韮崎市の家塾 歌田家塾『韮崎市誌』中巻 第二章 学校教育 第一節学制以前の教育 一部加筆
下円井村。歌田氏は同村宇波刀神社の神官であって、寛永年間(1624〜43)より以降、昌吉・豊昌・昌豊・森村・昌行・昌房・昌保に至る数代、明治の初年まで郷党の教化に当たり、和漢の学を教授した(家塾・寺子屋調・参照)
解説寛永一七(1640)年、初代昌吉は笈を負って上京、日野家に師事して国学ならびに武道を修め、同じく二〇年郷里に帰り、家塾「耕餘館」を開設、以来家嫡はしばしば上京して勉学を怠ることはなかった。
家業とするところは、末子学を中心として、陽明学の見知(目でみ、心にさとしみる)によって、神明をもって良知(心の先天的な働き)の本体として、神官の尊ぶべき所以、祖先の崇拝すべき意義を明らかにすることを本旨とした(歌田昌収家・資料)。
(注)朱子学 物の道理を究め尽くして、我が後天的の知を究め、人格・学問の成就を期すとする、采の朱薫の見解。江戸時代の官学。
(註)陽明学 物に存する心を正し、先天的の知をみがき、人格・学問の成就を期すとする。明の王陽明の見解(『広辞苑』による)。
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