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白州 武川 歴史紀行 真実を求めて

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*山内に廃迹の名存したる者あり
*阿弥陀堂(往生院西明寺上京是往昔の本堂ナリ)
*五重塔(本尊五智如来)三重大塔(本尊文殊)
*一切経蔵
*常行堂(本尊観世音総持院と云う)
*護摩堂(本尊不動、真光院と云う)
*如法堂(本尊釈迦、転法輪院)
*毘沙門堂(多門院と云う)
*宝珠院(本尊地蔵の石記像弘法大師の作と云う)
暦応二年(1339)の注進状に云う、
当国御願所柏尾山
*建武三年(1336)五月五日六日、炎上、寺仏閣並宝蔵注進の事
常待堂並去后屋(五間)
阿弥陀三尊、不動、毘沙門、五智如来本尊、一切経宝蔵(二間)
五所権現宝殿(五間)
並拝殿(五間)
王子各々三所、
浄瑠璃寺(三間)
薬師如来、昆沙門、地蔵、観音、如法道場(三間)
釈迦、普賢、文殊並庵室(五間)
温室(五間)
鐘楼望、金泥法華経七部、
天台六十巻三部(各抄物)
幡百梳白盖(三具)
法服十五具、
関伽器十五枚、
舞装束(五十具各面)
四菩薩面、装束四具、
托鉢一具
*文永七年(1270)炎上、大善寺新仏(丈六)三重大塔、二階楼門(五間)並に二王、右粗注進如件、暦応二年(1339)五月日とあり、按ずるに天文十四年(1545)の旧記にいう、本堂阿弥陀、西明寺初の建立は天平四年(732)也(今に至る、八百十五年薬師堂に先んずること、二百三十八年)
〔理慶比丘尼〕
*理慶比丘尼墓(五輪石塔也、理慶は勝沼入道の女、慶長十六年(1601)辛亥八月十七日逝す、人物部勝沼氏の伝に附す)
❖筆者挿入〔勝頼滅亡記〕   一話一言(大田南畝)
 武田勝頼滅亡記一冊 甲州柏尾山理慶比丘尼著(柏尾山は勝沼に近き所あり)右同人甲州より写来て示す。実録にして甲陽軍艦等に載せる所異也。
〔解説 武田滅亡〕
『武田勝頼公は生きている』【躑躅が崎―甲府善光寺】運命の迷路 新府城退去 著者 平山三郎氏(大和村田野出身)
 (韮崎新府城を後にして----
看回塚を発った一行は、駒沢の坂を下り宇津谷を通り、千塚・塩部を経て、つつじが崎の古府館に着いた。しかしつい先ごろまで武田が三代も栄えていたときの居館も、すでに荒れ果ててしまい一行の憩う場所さえない有様になっていたので、止むを得ず信玄公の弟である一条右衛門大夫信竜の屋敷を尋ねたが、ここもすでに人影がなく喉を潤す一服の手立てもないので、仕方なく、衣服や草鞋(わらじ)を直すのもそこに、東へ向けて出発した。
【善光寺】
お供の衆は、老若男女合わせて六、七百人ほどであったが、板垣の善光寺の前を通るときは、皆足を止めて合掌し、心の中では「南無阿弥陀如来、もはやこの身は長生きして身の安楽を乞わないが、せめて十万億土の極楽浄土へ心安く迎えとらせ給え」と一心に念じた。
 この寺は永禄元年(一五五八)に父信玄が信濃(長野)の善光寺を模して造ったもので、多彩な大伽藍は武田家の未来を象徴するかのように、四隣に映えていたが、今は極楽往生の祈りを捧げる境遇となり、有為転変の世の無情をかこつだけである。
 侍女たちは馴れぬ足どりのまま、無我夢中で歩き続けてきたが、さすがに疲労の色が濃く、足の爪は剥げ、豆はつぶれて鮮血が惨み出しているのを見て、かつての日、勝頼公夫人に供してこの地で楽しい花見の宴を催したときのことを思い出して、また鳴咽して目頭を腫らしながら少し歩いては路傍の枯草の上に倒れ伏したまま立とうともしない者が多くなった。家来たちはこの者たちを宥(なだ)め、促して、再び隊列に戻そうと苦心を重ねていた。
【小幡豊後守】
そのころ武田の家臣である小幡豊後守は、病気のため城を離れていたが、お家の危急を聞いて一行の後を追って善光寺前でやっと追い付くことができたので、いち早く勝頼公に拝面した。
「病気のため、残念ながら最後までお供ができないのをお許しください。これからしばらくの間道案内をさせていただきますが、私はこの界隈の地理と人心の動きを承知しております。この辺は浪人の逆心があるかも知れないので気懸りです。足の弱い女・子どもは早々に暇を出されて、今夜は勝沼の柏尾まで行かれるのが安全かと存じます」
と、進言した。
【万福寺】
 一行は薄氷を踏む思いで一歩一歩進み、石和の川中島を経て陽が西山に傾くころやっと等々力村の万福寺にたどり着いた。
 勝頼公は豊後守の進言もあったので、足弱い女、子どもを呼び、きょうまで仕えてくれたことをねぎらい、体を大事にしてりっぱに成長するよう諭した後一行から別れさせた。万福寺から柏尾までは短い距離であるが、一行の中に残った婦女子は、杖にすがり、足を引きずって歩き、夕闇迫るころやっとの思いで大善寺にたどり着くことができた。
【大善寺】
この寺は、養老二年(七一八)僧の行基が薬師如来像を彫刻し、奉祀し開則したものと伝えられ、聖武天皇から「柏尾山鎮護国家大書」の寺号と、勅額を賜って以来、歴代朝廷の祈願所となり、北条貞時が弘安九年(三八六)後宇多天皇の勅を奉じて寺院の造営にかかり、八年の歳月をかけて薬師堂を完成した由緒深い甲斐国第一の古刹(こさつ)である。
 この寺には勝頼公の祖父に当たる武田信虎の弟、勝沼五郎信友の娘がいる。かって、父信友が不遇の死をとげた折、この寺に入り、剃髪(ていはつ)して、桂樹庵理慶尼と称し、護摩堂の阿閣梨慶紹を師として、仏道に精進しているのであるが、喘(あえ)ぎながらたどり着いた勝頼公一族を快よく招じ入れて厚くもてなしてくれた。やがて、夜に入ると、勝頼公夫人の願いにより、理慶尼は本尊の薬師如来の御前で経文を唱え、勝頼公一族の武運を祈ってくれた。けれども夜がふけたころになるとあちこちの家に放火する者があって、勝頼公のお心をしきりに掻き乱す仕業があったので、召し連れていた人々も、その火の光に家に残した妻子のことなどを思い、この先が案じられてきたのか忍び忍びに逃げて行く気配がした。
 勝頼公はその折「誰かおらぬか」と呼んだが、すぐにこたえお傍に出る者もなく、重ねて「誰かおらぬか」といえば重臣の土星惣蔵が進み出て「ご用は何ぞ承ります」と跪いた。勝頼公は「先刻から闇に乗じて姿を消す者がいる。だれや彼を呼んでも返事がない」と申されて、家来の去就に絶望的な表情を隠せずガックリ肩を落とされた様子であった。
夫人は、この様子を見ながら
   西を出で東に行きて後の世の宿かしはをとたのむみ仏
と、詠まれて、終夜薬師如来に祈りを捧げて夜明けの訪れにも気付かなかった。国中の東端にある柏尾の大善寺の朝の空気は冷えびえしていたが、桜の花は一行を慰めるかのように咲き乱れ、時折吹き渡る朝風に誘われて、一片、二片と散り初めていた。
 この朝、岩殿城主小山田兵衛尉信茂の一族は、勝頼公に向かって
「一足先に居城岩殿に参り、城の内外を整えた上、お迎えに参りますゆえ、この先の笹子峠の麓までお越しなされてしばらくお待ちください。物情騒然としている折ですから、私に二心のないことの証として、母を預けて行きますのでお世話をお願いします」
と、言って大善寺を出た。勝頼公は、小山田の言うことに一陣の不安を感じたが、その意を容れて先立たせた。
 勝頼公の一行は、旅任度を整えた上、理慶尼の厚いもてなしに心から感謝して大善寺を後に出発したが、心の中では再び会える日を望めない思いに胸が迫り、気も絶え絶えであった。
 理慶尼も同じ思いを胸に秘めて別離の情を断ち切れぬまま、深沢川のほとりまで見送り、一行が見えなくなるまで、涙ながらに合掌してその場に立ち尽くしていた。一行に従う人数のうち昨夜のうちに行方をくらました者が多く、笹子峠の麓に向かう者はわずかに二百たらずとなっていた。その中には女、子どもの姿が多く見え、勝頼公夫人は行き先を思うときいよいよ心細くなって
  行く先も頼みぞうすきいとどしく心よはみか宿りきくから
と、詠まれた。
 横吹あたりまでくると道はいよいよ狭く険しく、石ころだらけの坂道ばかりであるからともすれば一行に遅れる者が多くなったので、勝頼公は満川(日川)の流れを眼下に見下ろす岩角で一まず憩うことにした。平穏の時ならば風光明美の辺りの景色をたたえて和歌の一首ももうすところである。しかし今の勝頼公にはそんな心のゆとりはなかった。折から横吹郷の人々が国主一行の安否を気遣って馳せ集まり、何かと世話をしてくれたのに感激して勝頼公は奉持してきた不動尊を取り出し
「武田の運命はこの先どうなることか計り知れないので、これをそなたたちに托すから後世永く武田の武運と郷民の安泰を祈念されよ」
と、言って、郷人の代表に渡した。それ以来横吹の人々は武田不動尊を奉じて、岩角に祭祀し武田氏一族の冥福と村民の安泰を祈念している(以下略)
 
〔言い伝え〕
*御影岩(行基菩薩、此岩上に於いて末世利生の地ならん事を祈りしに薬師の影向(ようごう 神仏の来臨)あり、故に之になづく)
*加持水(弘法大師ノ加持せし所と云う)閼伽(あか)の井(今没ス)
〔閼伽(あか)

仏教において仏前などに供養される水のことで六種供養のひとつ。功徳水(くどくすい)。

 
*東照宮(徳川家康)の御腰掛石(楼門傍にあり)
*三枝守国の腰掛石(官道傍にあり、また「ニッ石」とも云う。
*三枝松並に先祖の塚以上寺に云い伝わる所也。
 
*五輪石塔一基(長五尺五寸、佐藤三郎兵衛信重上京者の墓也、当寺に牌子もあり士庶部に詳す)
*神変堂(役所者堂也。元禄十三年(1700)土屋相模守建立と伝え云う。
〔土屋相模守〕
土浦藩主土屋数直の長男として生まれ、父の死後に家督を相続する。その後、駿河田中藩を経て土浦藩に復帰する。漸次加増をうけ、最終的に九万五千石となる。奏者番、大坂城代、京都所司代を経て老中に就任、元禄十一年(一六九八年)に老中首座となり四人の将軍に仕えたが、側用人政治を展開していた新井白石と間部詮房には内心反対し、七代将軍徳川家継の後継者争いの際、側用人の廃止を条件として徳川吉宗の擁立に尽力する。吉宗は将軍になると老中達に口頭試問をしたが、なんとか恥を掻かずに済んだのは三問中二問を答えることができた政直のみだったという。
享保四年(一七一九年)、老中を辞任・隠居して四男の陳直に家督を譲り、三年後に八二歳の高齢で亡くなった。隠居後も特に前官礼遇を受けていた。

茶道を嗜み、小堀遠州流の門人の一人でもある。また、元禄赤穂事件の関係者であった従甥の土屋逵直の次男好直を養子に迎えている。



楼門元禄十七申年(宝永元年1704)建、寛政十午年(1798)再建、施主土屋相模守同但馬守棟札あり)

〔土屋但馬守 数直〕

土屋数直(つちやかずなお)は、江戸時代の大名。常陸土浦藩の初代藩主。江戸幕府の若年寄・老中である。

☆慶長一三年(一六〇八年)、上総久留里藩の初代藩主・土屋忠直の次男として生まれる。家督は兄の利直が継承、

☆元和二年(一六一六年)数直は二代将軍徳川秀忠に拝謁し、

☆元和五年(一六一九年)から秀忠の命令で徳川家光に仕えた。

☆元和八年(一六二二年)に家光の近習に任じられる。

☆寛永元年(一六二四年)に五〇〇俵取りに任じられ、一二月二八日に従五位下・大和守に叙任される。

☆寛永五年(一六二八年)に上総に二〇〇石を与えられる。

☆寛永九年(一六三二年)に進物番に任じられ、

☆寛永十年(一六三三年)二月七日常陸で二〇〇石を与えられる。

☆寛永一八年(一六四一年)七月五日に書院番組頭に任じられ、後に駿府城番となる。

☆慶安元年(一六四八年)十月二七日に小姓組番頭に任じられる。☆慶安四年(一六五一年)十一月二十一日に千俵を加増される。

☆承応二年(一六五三年)九月十八日に久世広之・牧野親成と共に四代将軍徳川家綱の側衆に任じられ、

☆明暦二年(一六五六年)一二月二一日二千俵取りに加増される。☆明暦三年(一六五七年)一二月二五日に常陸宍戸で千三百石を加増される。

☆寛文二年(一六六二年)二月に合計一万石を与えられて若年寄に任じられる。

☆寛文四年(一六六四年)六月十三日に五千石を加増され、

☆寛文五年(一六六五年)一二月二十三日に老中に任じられ、他の老中と共に文治政治に取り組むことになる。

☆寛文六年(一六六六年)七月二八日に二万石を加増され、

☆寛文九年(一六六九年)六月二十五日に一万石を加増され、合計四万五千石の大名となる。

☆寛文十年(一六七〇年)十二月二九日に侍従に任官される。

☆寛文十一年(一六七一年)に伊達騒動の当事者達を召喚、審問を行った。

数直は山鹿素行を藩邸に招き、林鵞峰と親交を結ぶなどの文化人でもあった。ただし、老中として江戸に在府することが多かったため、藩政は長男の政直に任せている。

☆延宝七年(一六七九年)四月二日に死去。享年七二。跡を政直が継いだ。


〔土屋但馬守 政直〕

☆1679(延宝7)年、父数直の死により常陸土浦藩主となり、☆1682(天和2)年に駿河田中4万5000石に転じる。その後、大坂城代や京都所司代などを務め、1687(貞享4)年に老中に就任し、土浦に戻される。

将軍徳川綱吉から吉宗まで4代の将軍に仕え、1698(元禄11)年からは老中首座を務め、その在職中には江戸城内での浅野内匠頭の吉良上野介への刃傷事件、赤穂浪士の吉良邸討入り、絵島事件など多くの事件が起こった。なお、1701(元禄14)年3月の内匠頭による刃傷事件の際には月番老中として事件処理を担当したが、内匠頭に即日切腹を命じ吉良を不問に付した綱吉の裁定に不満を持ち、これを綱吉に諫言したところ、綱吉に疎んじられるようになったという。1719(享保4)年に隠居したが、吉宗により隠居後も特別に老中席に連なることを許された。


*〔註〕この土屋相模守などは、武田勝頼の最期に劇的に活躍した武将、土屋惣藏を祖に持つ家系で、武田家では譜代家老衆を勤めた。


天目山の崖道にある片手切りの史跡は有名で、天正十年(一五八二年)、織田の甲斐攻めで家臣団の多くが離反していく中で、昌恒は最後まで武田勝頼に付き従い、勝頼を最後まで守り、最後は討ち死にした。遺児である土屋忠直は徳川家康に召し出され、江戸時代に土屋氏は上総久留里藩の大名となった。




〔三枝家系〕
★三枝丹波守 守綱
1491年〜1564年。石原守種次男。三枝家の名跡を継ぐ。
☆三枝土佐守虎吉
  1511年〜1584年。三枝守綱長男。
☆三枝勘解由左衛門尉守友
  1539年〜1577年、宗四郎。虎吉守綱長男。
☆三枝守吉
  1560年〜1630年。虎吉守友長男。
☆三枝新十郎守直
  1542年〜1561年。虎吉守綱次男。
☆三枝守義
  1545年〜1625年。虎吉守綱3男。
☆三枝昌吉
  1549年〜1624年。虎吉守綱4男。
 

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