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白州 武川 歴史紀行 真実を求めて

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右大将家(源頼朝)建久中(1190〜1199)寺内四至を定めら(れ)る、又当寺御祈願所為るに依り代々の御下知明白也とも見えたり。
〔四至〕
しいし/しし)とは、古代・中世における所領・土地の東西南北の境界を指して呼んだ呼称である。転じて境界そのものを指すようになった。

朝廷(太政官弁官局または民部省)から派遣された使者(官使)及び国司から派遣された使者(国使)、荘官三者の立会のもとで荘園と公領などそれ以外の土地との境界を確認した上で、その四隅の境界線に牓示(記となる杭などを打つあるいは付近の自然物に印を付ける)を行って四至を明確にした。これを四至牓示(しいしぼうじ)と称する。また、その際には牓示の正確な位置を記した絵図(四至牓示絵図)を作成して領域を確定することで、後日の境相論の防止に努めた。


*建久八年(1197)堺寺内敷地四至御寄附。

*建久九年(1198)塔供養。

*嘉永二年(1226)人夫を賜い材木を出す。

〔註〕

 寛喜元年(1229)幕府、甲斐大善寺に守護所使等の乱入を停

止させる。(大膳寺文書)

*嘉禎三年(1237)十二月六日、鮎沢宿御難事を免ぜらる。

*健仁(1201〜03)、健保(1213〜17)、覚書御下知案文等

〔註〕

 寛喜三年(一二三一)福光園寺(御坂町)吉祥天女並に二天なる。

銘「左門尉藤原定隆(略)大勧請良賢聖人(略)芳縁三枝一族並に橘氏ら(略)大仏子蓮慶大徳(略)」

〔註〕

 建長六年(一二五四)七月十六日、源信長、柏尾大善寺・市川平塩寺写経僧筆の「大般若経」を武田八幡宮に奉納する。

(若草町法善寺源蔵)

〔註〕

 嘉禎三年(一二三七)十二月六日、幕府、大善寺領鰍沢宿の雑事を免除(大善寺文書)

〔註〕文暦元年(一二三四)甲斐の歌枕(順徳院『八雲御抄』)

 しほの山・かひがね・ころこまの牧たちのの牧おのの牧ほさかの牧・たまのいの里・さし出の磯

〔註〕

建長元年(一二四九)十二月二十三日、甲斐守守御所、柏尾山寺への所使に入部及び四十一半打を禁止(大善寺文書)

〔註〕

建長六年(一二五四)七月十六日、源信長、柏尾大善寺・平塩寺写経僧筆の「大般若経」を武田八幡宮へ奉納する。(若草町法善寺)

*康元元年(1256)十二月十日寺炎上に依て之を失う。

*弘長二年(1262)紛失状を賜う。

〔註〕

弘長二年(一二六二)十月十八日、幕府、大善寺に領地文書を与える。(大善寺文書)

*文永七年(1265)再炎上に及び、

*弘安七年(1284)三月勅宣あり、当国中勧進し、棟別二十六文銭貨可終大善寺造営功の由鎌倉より被下知。

〔註〕

弘安七年(一二八四)八月二十三日、甲斐国中に勧請して大善寺を造営する(大善寺文書)

*延慶三年(1310)賜信濃国棟別十文銭貨の処に、

応長元年(1311)十一月十六日また炎上せし事、

〔註〕

弘安九年(一二八六)三月十六日、大善寺本堂を立柱(正応三年竣工)

〔特註〕

正応三年(一二九〇)甲斐源氏浅原為頼父子三人禁中に乱入、伏見天皇殺害を企て、失敗し自殺。(伏見院御記・増)

正中三年(1326)の紛失状に委し(件ノ焼失下知状の写八通今尚蔵之但し建久覚書二通は亡)




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