール市街の対岸のブラカンマティ島(現在セントーサ島)の駐留していた陸軍航空の燃料補給廠で通訳として勤務していた永瀬隆氏の証言によると、1942年11月になってから朝鮮人慰安婦12〜13人が送られてきて慰安所が開設された。現在の戦争博物館の所に補給廠の本部が置かれ、その南に隣接した建物が慰安所として使われた。氏は朝鮮人慰安婦たちに日本語を教えるように部隊長から命じられたので、その教育にあたった。彼女らと話をしていた時に「通訳さん、聞いてください。私たちはシンガポールのレストラン・ガールということで100 円の支度金をもらってきたが、来てみたら慰安婦にされてしまった」と泣きながら訴えたという。





『海を越える一〇〇年の記憶』図書新聞,2011年

松原勝「軍による『慰安所』管理は紛れもない事実」pp.109-127


1942年、第4海軍施設部軍属としてトラック諸島の夏島へ派遣された


― その夏島に「慰安所」があったのですね。

松原 南國寮と南星寮の二か所、同じような規模でね。(夏島の地図を指し示しながら)このチョンチョン橋を渡って海岸の方へ 出て左折すると四経、四施とあるでしょ、その先に三棟ほどの南國寮がありました。

 源氏名でみどりさんという人がいてね、当時22歳っていってました。だまされてこんな所に連れてこられたってね。私がそこへ行き泊ると、泊まりを受けなかった女の子たちが3、4人集まってきて、いろいろ話をしてくれました。私はどこどこの出身だけど、親やきょうだいと引き離され、だまされてきたんだというわけですよ。人によってはね、子どもや夫にも引き離されてきたんだと泣いて訴えるわけです。高級将校のメイドにならないかとか、海軍病院の雑役の仕事だとか、30円くらいの月給で食事も泊まる所もただだから1年くらいこないかとね。でも、ここへ連れてこられて初めて仕事を知って心が裂けるように思ったと。ひどい話で、日に10人もの相手をさせられるとも言ってました。僕が第四海軍施設部の職員だと知っていたし、若かったからね、気を許していろいろなことを話してくれました。

 トラック島の「慰安婦」は、朝鮮の女性がほとんどでしてね、私の叔母が朝鮮の方と結婚しているということや学生のころ朝鮮人の知り合いもいて、朝鮮人には特別な気持ちを持っていたことも関係していると思いますね。





『こんな日々があった 戦争の記録』出版:上越よい映画を観る会,1995年
須藤友三郎「インドネシアで見た侵略戦争の実態」
1943年以降、北スマトラにいた兵士の記録、コタラジャの慰安所

 スマトラ島の最北端にコタラジャという町があります。私たちは最初ここに上陸し駐屯しました。この町には当時日本軍の「慰安所」があり、朝鮮人の女性が二十名程、接客を強制させられていました。みんな二十才前後と思われる農村出身の人たちでした。「慰安所」の建物は、ベニヤ板で囲った急ごしらえのもので、周囲は有刺鉄線が張りめぐらされ、女性たちが逃亡できないよう看守づきのものでした。……
 「慰安婦」の話によると、当時の朝鮮の農村は貧乏でした。その弱みにつけ込んで、一人当たり二十円程度の前渡金をもってきて、「日本本土の工場労働者になってもらいたい」と親をダマし、徴用されたというのです。ところが船に乗ると日本本土どころか南方に連れてこられ、しかも突然日本軍の将校にムリヤリ売春を強制させられたと、涙を流して「悔しい」と泣いていました。
 しばらくして今度は農村の椰子林の中にまた「慰安所」ができました。ここには、インドネシアの若い女性が十名程収容されていました。この人たちの話によると、ジャワ島の農村から、朝鮮人の女性と同じようなやり方で連れてこられたと憤慨していました。




『ある軍属の物語 - 草津の墓碑銘』河東三郎(初出:新読書社,1967年)日本図書センター,1992年海軍軍属設営隊員の河東三郎の記録、場所:インド領ニコバル諸島
 一九四三年秋、(ニコバル島に)内地から慰安婦が四人来たというニュースが入り、ある日、班長から慰安券と鉄カブト(サック)と消毒薬が渡され、集団で老夫婦の経営する慰安所へ行った。順番を待ち入った四号室の女は美人で、二十二、三歳に見えた。あとで聞いたが、戦地に行くと無試験で看護婦になれるとだまされ、わかって彼女らは泣きわめいたという。
(秦郁彦『慰安婦と戦場の性』新潮社,1999年,p.386より重引用)




『新編大河流れゆく』 林郁、筑摩書房、1993年発行。
中国・同江。

同江には3つの慰安所があり、日本の女性だけの店と、朝鮮女性の店、それに『満ピー』または『支那ピー』とよばれた女性たちの『ピー屋』があった。前の2つは日本人専用、『満ピー』の店は日本人、中国人、朝鮮人、だれでも入れた。朝鮮人は日本名の源氏名、和服姿で7、8人いた。気の毒なのは松花江を船で運ばれてきた朝鮮の少女たちだった。彼女たちは泣いて抵抗したため、女郎屋の男に手足を縛られ、蹴られていた。




『アジアの声・第11集・私は「慰安婦」ではない−日本の侵略と性奴隷』東方出版、1997年発行。1996年8月に開催された「心に刻む集会」の報告集。
ボルネオ・バリクパパン

「証言−台湾」「勇気をもって忍耐してきた(と題された)黄秋月(仮名・発言)」「日本人に連れて行かれた時、私は19歳でした。女性と男性の2人が私を連れて行ったのです」「2人に呼び出された私たち台湾の少女は全部で16人でした。学校に行けたので文字が読める少女たちもいましたけれども、そうでない少女は読めなかったのです。『あなたたちは看護婦の仕事をするのです』と(その日本人の)おばさんに説明されました。『私たちは文字が読めないのに、どのようにして看護婦になることができるでしょうか』。おばさんは私たちにこう答えました。『文字が分からなくても構いません。炊事はできるでしょう』。それを聞いて、私たちは『それでは、いっしょに行きます』と答えました。私たち16人は台湾の高雄から出発したのです。1943年のその月日は忘れましたが、船の名前は覚えています。『浅間丸』といいました。浅間丸に半月ほど乗っていました。そして南洋のマカッサルという所に上陸しました。連れて行かれたところは軍人招待所でした。招待所に1週間いる間に空襲に遭ったのです。その空襲で私たちのうち3人が殺されて、13人が生き残りました。そして、また別の船に2、3日間乗せられました」「今度は、バリクパパンという所に着きました」「連れて行かれた家は椰子の葉で囲ってあり、部屋はどれも1畳ぐらいの広さしかありません。そして、みんな一緒の部屋に住むと思っていた私たちに、おばさんと(日本人男性の)タキさんは『一人ずつ別の部屋に入りなさい』と命令しました。タキさんは看板を掲げました。看板には何と書いてあったでしょうか?『マツノヤ』という名前でした。『兵隊慰安所』とも書いてあったのです。文字を知っている少女たちは、その看板を見て泣き出しました」「私たち台湾の少女たちは皆処女で、とても若かったのです。19歳の私が一番年長でした」(82〜83)



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                     ★朝鮮人強制連行の記録』

朴慶植の朝鮮人強制連行の記録』における慰安婦記述


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同胞で軍人、軍属として南方に連行されたものは数十万の大変な数に上ると思うが、このように輸送船が沈められて死んだものが相当多い。またこの中には同胞の女性も多かった。
 玉致守氏の乗った船で南方に連行された朝鮮女性だけでも二千数百名にも上る。これらの女性は故郷にいるときには戦争への協力を強制され、軍需工場、被服廠で働くのだといわれて狩りだされた一七−二〇歳前後のうら若い娘たちであった。しかし実際はこうして輸送船に乗せられて南方各地の戦線に送られ軍隊の慰安婦としてもてあそばれた。
 玉氏は沖縄でも下関や博多駅の待合室でも南方に送られるこのような同胞の女性を無数に目撃し、何ともいえない怒りと悲しさを味わった。
 玉氏が三回目に沈められた船にもはじめ一五〇余名の同胞の女性がのっていた。途中沖縄の宮古島に下船させたので海のもくずとはならなかったが、彼女らの運命はどうなったかわからない。


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戦線に連行されたのは軍人、軍属としての青年ばかりではない。うら若い同胞の女性が多数「女子挺身隊」、「戦線慰問隊」などの名目でひっぱられ、「慰安婦」として戦争遂行の犠牲にされた。さきの辻政信の著書にも「第一線の陣地にまで天草娘が進出し、朝鮮娘が附添っている」「慰安婦二〇名が軍服を着て弾丸運びに看護にあるいはお握り作りで・・・」とあり、また同戦線での生残りの中野礼造氏(福岡出身)の語るところによってみても、ビルマ派遣軍各師団には大勢の朝鮮女性が慰安婦として配置されており、一部隊だいたい二〇名前後で、彼女らの軍人とともにほとんど死亡している。同胞女性は中国や南方、沖縄の各戦線にも多数連行されているが、全体の数は数万に上ると思われる。



この著作の第一刷が1965年5月だという事は特筆しておくべきだろう。p122とp169にそれぞれ、慰安婦について言及した部分があるが、千田夏光や佐藤早苗が慰安婦問題をレポートする10年近く前にすでに、書いていたわけだ。

              
                        『十五対一』

p169で辻政信の著作『十五対一』について言及しているので、これもついでに掲載しておこう。

「作戦の神様」とあだ名された辻だが、東條に嫌われ1944年7月、第33軍参謀としてビルマに赴任した。そのころビルマは最も厳しい敗北を迎えようとしていた。「拉孟・騰越の戦い」は玉砕した闘いとして有名なだけではなく、朴永心さんの写真でも有名である。慰安婦の多くも巻き添えのような形で命を落としている。「地獄のビルマ」と歌われていた。

「雲南・ビルマ最前線における慰安婦たちー死者は語る」http://www.awf.or.jp/pdf/0062_p061_088.pdf

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これはなすこさんの4コマ漫画

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上の2コマは本当の話である。

平成24年5月10日 の憲政記念会館で 長勢甚遠元法務大臣は、こう演説して拍手喝采を浴びたのだ。

憲法草案というものが発表されました。
正直言って不満があります。
一番最初にどう言っているかというとですね
国民主権、基本的人権、平和主義、これは堅持するって言ってるんですよ
この3つを無くさなければですね。
本当のじしゅ
自主憲法にならないんですよ


例えば、平和がどうのとか言われたりすると
人権がどうのと言われたりすると
怖気づくじゃないですか?

それは我々が小学校からずっとずっと 教え込まれて来たからですよ。
それを立てなおすのはなかなか大変な作業です。
みんなで力を合わせてがんばりましょう。
(大拍手)
https://matome.naver.jp/odai/2146647747327851701


   (創生「日本」東京研修会 第3回  平成24年5月10日  憲政記念会館)

                   ■■
ところが、この手の「国民主権、基本的人権、平和主義否定」をしているのは、長勢甚遠だけではない。

改憲勢力に広く行きわたっているようだ。

小田村四郎日本会議副会長「国民主権、平和主義、基本的人権の尊重という虚妄をいつまで後生大事にしているのか」として、まるでそれが悪い事であるかのように述べている。『憲法三原則』が日本を蝕んでいるというのだから、すごい話である。

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雑誌『正論』2005年6月号 「日本を蝕む『憲法三原則』

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                ■■■
我々が理解しておかなければならないのは、「慰安婦問題否定」は、こういう人権意識の乏しい勢力によってなされているという事なのだ。しかし「基本的人権」さえ否定するとは、もはや狂ってるとしか言いようがない。それとも江戸時代以前の世界に逆戻りしたいのだろうか?そして彼らがもし改憲に成功すれば、どんな世界が造られるのかも明らかである。



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慰安婦問題の解決とは何か?

それは被害者が納得して初めて、「解決した」と言えるのである。

「被害者の心の傷を癒す」事が合意されたはずだが、いつの間にか日本では、「少女像を撤去する」のが合意・・・になってしまった。

ボタンを掛け間違えたというより、最初からボタンを別のところに掛けようとしたのが日本政府であった事が今回、公開された情報からわかる。

リセットし、もう一度やり直せ。



日本軍「慰安婦」問題解決全国行動の声明文 ↓



全国行動声明
韓国「日韓合意」検証結果に日本政府は真摯に応えよ
〜日本軍性奴隷被害者の尊厳と人権の回復を〜
 
韓国外相直属の日韓合意検証チームが1227日、その検証結果 を発表した。
 
1.被害者中心アプローチの欠如
検証チームは結論の第一項目で次のように述べている。
 
戦時の女性の人権に関して国際社会の規範となっている被害者中心 アプローチが慰安婦交渉の過程で十分に反映されず、一般的な外交 懸案のようなやりとりに終始する交渉で合意がなされた。 韓国政府は(中略)交渉過程で被害者の意見を充分に聴き取ること なく、政府の立場中心に合意を結んだ。今回のケースのように、被 害者が受け入れない限り、政府間で慰安婦問題の『最終的・不可逆 的解決』を宣言しても、問題は再燃せざるをえない。慰安婦問題の ような歴史問題を、短期的な外交交渉や政治的妥協で解決すること は難しい。長期的に価値と認識を広め、未来世代への歴史教育を並 行して推進しなければならない。
 
 妥当な結論が導かれている。ところが、これに対する日本のメディ アの論調は、「問題の蒸し返し」「前政権の失政を強調したい現政 権の思惑」といったもので、「問題が再燃せざるをえない」原因を 的確に分析した検証結果を真摯に受け止めようとしていない。
 
2.非公開部分で「性奴隷」を封印
 私たちは、20146月、8ヵ国の被害者と支援者の総意をまと めて「日本政府への提言」を発表し、あるべき解決の姿を示した。 それは、何よりも事実を正しく認めることが重要で、その事実に基 づく謝罪と、謝罪を担保する賠償をしなければならないという内容 だった。しかし日韓合意で示された事実認定とお詫びは、 河野談話以来、日本政府が何度か言及した用語を繰り返しただけの もので、被害者たちにとって真の謝罪として受け止められるもので はなかった。
 この度の検証を通して、日本政府が韓国政府に対し「今後『性奴隷 』という単語を使用しないよう希望」し、「性奴隷が国際的に通用 する用語である」として一旦は異を唱えた韓国政府が結局、これを 受け入れていた事実が、非公開部分で明らかになった。
日本軍「慰安婦」の実態は性奴隷に他ならない。にもかかわらず、 ことさらにこれを否定し、交渉の条件に掲げる姿勢は、まさに「正 しい事実認定」をする気が全くないことを如実に示している。
 事実を認めず、既存の表現以外は決して口にせず、お金を出すこと で安倍首相が得ようとしたものは何か。「次の世代を謝罪の宿命か ら解放する」ということだろう。
そういうものを反省とは言わない。そういうものを謝罪と受け止め ることはできない。
だから韓国の被害者と市民は怒ったのだ。さらに、その埒外に置か れたアジアの被害者たちが嘆き憤ったのである。このような「 合意」を守ることで日本軍「慰安婦」問題に終止符を打つことは所 詮無理だということが、検証の結論でも述べられているのである。
 
3.「不可逆的な謝罪」が「不可逆的な解決」に
 検証結果は、「韓国側が第6回局長級協議で謝罪の不可逆性が必要 と言及した直後に開かれた第1回高位級協議から、日本側が『最終 的』の他に『不可逆的』解決を合わせて要求するようになった」 と明かした。謝罪の後退を懸念した韓国側の申し出が、「 問題を蒸し返さない」ことを担保するための用語にすり替えられて いく過程は、つまびらかでない。
 しかし問題は、ここにも「二度と謝罪はしない」という、安倍政権 の強い意志が読み取れることだ。謝罪する理由も明示せず、 これが最後、二度としないという固い意志をもってなされる「 お詫び」が、果たして被害者に届くのだろうか。
「日本政府への提言」は、「『解決』とは、被害当事者が受け入れ られる解決策が示された時にはじめて、その第一歩を踏み出すこと ができる」と述べている。
つまり、被害者の心を癒す事実認定、公式謝罪、賠償がおこなわれ た上で、真相究明と再発防止のための教育活動等をおこなっていく ことが誓われて初めて、解決のための第一歩を踏み出し、たゆまな い努力を積み重ねて行くことこそが解決の道のりなのだと説いてい る。
「終わらせるため」の要求を被害国政府に突きつける日本政府の態 度は、これに逆行するもので、そのような姿勢を当事者たちに見抜 かれた結果が現在の状況を生んでいるということを、 政府は肝に銘じるべきだ。
 
4.なすべきことは何か
 検証結果が発表された翌日、韓国の文在寅大統領は「合意が両国首 脳の追認を経た政府間の公式の約束だという負担にもかかわらず、 私は大統領として、国民と共に、この合意で慰安婦問題は解決され えないことを、今一度、明確に述べます」と語った。そして、「 被害者中心の解決と、国民と共にある外交という原則の下、 早急に後続措置を取るよう」政府に指示した。
 「合意」後、韓国では日本軍「慰安婦」問題解決のための運動が、 より広範な若者層、市民層に広がっている。このような状態で「慰 安婦」問題は「最終的・不可逆的に解決した」と言うことはできな い。前政権の誤りを正そうとする韓国政府の働きかけに、 日本政府が真摯に応えるよう望む。その際、そもそも被害当事者が 受け入れられる解決策を提示する義務と責任は,加害国である日本 政府にあるという原点に立ち返ることを強く求める。
 日本軍「慰安婦」問題の解決は、「終わらせるための」お詫びやお 金で実現できるものでないことを今一度訴えたい。日本軍「 慰安婦」サバイバーたちが命がけで訴えた平和をめざして、人類の 教訓として記憶・継承し、たゆまぬ真相究明を続けて行くことが、 解決への道のりなのである。
 
201712月30日
日本軍「慰安婦」問題解決全国行動
共同代表  梁澄子 柴洋子

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