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建武三年(1336)五月五日、初雁五郎挙兵して、足利方を攻めて大善寺を焼く。(大善寺文書)
◇斯波陸奥守家長『甲斐国志』「姓氏部」筆者挿入
*建武四年(1337)七月十六日
甲斐国小岡郷内寄進状
*暦応二年(1339)四月十九日 『柏尾大善寺文書』
国衙在庁の証状の添状も有之一色氏・金丸氏・土屋氏の家系を按ずるに本州に在りし。一色氏は左京大夫範氏四世の孫満範より出る趣なり。武河筋(上条南割)の大公寺の所建大興寺殿(範氏法名)の牌子あり。始祖の香火場に営む所なるべし。
*室町家の時に及び、建武三年(1336)初雁五郎当時炎上の事あり、
*建武四年(1337)本州小岡郷内の田畠六町余寄附せらる、其状に
甲斐国柏尾山は本仏医王善逝ノ霊場、行基菩薩創立は六百余歳哉就其奉祈源家御繁昌御寺也、仇代々御崇敬之状数通有之(為御上覧備之)ト云々
〔初雁五郎〕 都留市立図書館(ネット検索)
❖第三節「恩敵」初雁五郎の狼藉
建武四年(1337)「御敵」初雁五郎という者が、柏尾山大善寺を炎上せしめた。室町幕府は将軍御祈祷のため同寺再建の料を寄進している。初雁五郎をこの史料に登場するのみなので前後の事情は類推していくしかない。おそらくは波加利庄の下級荘官であったのだろうか。『甲斐国志』に(大月市域)下初狩村に「河内屋敷」という城館跡地名がある。と伝える程度である。史料は御敵といっている。
初狩五郎は南朝方に加わって活動しているのである。大善寺は先にも述べたように古代の旧国造り三枝氏所縁の寺である。壇越の消長とは別に平安期の薬師三尊像を守って長く峡東の大寺であった。度々の炎上でもその都度に再建され、鎌倉末期の火災の時には幕府は同寺の再建のために信濃一国平均国役を課しているほど重要な位置付をもった。残存の史料からは御薬師信仰の隆盛がうかがえる程度であるが、郡内地方のしかも無名の地侍が押し出して、同寺破壊に及んだ状況の中に根本的な歴史の変動が読み取れるのである。なお波加利荘は南北朝期には長講堂領荘園として機能しており、北朝の崇光天皇の即位にあたって公事を申付けられている。請所も承久の時と同じ武田・島津となっている。
この寄進状の発給者である斯波家長は関東管領として、足利尊氏の代理人的立場にあったが、尊氏が征夷大将軍に任官するのはこの翌年であった。尊氏は一方で鎌倉時代の由緒を問わずより多くの武士を徴募しなければならないし、他方では幕府を僭称ではなく公権力を天下に認知させることに腐心している。十月には全国的に武士の占領した寺社・国衙の返還を命じたりしている。権力の帰趨は未定の時期である。甲斐国も事情は同じであった。
幕府崩壊時点での甲斐守護は武田三郎政義であった。後世の通説からみれば、この政義は幕府創建期を除けば初めて確認できる武田守護なのである。甲斐国の政治的寺院として誰もが連想する恵林寺の創建に関わるのが幕府官僚二階堂氏であることはよく知られていることである。高貴な血筋としての(石和御厨に依る)武田姓は尊ばれたものであろう。しかしこの惣領家の流れの中から自立できる武士は独立した御家人として、安芸や若狭の守護職となっている。残った者が甲斐守護になるような武田氏専制体制ではなかったようである。(中略)
残された数少ない史料の中に観応三年(1352)に甲斐国青沼郷の下知を地付きと思われる逸見入道から取り上げて、安芸の武士である金子信泰に与える沙汰状が残っている。(中略)
文安四年(1355)になっても守護信春にたいしては「国中の御敵が乱入」してきたので、大善寺に陣取って退治した、という。(下略)
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