韮崎市の家塾 稲倉塾舎『韮崎市誌』中巻 第二章 学校教育 第一節学制以前の教育 一部加筆
穴山村。穂見神社神官生山正方、天明八(1788)年社内に塾舎を開き、甲州各地より生徒を募って教授した。氏は山県大弐とともに加賀実光章より漢学を学び、日野資枝より皇学を受けた博学の人で入門する者が多く、文化の末ごろ最も盛んで門弟四○○を超えた。文政の末年(1830)その死とともに塾舎を閉じた。
解説生山正方(明和一1764〜天保一1830)は、初め加賀美光章について漢学を学んだが、光章は京都において山崎闇斎の高弟、三宅尚斎について教えを受けている。闇斎は垂加神道を唱えた人であって、その学説は宋子学の敬慎説を主として吉田・伊勢両神道の要素を加えた神儒習合思想よりなる、天地開閉の神の道と、天皇の徳とが唯一無二なることを説く神道(『角川・日本史辞典』)であって、正方の家学なるものは多分にこの影響を受けた後、京都で学んだ日野資枝の和歌・有職(朝廷・武家の官職・典例に関する知識)など、国学による学問が前記の神道説に大成されたものと同時に、造詣深い漢学の力とが、正方の家学として子弟に共鳴を与え、俊秀を輩出せしめたことと考えられる。
俊秀なる門人としては宮地の矢崎好貫、円野の歌田隼人、駒井の宮澤重礼、柳澤の一条信郷、更科の腰巻正興、日野春の輿石豊一、横手の横手保民、大泉の森越義教、横手の古屋義貴等があり、「天正以後峡北の地に文学を称えたのは生山氏をもって鼻祖とする」(県
誌編纂会『若尾志料』)と称えられている。
交友なお、正方と交友の人々としては、京都の千種有功、同じく加茂季鷹をはじめ、山県昌貞(大弐)、萩原元克、古屋蜂城、志村天目、古屋眞幸、上野広俊、辻保順、飯田正紀、山本忠吉、野澤昌樹、堀内憲時等がある。
天保一〇(1839)年門下の手で穂見神社の境内へ「藤原正方之碑」(「生山正方之碑」)が建てられている(『山梨百科事典』『穴山村志』)。
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