山梨の侠客 黒駒勝蔵・武居の吃安 甲州の勤皇博徒今川徳三氏著『日本の歴史』「任侠の群像」人物探訪10
暁教育図書株式会社 昭和50年
次郎長と勝蔵 天田五郎の『東海遊侠伝』(明治十七年刊)によると、清水の次郎長が黒駒の勝蔵を目の仇にするようになったのは、文久元年(一八六一)十月以降のことだとしている。
次郎長はこの十月、伊勢古市の丹波屋伝兵衛の仲介で、伊豆の赤鬼金平と菊川宿(静岡県金谷町)で、仲直りの手打式を行っているが、その席に勝蔵は金平側の見届け人の一人として顔を出している。
その前後の話であろうが、勝蔵の子分、秀五郎、吉五郎その他五、六人が、当時興津に住んでいた相撲取りの盛之助の家を襲い、袋叩きにした上に、家財道具を持ち去るという事件をひき起こした。
これは盛之助が勝蔵の賭場で借り星をつくりながら、返済しなかったからだが、当時、盛之肋は病身であったことから近隣の同情をあつめたらしく、誰いうともなく次郎長一家の仕業だと、噂になった。
悪者にされた次郎長は腹を立て、早速勝蔵に抗議して返答の次第によっては殴り込みをかける、という強硬なものであったから、びっくりした勝蔵は秀五郎の首を持参の上、盛之助の家財道具を返して、詫を入れてきたので、一応は納まったものの、それから両者の間がしっくりせず、互いに反目するようになったという。その年、次郎長四十二歳。勝蔵は三十一歳であった。
竹居の吃安の島破り 勝蔵は天保三年(一八三二)甲州八代郡若宮村(現山梨県東八代郡御坂町若宮・旧黒駒村)の名主小池募兵衛の次男として生まれたが、三人兄姉の末っ子であった。
楽天的で太っ腹な性格であったと伝えられているが、家柄の良さと末っ子として甘やかされて育ったからであろう。少年時代、武士を志して村内の仲間二人とともに江戸に出たものの、思惑通りにならず村に戻った。
ところが百姓仕事も気に染まず、博突に手を出し、博徒の群れと交わるようになったが、名主の倅ということで博徒たちも一目おき、なに事につけ別扱いに
する風であった。
そしていつの間にか、八代の綱五郎、塩田の玉五郎といった、のちに黒駒一家の中核となる者たちの兄い分(兄貴分)にまつりあげられ、当人もいい気分でいたようである。
その程度なら単なる山家の博突打ちとして、何ということのない一生を終えたであろうが、安政五年(一八五八)八月になって、勝蔵の運命を決定づける事件が起きた。竹居の吃安の島破りである。無論勝蔵は吃安とのめぐり逢いによって、自身の運命が狂わせられようとは、夢にも思ってみなかったのだが、その年勝蔵は二十七歳。吃安は四十八歳であった。
武居の吃安吃安は八代郡竹居村(現八代町竹居)の名主中村甚兵衛の四男だが、少年の頃間違いがあって同村の者に傷を負わせ、そのために村を放逐されて博徒になったという経緯のある男で、嘉永二年(一八四九)の博徒狩りに引っかかって、伊豆新島に島送りになった。
博蛮常習者の島送りは例外をのぞいて終身刑であったから、在島八年にして島を破る決意を起こさせたのだが、竹居村に戻ってみると、勝蔵が〝良い顔〟
でいる。
そこで身の保全を図るため弟分として迎い入れ、吃安一家の筆頭に据えるとともに、連れ歩いて勝蔵のテコ入れをした。
勝蔵も千㍍ばかり御坂峠寄りの戸倉村を本拠にして、勢力の拡充につとめたので、子分も最盛時には九十余名を数えるという勢いになった。
吃安は島破りの際、島名主の前田吉兵衛という老人を殺している。二重の罪を犯した重罪人であるので、いつ迄も安全でいられる訳はないのだが、吃安にとって都合のよいことに、生まれ在所の竹居村と、その周辺の何か村かが、田安家の所領地であったことである。
いってみれば天領の中にポツンと、田安家の所領地がある、という形であるから、石和代官所の者もうっかり踏み込めない。逮捕するにはいちいち田安家の許可を得なければならぬ、という厄介な土地である。吃安はその盲点を逆手にとって、所在を常に転々としている。
尋常な手段ではいかぬ、とあって八州廻りの出動となった。ところが八州廻りの手先である岡引きといわれる土地の道案内人が、吃安一家の脅しにおびえて、命令通り動かなかった。
祐天吉松 手を焼いた八州廻りは、勝沼(現勝沼町)を本拠にして、田安家の岡っ引きをつとめる祐天吉松(のち新徴組に入り山本仙之肋と改める)を起用、吃安の逮捕に乗り出した。
祐天は早速、館林の浪人(群馬県館林市)犬上郡次郎という剣客や、正体不明の三蔵という博徒を連れて来て、勝蔵の紙張りに接する国分村(現一宮町)に一家を張らせて、子分を集めたのだが、短時日に六十余人を擁するという快調ぶりで、黒駒一家を脅かす存在にのしあがった。
祐天の狙いは、勝蔵を刺激すれば、黒幕の吃安もきっと姿を見せるであろうから、そこを狙って一網打尽という計略である。で、三蔵子分が勝蔵子分をだまし討ちにすれば、勝蔵子分がその報復を加えるという、血なまぐさい抗争が、文久元年(一八六一)三月から五月にかけてくり返され、同月三十一日には双方喧嘩仕度で金川原に出張り、決着をつけようというまでにエスカレートしたが、肝心の吃安は姿を見せず、勝蔵らは捕方の包囲を受け、その囲みを破って逃げ出したものの、それ以来甲州に定住できぬという割りの悪い羽目に追い込まれるのである。
その上、吃安は犬上の甘言にうまうまと乗せられ、同年十一月に捕らえられ、翌年十月には、一説に毒殺といわれるが牢死するのである。
斬首 文久元年五月、甲州を迷われた勝蔵は駿州にのがれた。従って『東海遊侠伝』に記しているように、菊川宿の手打ち式に出席したのは事実であろうが、遊侠伝は続けて、その後勝蔵は甲州、信州を転々としながら、泥棒行脚の旅を続け、これが発覚して信州の岡っ引き岡田の滝蔵に追われて、東海道に逃げ込む身になったのだ、としている。
事の真偽は別において、吃安の牢死は当時、駿遠州を転々としていた勝蔵の耳に入り、憤激した勝蔵は吃安の恨みを晴らすべく、子分らとともに元治元年(一八六四)の三月と十月の二回にわたって、甲州入りをした。
三月は失敗したが十月は、目指す仇の一人犬上が、等々力村(勝沼町)の万福寺の庫裡にひそんでいるのを突きとめて襲い、首を刎ねて見事に恨みを晴らし、余勢を駆って黒駒の山中に立てこもり、三蔵の首を狙った。が、果たせぬまま年を越し翌慶応元年(一八六五)六月までねばる間に、カイセンに感染、治療のため山を下って西湖村(富士五湖の一つ西湖・現足和田村)に滞在して間のない七月三日、迫手の手がのびたことを知って一家を解散、東海道から勢州に向かった。
例の荒神山の喧嘩には穴太(あのう)徳に加勢して話題をまいたりした後、明治元年正月三日、鳥羽伏見戦争をきっかけに結成された、倒幕の綾小路らの赤報隊の一員として加わり、名も小池勝馬と改めた。
少年時代の夢が三十七歳にして実現したのである。
その喜びを明治四年作成の「勝蔵口書き」の中で、
良き手引きを得て召し抱えの身になったのだ、と率直に申し立てているのだが、事志しに反して赤報隊は京都の作戦計画の都合で、中途から引き返し命令を受けた。これを不服として進撃して行ったのが相楽総三の率いる一隊で、偽官軍ときめつけられて相楽以下幹部の者が首を射ねられるという悲運なことになって
いる。
勝蔵の属した部隊は命令を奉じて京都に戻り、再教育の上、五月、四条隆謌(たかうた)に預けられて、徴兵七番隊となったが、兵の大部分は近江人(滋賀県) で占められていた。
勝蔵は江戸から奥州に転戦、京都に戻り、更に東京と改称になった江戸に、明治天皇の供奉の一員として東下、といった目まぐるしい日々を送るのだが、明治三年の軍制の改革で解隊に追い込まれていた。
隊名も東京第一遊軍隊と変わるなど、余計者扱いになったので、転身するべく仲間数人とともに、甲州の黒川金山の開発をもくろんで八月、一応十日の休暇をもらった。十日ばかりで掘り当たるはずがなく追い目になって掘り続けていると、脱走と官名詐称の疑いあり、として手配の身になった。それを知ると伊豆下田の蓮台寺温泉に行き、自首の形でつかまったのは翌四年一月二十し五日。身柄は甲府に送られた。
ところがその一か月ばかり前、原隊は解隊、仲間は皆故郷に引きあげていた。勝蔵の脱走罪も不成立になるところだが、元治元年の犬上殺しその他の罪は帳消しになっておらぬ、という歯切れの悪い理由で起訴され、斬に処す、という判決があったのがその年の十月十二日。中一日おいて山崎の仕置場で斬首、という手回しのよさで勝蔵は命を断たれた。時に四十歳。人生これからひと花咲かせようという年頃であるが、時の権力者のご都合主義にふり回された一人であった。
甲斐の侠客名が何人も見える
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