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◇行基と守国―大善寺の草創建
勝沼町柏尾の大善寺は行基開別伝説をもつ真言宗の古剃である。元正天皇の養老二年(七一八)に行基が自刻の薬師三尊を本尊として草創し、柏尾山と号し聖武天皇から定額と祈願寺の宣旨とを賜ったと伝えている。鎌倉時代の末、延慶三年(一三一〇)の『大善寺文書』に「当山は薬師如来の霊場、行基菩薩の草創なり」とみえ、鎌倉時代にすでに行基開別伝説が成立していたことがわかる。鎌倉時代は民衆仏教の先駆者として、また東大寺大仏鋳造の中心人物として行基追慕の思想が起こり、多くの寺で行基伝説が創出された。とくに文永七年(一二七〇)の火災で本堂以下が焼失し、再建に民衆や幕府の多大の保護を期待した大善寺は、強力に「行基開創伝説」を打ち出す必要があったのであろう。
ところでこの寺にはもう一つ「三枚守国伝説」なるものがあり、本堂薬師堂を建てたのは守国で、行基のつくったのは旧本堂の往生院であったとする。
宇多天皇の寛平(八八九−九八)のころ、丹波国安大寺の艮(北東)の方にある榎の三股の中にいた童子が守国で、大将軍となって異国を退治し帰京したが、朋友の議言で甲斐国野呂郷に流され、あとを追って飛来した安大寺の薬師仏を天禄二年(九七一)に安置したのが薬師堂であるというのである。
三枝氏のいわれがわからなくなってから生まれた荒唐無稽の伝説である。
甲斐の三枝氏は、この伝説にいうように他国から移住したものではなく、大化前代に設置された名代の民三枝部の管掌者の子孫で、守国以前に甲斐に三枝氏がいたことは、『続日本後紀』承和一一年(八四四)五月条に山梨郡の人三枝直平麻呂の名がみえることで明らかである。三枝氏は当時の山梨郡を根拠に、平安時代には在庁宮人として活躍している。大善寺はこの三枝氏の氏寺として創建されたもので、この事実が守国伝説を生む基盤となったことは認められよう。
この寺の正確な創立年代は明らかでないが建久八年(一一九七)の『大善寺文書』に「草創以降三百余歳」とあることや、本尊の薬師三尊が弘仁・貞観期の一木づくりであることなどから、平安時代初期の創立と推定される。
記録上の初見は康和五年二一〇三)の経筒、いわゆる「康和の経筒」の銘に「柏尾山寺往生院」とあるのがそれで、銘文から当時この寺が天台系であったことが知られる。
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