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〔大善寺 だいぜんじ 勝沼町〕
『角川日本地名辞典19山梨県』角川書店
◆東山梨都勝沼町勝沼通称柏尾、にある新義真言宗智山派の寺、山号は柏尾山古くは柏尾寺・柏尾山寺・かしはおの山寺などと見える。
◆記録上の初見は、昭和三十七年一月末、当寺の東一㎞弱の白山中腹から発見された康和五年の経簡銘に「柏尾山寺往生院」とあるのがそれで、比叡山で修学した院主尭範を導師として同年四月三日盛大な供養が営まれた。大善寺は古来真言密教の中心地として知られるが,本経簡銘によって当時は天台系であったことが推定される。
◆次いで安元三年六月の平某下文(大書寺文書/甲州古文書一)に「柏尾寺」、建久九年九月八日付関東御教書案(同前)に「かしはおの山寺」などとあるが、「大善寺」の名は嘉禄二年十一月三日付関東下知状写(同前)に「柏尾山大善寺」とあるのが初見、当時は一山を指して柏尾山・柏尾寺などといい、その本堂薬師堂を指して大善寺と称したことが、たとえば弘安十年九月五日付関東御教書案(同前)に「甲斐国柏尾寺本堂大書寺造営事」などとあることによって確認される。
◆当寺の草創について
〔行基〕
*寺伝は元正天皇の養老二年に憎行基が自刻の薬師三尊を本尊として開創し、柏尾山と号し、聖武天皇から鎮護国家大書寺の定額と祈願寺の宣旨とを賜ったとする。
*しかし建久八年十月の柏尾大衆等解案(同前)に「草創以降三吉余歳」と見え、鎌倉初期には平安前期の草創という寺伝をもち、行基開創伝説などはまだ生まれていなかったことがわかる。この寺伝は本尊薬師三尊が弘仁・貞観期の一木造りの秀品であるという事実とも符合し、かなり確実性があると思われる。行基開別伝説は,鎌倉期の末、延慶三年五月五日付関東下知状(同前)に「右如解状者、当山者薬師如来之霊場、行基菩薩草創也」とあるのが初見で、この段階で幕府が寺伝を承認したわけである。
関東の行基伝説をもつ寺の縁起が、ほとんど近世初頭の創出であるのに対し、大善寺は鎌倉の杉本寺や伊勢原の霊山寺と並んで、鎌倉期に早くも行基開創伝説を成立させていたことがわかる。鎌倉期は民衆仏教の先駆者・代表者とし
て,また官寺東大寺の大仏鋳造の中心人物として、行基追慕の思想が幕府や民衆の間にほうはいとして起こった時代であり、大善寺もこうした時代思想の中で行基開創伝説を戒立させたのである。特に文永七年の火災で「本堂大善寺以下」が焼失し、再建のため民衆や幕府の多大の保護を必要としたこの寺は、行基開別伝説を強力に打ち出すことによって、延慶三年には信濃国に棟別銭十文宛を賦課するという幕府の命令をかち取ったものである。
ただし養老二年開創説が確認できるのは近世初頭であり、戦国期には天平四年説が存在したらしい。
〔三枝守国開創伝説〕
ところで大善寺にはもう一つ三枝守国開創伝説なるものがあり、薬師堂を建てたのは守国であり、行基の造ったのは往生院、すなわち阿弥陀堂西明寺で、これが旧本堂であったとする。天文十四年の柏尾山諸堂覚書写が初見で、同二十四年の柏尾山造営勧進状写はさらにその経緯を詳記する。その大要は、宇多天皇の寛平の頃、丹波国安大寺の艮(うしとら)の方にある榎の三股の中にあった童子がのちの守国で、大将軍となって異国を退治し帰京したが、朋友の謹言で流罪となり,甲斐国野呂郷に落ち着き、あとを追って飛来した丹波安大寺の薬師仏を天禄二年に安置したのが薬師堂の起こりであるというのである。随分荒誕な伝説であるが、のちには時代を仁明天皇の時とし、賊徒を平げた功で播磨国に所領を得て大宰大弐に任ぜられたとか、百六十歳の長寿を保ったとしたり,遂には仁明天皇の皇子とする説さえ現れる始末で、伝説はますます奇怪の度を加えた。このように守国伝説は内容が荒唐無稽で、成立年代も新しいが、当寺がもともと三枝氏の創建した氏寺であったという事実がこの伝説の基礎になっていることは否定できない。
甲斐の三枝氏は「続日本後紀」承和十一年五月丙中条に、承和四年に死亡した山梨郡の人三枝直平麻呂とあるのが初見で、守国伝説にいうように他国から移住したものではなく、六世紀頃諸国に設置された名代三枝部の甲斐における管掌者であり、おそらく国造の一族でもあった甲斐の古代氏族である。峡東地方に勢力を張り,古代末期には在庁官人として活躍している。
前記康和五年経簡銘の末尾に掲げられた法要関係者の中に、「惣行事」として散位三枝宿禰守定・同守継・権介守滑らの名が見え、三枝氏がこの寺の大檀那であったことを推定させる。往生院の名が見えるのも貴重であるが、これを当寺の旧本堂であったとするのは当たらぬであろう。当寺はおそらく平安前期に三枝氏によって薬師如来を本尊として創建されたもので,平安中期以降、浄土教思想が広まるにつれ、この寺にも往生院が設けられ、康和五年にはここで盛大に如法経供養が行われたのである。
また、前記建久元年の柏尾大衆等解実によると、永保年間の頃、前国司藤原実政が山内に一堂を建て浄瑠璃寺と号したことが知られ、相当な規模をもつ大寺院であったことが推定される(古代豪族と宗教/郡司及び采女制度の研究)。創建後、平安末期当寺と春日居町の長谷寺の衆徒が争って伽藍を焼失、高倉天皇の安元三年に平清盛が勅命を受けて再興したと伝える(勝沼町誌)。
この時清盛が衆徒に帰任を安堵したという下文を所蔵するが、花押は清盛のものではない(大書寺文書/甲州古文書一)。端裏書によれば検非違便平業時(または乗時)の下文である。
〔鎌倉期〕
鎌倉期、将軍家の祈両所となり保護を受けた。弘長二年十月十八日付関東下知状実写によれば「右大将家(源頼朝)御時者。堺四室被立寺領畢」と頼朝が四至を定めて寺領を寄進したといっている(同前)。建仁四年、建保元年に大書寺別所・四室内への狼籍者の乱入を禁じ、寛書元年八月には将軍家の祈祷所であることを理由に守護の使者の乱入をも禁止した(同前)。また募禄二年将軍藤原頼経が甲斐国の地頭らに修復のための材木の切り出しを命じている(同前)。文永七年の火災で本堂などを焼失したときも、前記延慶三年の信濃国棟別銭の措置の如く幕府の援助を得て再建がなされ、鎌倉期も寺勢は盛んであった(大書寺文書/甲州古文書一、国志・勝沼町誌)。
〔南北朝期〕
南北朝斯の建武三年五月初雁五郎という暑が足利勢を討とうとして挙兵し、その兵火によって堂宇を焼失。暦応二年の注進に、常行堂・一切経宝蔵・浄瑠璃寺・如法道場・鐘楼堂などを失ったとある(大日料六−三延元元年五月五日条)。しかし翌建武四年七月には斯波家長が小岡郷内並に塚原の地六町余を足利尊氏のための祈祷料として寄進し、暦応二年四月室町幕府が小岡郷内の寺領を安堵,以後将軍のためにたびたび祈祷を行っており,時代の変革に左右されずに寺勢を維持していた(大善寺文書/甲州古文書一)。なおこの頃から武田氏の帰依を受ける。文和四年二月南朝方に武田信春が攻められた時、信春は当寺に陣を敷き、関所を寄進することを約束して祈祷を修せしめ、貞治四年に菱山内丸山村を寄進している(同前)。これより先の延文二年には北朝方であろうか兵庫助源盛長が深沢村内の尾崎林を寄進。四至は「堺東柏尾堺西北菱山堺南林基畠合道」である(同前)。また鎌倉公方の帰依も受け、当寺は毎年巻数を送り祈蒔の報告をしている。(同前)。
〔室町期〕
さらに室町期の応永元年十月道中が「阿きまち分内道より上の畠」を、同六年前河内守沙弥常俊が字多田郷内国衝経田三昧田八反を、文明五年十二月栗原治部大輔信重が田中郷内の年貢一貫文を、同七年三月駒井信久が、西石森油田の地五百文を寄進した(同前)。このように南北朝期の動乱時代,室町期においても諸将の外護を得て寺運は興隆した。
〔武田時代〕
しかし、天文九年八月の大風によって本堂の屋根が破損し、仏像は雨曝しとなる。当時再興の力がなく、一時荒廃にまかせていたが、武田信玄や檀那である今井信甫・信良らが援助し、また天文十九年三月中旬、小山田出羽守信有は五百人を動員して保性(宝生か)大夫・大蔵大夫両座に三日間の勧進延年舞を興行させた。こうして槍皮茸の屋根の修復を成し遂げ天文二十四年二月彼岸に荘厳な供養を行った(天文二十四年九月五日付柏尾山造営勧進状案、大善寺文書/甲州古文書一)。信玄はまた勝沼のほか、岩崎郷・小同郷・菱山郷丸山村・於曽山村・綿塚郷などの当寺領計五十三貫4百匁・六丁・四端を安堵している(大善寺文書/甲州古文書1)。天正十年織田信長の甲斐攻めのとき、新府中韮崎新府城を自ら焼いて岩殿城に退却しようとした武田勝頼が当寺に宿泊。この寺に庵を結んでいた理慶尼(信玄の叔父勝沼信友の女という)の著作といわれる「理慶尼記」(武田勝頼滅亡記)には,勝頼夫人の言葉として
此寺の御ほんそんは。やくし如来とうけたまはる……かしはをはにら崎より東なれは。とうほうちゃうるり世界を心かけたまひて……・西を出東へ行てのちの世の宿かしわをと頼御仏
と記されている(続群二十一上)。
〔徳川時代〕
武田氏滅亡後、天正十一年四月徳川家康が「田中之内三貫文・菱山山弐貫五百文・宮崎之内弐貫七百文・勝沼長手之内看貫六古文」を安堵(大書寺文書/甲州古文書一)。同十九年に受封した加藤光泰は東門より西門中の年貢を寄付、翌年十一か条からなる定書を当寺に出して寺内の粛正を図っている(同前)。文禄二年に封じられた浅野長政は翌年寺領三十俵を寄進、慶長二年には改めて「柏尾山東門より西門中の年貢二十九石八斗を寄進(同前)、江戸期慶長八年三月の四奉行黒印で同所に三十二石六斗余とされた。その後寛永十九年徳川家光が同高を朱印地として安堵し,江戸期を通して継承された(寛文朱印留・五寺記)。当寺は甲斐国真言宗壇林七か寺の一つで(国志)、山城国醍醐寺報恩院を本寺とし、海蔵院・不動寺・金剛寺の末寺を擁した(本末帳集成)。文化年間頃の山内には本堂・楼門・仁王門・楽屋舞台・鐘楼・客殿・神変堂・鎮守五所権現社などのほか本山派修験に属する光明院・正覚院・遍照院・王者院・一乗院・正蔵坊の塔頭があった(国志)。
〔聖護院道興〕
室町期の文明十九年本山派の中心寺院である聖護院の道興が当寺に宿して
陰頼む岩もと柏をのづから
一よかりねに手折てぞしく
と歌っている(廻国雑記/群書十八)。本堂の薬師堂は文永七年の火災後の再建、弘安九年に立柱、正応四年に竣工した県内最古の寺院建築である。方五間・単層寄棟造り・檜皮茸、和様建築の代表的遺構で厨子とともに国宝。
*『廻国雑記』
道興が文明十八年(千四百八十六)六月から一年近い長途の旅行中
に書きとめていた文章や詩歌を、文明十九年(長享元年)の帰洛後にまとめたものとみられる。
*道興
道興は法名。関白・近衛房嗣の子。生年は不詳、ただし古記録の没年をもとに永享二年(一四三〇)と推定する説もある。幼くして仏門に入り、天台宗を学ぶ。長じて聖護院の門跡(もんぜき)となり、寛正六年(一四六五)には准后(じゅごう)に叙せられた。門跡とは寺格の高い特定の寺院で住職を勤める皇族や摂関家子弟のことであり、その寺院をも指す。准后は准三后(じゅさんごう)の略で、太皇太后・皇太后・皇后の三后(三宮)に准ずる地位である(准三宮)。高い身分にあり室町幕府とも関係の深かった道興はまた、修験道本山の聖護院門跡として何度も廻国巡礼を行い、和歌・連歌・漢詩文に通じた風雅の人でもあった。文亀元年(一五〇一)七十二歳の入滅と伝えられる。
〔葡萄薬師〕
本尊の木造薬師如来坐像は右手に葡萄を持っていたため「葡萄薬師」と称され、日光・月光の両脇侍とともに一木造りの漆箔像、平安前期の作で国重文。所蔵文書、徳治二年の銘のある鰐口は県文化財、庭園は県名勝である。
〔年中行事 藤切祭〕
年中行事としては五月八日の藤会式、十月一日の鳥居焼がある。藤切式(藤切祭)は役行者の大蛇退治の伝説に基づき、山伏姿の憎が切り落とす藤蔓を若者たちが奪い合う豊年祈念の行事、
〔年中行事 鳥居焼〕
鳥居焼は平安期常々競い合っていた当寺と春日居町の菩提山長谷寺の衆徒が山伏問答を行い、勝った当寺側が菩提山の鳥居を奪い取り持ち帰って焼いたことに始まるといい,陰暦の七月一四日に鳥居形に薪を置き護摩火で点火する虫送り行事・お盆の火たき行事であったが、現在はブドウの収穫期に行われ観光行事化している。
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