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◇「康和の経筒」―末法の世
平安時代中期になると、仏説にいう正法の世は遠く去り、像法の世も過ぎ、いよいよ末法到来の危機を人びとは切実に感ずるようになった。永承七年(一〇五二)に末法の世にはいったと信ぜられたが、大和長谷寺の焼亡・疫病流行など、仏説に類似した社会現象の頻発は、人びとに末法への自覚を深めさせた。
無常観・厭世観が行きわたり、人びとは往生浄土の教えにあこがれ、また釈迦入滅の五六億七千万年後にこの世に出現し、釈迦に代わって衆生を済度するという弥勒仏出現の世に期待をかけた。
そのためには経典を書写して経筒に入れ、これを経塚に哩納して弥勤出現の世まで残そうという風習が起きた。経典は一定の方式に従って写されたので如法経と呼ばれるが、法華経が多く写された。甲斐国にあってこの如法経書写を行った人に寂円という憎がいた。
寂円は山城国乙訓郡の人、六三歳で出家して諸国遍歴の聖となり、康和元年(一〇九九)ごろには甲斐国に落ち着いた。そして翌二年正月、当国山東郡(山梨東郡)内牧山村米沢寺の千手観音の宝前に籠居して、法華経八巻を如法に書写する大願を起こし、足掛け四年を費やして無事念願を果たすことができた。
そこで康和五年(一一〇三)三月二四日、写経を柏尾山寺往生院の仏前に移し、四月三日、往生院主でかつて比叡山において天台を学んだ尭範を導師として盛大な供養が行われた。関係者には供具頭藤原基清以下の名が知られるが、惣行事として三枝宿禰守定・同守継・権介守清らが名を連ねているのは、三枝氏がこの寺の大檀那であったためであろう。次いで同月二二日、写経は経筒に納められ、経筒はさらに土製容器に入れられ、寺の東方「白山妙里の峰」に哩納された。
ここは大善寺の東方一キロメートル弱の山腹で、今も白山平と呼んでいる。西に甲府盆地の東部一帯を眺望できる景勝の地で、経塚を営造するにふさわしい霊地であった。
たまく昭和三七年(一九六二)一月末、東京電力の工事中、ここで経塚群が発見され、関係遺物も多数出土したが、その一つに「康和の経筒」があった。
高さ約三〇センチメートルほどの鋳銅製の大きな経筒で、筒身と蓋とに計七八三字におよぶ長文の銘があり、無名の勧進僧寂円による経塚造営という、いままでまったく知られていなかった上記の史実が明らかとなった。
寂円が弥勤出現の世を期して哩納した経筒は、こうしてあっけなく掘り出されてしまったが、これによってうずもれていた史実の数々が明らかにされ、とりわけ浄土教の地方発展に貢献した寂円の不滅の業績が脚光を浴びるにいたった意義は大きい。
しかもこの大事業は寂円一人の仕事ではなかった。「その員(かず)を知らず、名を記さず」といわれる無数の結縁者に支持されて、初めて彼の大願も成就したのである。
経塚の営造は中世以降も引き続き行われ、山梨県下でも数カ所から遺構や遺物が発見されているが、営造の目的も父母や祖先の追善供養など時代によって変遷があった。
◇「康和の経筒」図 解説
一九六二年一月末、勝沼町の柏尾白山平経塚より出土。鏡銅製で円筒形をなし、かぶせ平蓋式で総高29㎝、身高28.8㎝、身口径17.5㎝と大型である。蓋(写真上)の表面に4行39字、筒身(写真下)の周囲に27行744字、計783字という稀有の長文の銘があり、しかも蓋の部分が表意、青身の部分が本文の役割をもっており、さらに文体が漢文体に宣命体を混じた和漢混淆文という珍しいものである。この長文の銘は、勧進僧寂円による如法経書写の発展から写経・供養、さらに埋納にいたる過程や、関係人名・地名などを詳記しており、経塚営造について極めて貫重な資料を提供している。関係者の筆頭に国司藤原朝臣・供具頭藤原基清朝(臣)の名があることや、「惣行事」として散位三枝宿禰守定権介守清らが見えることは、この一連の行事に大善寺を氏寺とする在庁官人三枝氏一族が深くかかわっており、国衙権力の支えによって、寂円も無事大業をなし遂げ得たことを推察させる。
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