韮崎市の家塾 堯民舎 生山健雄『韮崎市誌』中巻 第二章 学校教育 第一節学制以前の教育 一部加筆
穴山村。天保(一八三〇〜四三)の末、甲府代官松坂三郎衛門の命により黒駒神社の神官生山健雄は、その住宅を校舎として堯民舎と称した。徽典館より毎月二四日学頚深町小七郎が出張、教授し専ら漢籍を授けた。生徒は各村里正(名主)の子弟、甲府勤番旗下の士などで、聴講二〇〇名を下らなかったが、明治二(一八六九)年廃止となった(寺子屋詞・生山昌眞塾・参照)。
解説 松坂代官の計画による北巨摩郡下の公学校とも称すべきものはひとり堯民舎のみならず、郡下へ一〇余か所の講会所を設け、徽典館の教師が日を定めて巡回教授をした。韮崎市内における講会所は堯民舎のほか、次のとおりであった。
駒井村 行余会 毎月二一日 新右衛門
河原部村 弘道会 同 二二日 七左衛門
南下条村 里仁会 同 二三日 堤 常陸
解説2
松坂三郎左衛門は、天保九(1838)年から天保一三(1842)年まで甲府代官であったが、所属の逸見筋・武川筋の文教不振を憂い、天保十(1839)年、二か所の「学授所」を各地に設けて、一般成人有志に対して大学・論語・孝経・孟子等の講義を行った。学授所は「学
校」、「講会」ともいい、地方の人は「学校所」と唱えた。会場は社寺や名主宅・神主宅などを充て、それぞれ会主および取締役・肝煎 などをおき、講師としては小尾保教(兵之進)<甲斐叢記』入集者 小尾鳳山 保教(高根)>、台原丹宮(白州町台ケ原)、徽典館の教師などが当たり、それに松坂代官白身も講義を行っている。講義日は毎月一定していて、講師はこれを巡講していた(『山梨県教育青年史』)。
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