山梨県偉人伝 地名八田(石和)八田章平『山梨百科事典』山梨日日新聞社刊
山梨県石和町の区の1つ。武田氏館が市部にあったとき大廊と称して家臣の屋敷を構えた所であったが、躑躅ケ崎に館を移したとき家臣もまた府中に移り空地となった。信州先
方衆の末木市之丞が戦功によって武田信玄からこの地8町8反歩(8・8㌶)をたまわり、一族とともに移り住み、地名を八田とし自分も八田と姓を改めた。
八田章平1868(慶応4)年、新撰組隊長から入隊を強要された八田章平は入隊を固辞し、逆に旧武田浪士63人で護国隊を編成して官軍に属した。章平は市之丞の嫡流であり、その屋敷、書院は県指定の文化財である。甲州道中が官道として開かれてからはその沿線に人家も増加し、宿八田、沖八田の2部落となった。
1880(明治13)年、明治天皇県内ご巡幸のみぎり、掃き立てから絹布になるまでの養蚕の実態を伏見宮殿下の台覧に供した八達館主八田達也も八田氏の一族で、その屋敷跡には当時の屋敷神が森の中に祭られている。大廓の地名は現在も字名として残っている。
<鶴田利達氏著>
八田家書院(はったけしょいん)
山梨二県指定文化財。石和町八田の八田政恕の住宅にある別むねの書院である。
八田家は武田氏の家臣で、信玄のころには守卸蔵前衆として仕えた。のち徳川氏となり郷土の家柄として幕末に至った。古くから当地に邸宅を構え、徳川氏の御朱印により安堵された屋敷には、周囲に土塁と堀を設けた外郭が備えられ、現在もその一部が保存され、豪族屋敷の面影をしのばせている。当初の建物は、兵火や笛吹川氾濫などにより変遷を免れなかったが、書院だけは江戸(1603−1867年)初期の建築で、代々の努力により保存されてきた。「永。屋根は入母屋(いりもや)造り茅葺である。内部は床、書院つきの奥の間と床だけの中の間、玄関を付属した三の間が並び、数寄屋風の影響を認める簡雅な意匠を表現した書院遺構である。なお関係資料として「永々日記」「家政歴年誌」「地相絵図面」「八田村古絵図」「土蔵棟札」の5点がともに県文化財に指定されている。<羽中田壮雄氏著>
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