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〔鎌倉期の武田氏〕
資料『山梨郷土史研究入門』山梨郷土研究会 山梨日日新聞社 平成四年(一部加筆)
治承・寿永の内乱とそれに続く初期の鎌倉幕府内の政争の過程で、鎌倉御家人としての武田氏の礎を築いた武田信光以降、南北朝内乱の過程で守護大名としての武田氏の礎を築いた武田信武に至る、鎌倉期の武田氏についての研究は、いわば武田氏研究における空白部分ともいえる。この期の武田氏研究の困難さは関係史料の絶対的な稀少性にあることは言うまでもないが、従来の諸研究が『吾妻鏡』や『甲斐国志』のみを利用してきたことは問題であり、また山梨県関係の史料に終始していたことも問題である。実際、広く鎌倉期の諸史料にあたってみると従来の諸研究では触れられていない人物の存在が確認されるのである。
また、信光から信武に至る世系を、暗黙のうちに武田氏の嫡流=甲斐武田氏の嫡流とみなしていた点も問題である。これは武田信玄に連なる世系が即武田氏の嫡流であり、同時に甲斐武田氏の嫡流であるという、いわば二重の信玄中心史観の表れといえる。
鎌倉期の武田氏について述べているもののうち、以上の点からみて最も。通説的であるのは広瀬広一『武田信玄伝』(昭19、同43再)であるといえ、以後における研究はこの広瀬氏の成果をどの程度超えられるかという点であるといえよう。
その点において、まず挙げなければならないのは佐藤進一『鎌倉幕府守護制度の研究』(昭23、同46増訂版)である。佐藤氏はここにおいて、甲斐守護として武田石和政義を、安芸守護として武田信光・信時の二人を検出された。特に政義については、現在に至っても甲斐守護として確認しうる唯一の人物であり、また彼が信光から信武に至る世系に属さない信時の弟政綱に始まる武田石和氏の人物であることは重要であった。
次に河村昭一氏は『郷土資料安芸武田氏』(昭五九)において、安芸守護の武田氏についてさらに詳細な検討を加えられ、政義の甲斐守護在任と同時期に再び武田氏が安芸守護に在任していたことを明らかにされた。これらの守護研究によって、武田氏は甲斐・安芸両国の守護であったこと、そのうち甲斐守護としては武田石和氏の政義が、安芸守護としては信光から信武に至る世系が確認された。
また、湯山学「『他阿上人法語』に見える武士(一)」(『時衆研究』六三号、昭50)において、鎌倉後期に武田石和総家(宗信)が伊豆守を受領し、北条得宗家の被官であったことが明らかにされ、その存在に注目された。これらを承けて黒田基樹「鎌倉期の武田氏」(『地方史研究』211号、昭63)は、甲斐・安芸守護、伊豆守の受領名の継承に着目し、鎌倉中期の信時の安芸下向以降、信時とその子孫は同国に在住して安芸守護職を相承する存在とみなし、これを、「安芸武田氏」と呼び、信時の弟政綱の家系(武田石和氏)は北条得宗家の被官として甲斐守護職に補任されこれを相承する存在とみなし、これを「甲斐武田氏」と呼び、両者の関係を惣領制規制から脱した同等のものとみなし、甲斐・安芸両武田氏の存在という設定を試み、また、伊豆守の受領者が武田氏の惣領を示すという推測をした。
以上は、守護在任者を出した、信時から総武に至る世系と武田石和氏という二つの家系についてのものだが、この他『吾妻鏡』以外の史料によっても、甲斐甘利荘地頭信賢(武田岩崎信隆忠)、安芸佐東郡地順奉継(同息)、和泉坂本郷地頭義奉(信時弟信奉孫)、等を始めとして多くの武田氏の一族が確認され、とりわけ武田一条氏と武田岩崎氏が注目され、今後はこれらをどう位置付けるかが課題となっているように思われる。
また、室町期以降の守護大名武田氏の祖である信武の動向も重要で、これについては佐藤・河村両氏によって、信武は南北朝内乱の過程で武田石和氏と対立・抗争し、その結果甲斐守護に補任されていることが明らかにされ、黒田はさらに、信武は安芸武田氏の出身であり、そのことから信武の後安芸守護を継承した氏信を実名と伊豆守の受領名とから信武の嫡子であり、甲斐守護を継承した信或は庶子であること、すなわち信武の嫡流は氏信の系統(安芸、のち若狭武田氏)であることを指摘した。信武にはこの他に信明・公信・義武の諸子であったが、それぞれ甲斐守護代、幕府奉公衆、鎌倉府近習衆として確認され、そのこと自体、守護大名武田氏の成立を考える上で興味深いが、南北朝期には鎌倉期以上に多くの武田氏の一族が確認され、これらの位置付けによって、逆に鎌倉期の武田氏を照射することが可能といえる。鎌倉期及び南北朝期の武田氏についての研究は緒に就いたばかりといえよう。〔黒田基樹氏著〕
〔註〕
正平七年(一三五二)三月二十九日、足利尊氏、大善寺の祈祷巻数。
(大善寺の僧が必勝祈願の祈祷回数や経典数を記録して報告する。
〔註〕
正平十年(一三五五)二月二十五日、去る二十一日甲斐の南軍、武田信春を攻める。信春は柏尾大善寺に陣を敷き、この日大善寺衆徒に闕所(幕府や領主により没収された土地)地寄進を約して祈祷させる。
〔註〕
正平十二年(1357)二月二十五日、足利尊氏、大善寺に祈祷を依頼する。(大善寺文書)左の記事と同じ。
*延文二年(1357)(足利)義詮(あきら)将軍始立御祈祷事可被進巻数由文書あり。
〔足利義晧〕
正平十三年(一三五八年)四月に尊氏が没し、十二月に義詮は征夷大将軍に任命される。この頃には中国地方の山名氏や大内氏などが向背定まらず、九州では懐良親王などの南朝勢力は健在であった。早速、河内や紀伊に出兵して南朝軍と交戦し赤坂城などを落とすが、一方幕府内では、正平十六年(一三六一年)に細川清氏・畠山国清と対立した仁木義長が南朝へ降り、さらに執事(管領)の清氏までもが佐々木道誉の讒言のために離反して南朝へ降るなど権力抗争が絶えず、その隙を突いて南朝方が一時京都を奪還するなど政権は流動的であった。しかし細川清氏や畠山国清が滅ぼされ、正平十七年(一三六二年)七月、清氏の失脚以来空席となっていた管領職に斯波義将を任命。正平十八年(一三六三年)には大内氏、山名氏が幕府に帰参して政権は安定化しはじめ、仁木義長や桃井直常、石塔頼房も幕府に帰参し、南朝との講和も進んでいた。同年、義詮の執奏により、勅撰和歌集の十九番目にあたる『新拾遺和歌集』は後光厳天皇より綸旨が下った。正平二十年(一三六五年)二月には三条坊門万里小路の新邸に移っている。この間に義詮は訴訟制度の整備に着手し、評定衆・引付衆を縮小して将軍の親裁権の拡大を図った(御前沙汰)。園城寺と南禅寺の争いでは、今川貞世に命じて園城寺が管理する逢坂関等を破却させた。正平二十二年(一三六六年)に斯波氏が一時失脚すると細川頼之を管領に任命した(貞治の変)。
*武田氏に於ても観応(1350)、文和(1352)以降巻数ノ受取書、寄進状等信成、信春の花押並に晴信の寺領証文、太刀奉進の折紙も存したり、彼家世々崇敬のこと諭なし、
〔註〕
正平二十年・貞治四年(一三六五)閏九月二十一日、武田信春、甲斐菱山内丸山村を大善寺に寄進する。
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