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白州 武川 歴史紀行 真実を求めて

書庫南アルプス市の偉人

山梨県の偉人たち 熊王徳平小伝 南アルプス市

堀内万寿夫氏著 『中央線』第44号 1993 中央線社 一部加筆
 
 熊王徳平は、明治三十九年(1906)六月十五日南巨摩郡増穂町青柳に生まれた。
 父は藤十郎、母は元。増穂高等小学校卒業後、家業であった床屋をうけついだ。
また、行商などで生活の資を得たこともあった。東京で他人の床屋へ勤めたり、農民運動や共産党員として働いたりしながら、終始作家生活を貫いた全国的に通用する郷土作家である。
 十四のとき、遠藤仁市らと『あじさゐ』を起こした。大正十五年(1926)四月徴兵検査をうける。昭和五年(1930)四月、全国農民組合山梨県連合会に加盟し、同六年九月、日本プロレタリア作家同盟山梨支部を作った。これより十年、小説を書き続け、羽中田誠と同人雑誌『郷土』を出した。昭和十五年(1940)五月、山内一史、石原文雄と『中部文学』を出す。『中部文学』創刊号に発表した『いろは歌留多』は、昭和十五年七月に、改造社の「文芸」の推薦候補となった。審査会で、宇野浩二は、「つま、いろいろの道具立てが何か巧くて、変に可憐というより、何か愉快だというのが、読んでいて何か楽しい。それに相当旨いですよ。それからこれは本当の話らしくて、僕は嘘が随分まじっていると思う。子供を貰う話なんかしていますけど、ほかの話は作り話ですよ。しかし、それでいいんだ(いろは歌留多) の落ちなんか、ちょっと困るがね」と発言して、極力推挙した。にもかかわらず、武田麟太郎、川端康成ら数人の反対で、「文芸」推薦作品にはならず、織田作之助の『夫婦善哉』に軍配が上がった。
文芸推薦は逸したが、熊王は、生涯の文学の師、宇野浩二に認められた。また、高見順は、同作品は、「人間に対する温かみというものが感じられ、あれは好きな小説だ」と述べている。
 『いろは歌留多』は、昭和十五年(1940)十月に、芥川賞候補に推された。しかし、この年は芥川賞も、直木賞も該当者なし、となっている。同作品は、熊王の代表作であり、その後、それを越える作品を書かなかったという向きもある。
しかし、熊王文学の原点は確かに『いろは歌留多』にあるといえるが、「庶民の眼からみた庶民の文学」をモットーに、宇野浩二を師と仰ぎ、次々と傑作を書き続けた。
 昭和十七年(1942)二月、処女作集『いろは歌留』は京都第一文芸社より刊行された。
 昭和十八年(1943)三月五日、熊王は、治安維持法により検挙され、執筆禁止を受けた。同十八年、床屋を廃業する。これより行商となり、全国津々浦々を歩く。のちに、映画にもなり、話題となった『狐と狸』−甲州商人行状記−は、この時の熊王自身の体験を交えて、特有の語り口で、面白く記したものである。
 熊王は、昭和二十年(1945)終戦の十月十日、日本共産党へ入党した。同二十三年一月、『作家』創刊号へ『甲府盆地』を書く。昭和二十九年五月、「文芸春秋」実話小説に『甲州べえと牛の糞』に入選する。同年六月には、日本共産党を脱党した。昭和三十年(1955)四月より『作家』へ『無名作家の手記』を連載。同年十二月、講談社から発行された。山峡の町、青柳町の貧しい床屋の倅として生まれ、農民運動に走り、小説家となるまでの半生の出来事を、時にはデフォルメをくわえて、平明かつ率直に語りつがれていく佳品である?読者の反応もよく、好評だった。『無名作家の手 記』の出版記念会は、甲府市の「開発温泉」で開かれた。
 『作家』に連載後、文芸春秋に掲載された『山峡町議選誌』は、昭和三十一年下半期の直木賞候補作に推された。増穂町の町会議員選挙の模様を農村ルポタージュ風に描いたものである。田舎の露骨にして、おかしみのある選挙の実態を絶妙な筆致で描いた。しかし、受賞作は、今東光の『お吟さま』に決まった。
 『山峡町議選誌』のあと書かれて世論を沸かせたのは、『甲州商人』である。昭和三十五年(1906)には、東宝により映画化された。脚色は甲府出身の菊島隆三、監督は斉藤寅次郎、主役は加藤大介、脇役には森シゲ、三木のり平、清川虹子などを配したオールスターキャストの豪華版であった。映画は話題を呼んで、大いに受けた。この映画についての反響で、中小企業政治連盟山梨県既製服卸商協同組合より、名誉毀損や営業妨害罪などで甲府地検への告訴さわぎの一幕もあった。
『甲州商人』のような通俗小説風のものも書くかと思えば、熊王は、『アカハタ』へ基地反対のルポもまた書いている。

子息の死

 昭和三十七年には、熊王は、悲痛の思いを味合っている。すなわち、愛息藤元の死である。藤元は、熊王が結婚後十五年目にしてもうけた一粒種であった。中学校時代からのスポーツマン、県高校体育会の短距離のホープ藤元が、体の異常を訴えた。病因は心臓であった。熊王の祈りも空しく愛息藤元は不帰の客となった。亨年二一歳であった。
 この非運におそわれても熊王の筆は止まらなかった。愛息の死をとむらうためのように。『大森徳栄伝』『河鹿川』を発表する。
 「週刊文春」四四・五・一九号は、熊王を「文壇を遠吠えする甲州の彦左衛門」と戯称した。
昭和四十五年八月、東邦出版社から、『赤い地図』が出された。熊王の自伝的小説である。
 熊王の文学碑は、生前、「戸川レジャーセンター」の庭園の一角に建てられた。
 平成三年八月一日、熊王は入院先の巨摩共立病院で八十五年の生涯をとじた。死後、朝日新聞紙上で、「庶民の文士」と高い評価を得た。
 熊王の小説は、芥川賞、直木賞の候補で終わったが、八十五年の生涯を終えるまで、ひたすら小説を書き続けた。もって瞑すべしといえよう。一九九三・七・二五。

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