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〔甲州ぶどう〕
寺伝では養老二年(七一八年)、行基が甲斐国柏尾山の日川渓谷で修行した時に、夢の中に葡萄(甲州ぶどう)を持った薬師如来が現われ、満願を果たし、葡萄を持った薬師如来像を建立したことが当寺の起源であるとされている。甲州葡萄の始まりは行基が法薬として葡萄の栽培法を村人に教えたことであるともいわれている。本尊の薬師如来像の持物は失われているが、元は右手に葡萄を持っていたという伝承がある(薬師如来像の右手は通常は掌を正面に向ける施無畏印であるが、大善寺の薬師如来像は右手を膝前に垂下している)。
〔日本 葡萄栽培の始まり〕
*中国から渡来し、法薬であるとされた葡萄の栽培を、奈良時代の七一八年(養老二年)僧侶の行基が、山梨県勝沼の村人たちに教えたのが最初で甲州葡萄の始まりとされる説があります。 *平安時代末期の一一八六年(文治二年)、甲斐国勝沼の雨宮勘解由(あめみやかげゆ)が旧暦三月二十七日お祭り参詣の後、山林で見つけ移植し栽培した。また、中国から渡来した実生の木を雨宮勘解由が挿し木で増やし栽培したのが甲州葡萄の始まりとされる説があります。
〔鎌倉時代の再建〕
鎌倉時代には鎌倉幕府が甲斐・信濃国において棟別銭を課して本堂が再建された。戦国時代には天文十九年(一五五〇年)に郡内領主の小山田信有(出羽守)がニ子を連れて参詣を行っている(「大善寺文書」)。天正十年(一五八二年)、織田・徳川連合軍に攻め込まれた武田勝頼が岩殿城(大月市)に向かう時に大善寺に戦勝を祈願したが、郡内領主・小山田信茂の離反にあい、天目山で自決した。この一部始終を目撃した理慶尼が記した武田滅亡記が大善寺に保管されている。
〔楼門〕元禄十七年(一七〇四年)建立
〔本堂(薬師堂)〕
堂内柱の刻銘から弘安九年(一二八六年)に建立されたと見られている。山梨県内で最も古い建物と言われている。
〔鐘楼〕現在の鐘楼は正徳四年(一七一四年)に再興された。以前は寛文八年(一六六八年)の銘が入った鐘があったが、第二次大戦の折に供出され、現在の鐘は昭和五十八年(一九八三年)に再興された。
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〔日本 葡萄栽培の始まり〕
*中国から渡来し、法薬であるとされた葡萄の栽培を、奈良時代の七一八年(養老二年)僧侶の行基が、山梨県勝沼の村人たちに教えたのが最初で甲州葡萄の始まりとされる説があります。 *平安時代末期の一一八六年(文治二年)、甲斐国勝沼の雨宮勘解由(あめみやかげゆ)が旧暦三月二十七日お祭り参詣の後、山林で見つけ移植し栽培した。また、中国から渡来した実生の木を雨宮勘解由が挿し木で増やし栽培したのが甲州葡萄の始まりとされる説があります。
〔鎌倉時代の再建〕
鎌倉時代には鎌倉幕府が甲斐・信濃国において棟別銭を課して本堂が再建された。戦国時代には天文十九年(一五五〇年)に郡内領主の小山田信有(出羽守)がニ子を連れて参詣を行っている(「大善寺文書」)。天正十年(一五八二年)、織田・徳川連合軍に攻め込まれた武田勝頼が岩殿城(大月市)に向かう時に大善寺に戦勝を祈願したが、郡内領主・小山田信茂の離反にあい、天目山で自決した。この一部始終を目撃した理慶尼が記した武田滅亡記が大善寺に保管されている。
〔楼門〕元禄十七年(一七〇四年)建立
〔本堂(薬師堂)〕
堂内柱の刻銘から弘安九年(一二八六年)に建立されたと見られている。山梨県内で最も古い建物と言われている。
〔鐘楼〕現在の鐘楼は正徳四年(一七一四年)に再興された。以前は寛文八年(一六六八年)の銘が入った鐘があったが、第二次大戦の折に供出され、現在の鐘は昭和五十八年(一九八三年)に再興された。
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大善寺 (甲州市) - Wikipedia
文化財 国宝本堂(薬師堂)附、厨子一基
☆寄棟造、檜皮葺。鎌倉時代の本格的密教仏堂。内部の柱に弘安九年(一二八六)の刻銘がある。屋根は寄棟造(正面から見た屋根形が台形を呈する)であるが、大棟(台形の上辺に当たる部分)が極端に短いのが特色である。ただし、この屋根形式は江戸時代の修理によるもので、建築当初からこのような形であったかどうかは定かでない。堂内の厨子は堂よりやや遅れて文和四年(一三五五)の作。
〔重要文化財(国指定)木造薬師如来及び両脇侍像〕
平安初期の作と考えられている薬師三尊像。当寺の本尊として本堂の厨子内に安置され、秘仏である。三像ともに桜材の一木造。中尊の像高八五.四センチメートル。木造十二神将立像薬師三尊像を安置する厨子の両脇に安置される十二神将像。像高一三八―一四五センチメートル。寅神像の胎内に嘉禄三年(一二二七)、大仏師蓮慶が造った旨の銘がある(『山梨県史資料編中世4考古』)。
また、近年の解体修理により、丑神、巳神、酉神、亥神の像内からも嘉禄三年(一二二七年)及び安貞二年(一二二八年)の造像銘が発見された。銘文から、奈良の仏師で山梨県内では福光園寺の吉祥天像の作例がある蓮慶(れんけい)による作であると判明し、甲斐国における慶派仏師の活動を示す資料として注目されている。ただし、十二体の像には作風や構造の違いもみられ、特異な作風をもつ午神像などは作者が異なるともいわれる。
〔木造日光・月光菩薩立像 〕
附:日光菩薩像内納入品(薬師如来印仏(二十五通)一綴(正応五年の記がある)、薬師如来印仏六巻、十一面観音印仏五巻、墨書紙片、紙礫等一括
本尊薬師如来像の両脇侍の日光・月光菩薩像とは別の鎌倉時代の像。
本尊薬師如来像が安置される本堂中央厨子の両脇壇上に安置される。像高は日光菩薩が二四八センチメートル、月光菩薩が二四七センチメートル。日光・月光菩薩像は通常は薬師如来の両脇侍像として安置される。南北朝時代の暦応二年(一三三九年)に記された「大善寺炎上堂宇什物注進状案」(『大善寺文書』)では文永七年(一二七〇年)・建武三年(一三三六年)の火災で焼失した堂宇・宝物が書き上げられ、文永七年の火災で「大善寺新仏丈六」が焼失したとあり、現存する日光・月光菩薩像は、この焼失した丈六仏の両脇侍として造立されたものと推定されている。檜材と思われる針葉樹材の寄木造、漆箔仕上げで、玉眼を嵌入する。主要部は前後左右四材矧ぎ、像内は内刳りを施し、割首とする。両腕と両足先は別材を矧ぐ。像容は慶派の特徴を持ち、一三世紀半ば頃の作製と考えられている。 大善寺では嘉禄二年(一二二六年)頃から鎌倉幕府の支援を得た本堂の再建が行われており、本像も十二神将像とともに再建時に造立された可能性が考えられている。二〇〇七年度に重要文化財に指定され解体修理が行われ、日光菩薩像の胎内には印仏などの像内納入品が確認される。印仏は薬師如来坐像や十一面観音菩薩立像、薬師如来立像などの姿が捺されたもので、発見当初は紐で束ねられた紙束状であった。納入品は日光菩薩像の背面から胸部に鋸挽きが施されて納められていた。確認される文字から正応五年(一二九二年)に「僧顕俊」により発願されたことが確認された。「顕俊」については不明であるが、正応五年の翌年には本堂が落慶しており、難航していた弘安期の復興事業に関係する納入であるとも考えられている。
〔山梨県指定有形文化財木造役行者倚像〕 平成九年六月十九日指定
修験道の祖とされる役行者の像。檜材の寄木造。彫眼。像高は八十三.九センチメートル。老相の修行者として表され、長頭巾を被り法衣に袈裟を付け両肩から藤衣も掛ける。右手には錫杖、左手に経巻を持ち、高下駄を履き椅子に座る。『甲斐国志』に拠れば本像は御坂山上にあり、武田信春が当寺境内の六所明神社に移したという。富士信仰に関係する造立であると考えられている。
〔鰐口〕
昭和三九年十一月十九日指定
鎌倉時代の鰐口。総径四十四.五センチメートル、厚さ十四センチメートル。耳や鋳継ぎ部が若干欠損。表面には三重の圏線を表し、中央に蓮華文の撞座が鋳出されている。外区左右に徳治二年(一三〇七年)の年記があり、山梨県内では富士川町の明王寺に伝来する貞応三年(一二二四年)に継ぐ古い作例。再建本堂に懸架するために制作されたと考えられている。
〔大善寺金銅金具装山伏板笈〕
平成八年一一月七日指定 年記は存在せず、室町期から近世初頭と推定される板笈。総高九十一.五センチメートル。
〔大善寺文書 七十二通〕 昭和四十四年十一月二十日指定
平安時代末期の安元三年(一一七七年)から江戸時代初期の慶長八年(一六〇三年)までの古文書群。大善寺は山梨県内で最も中世文書の残存が多く、安元三年六月日平某下文を最古とし、鎌倉幕府の発給文書や、南北朝・室町期の文書が中心。戦国期の文書は少ない。
〔大善寺中世墓出土陶器〕 平成十九年四月二十六日指定
境内の薬師堂や庫裏、参道付近などで出土した陶器類。いずれも鎌倉時代のもので、古瀬戸瓶子三点(高さ19.0センチメートル-25.3センチメートル)、古瀬戸灰釉四耳壺1点(高さ28.8センチメートル)、古瀬戸鉄釉水滴1点(高さ3.7センチメートル)、常滑小壺一点(高さ20.5センチメートル)、美濃須衛四耳壺一点(高さ20.5センチメートル)。灰釉四耳壺の内部には骨片が確認され、水滴以外の瓶子や壺類は器の一部を故意に打ち欠いており、在地豪族の蔵骨器であると考えられている。
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〔『柏尾山造営記』〕山梨県史資料 十六世紀後半 慶紹 本願弟一乗坊僧都次仙識坊法印慶紹書之畢
*三枝連
☆『日本紀』
顕宗天皇三年(日本書紀・487)夏四月戊辰置福草部姓氏録ニ三枝ノ連、天津彦根命十四世孫建呂巳命之後也、頭宗天皇御世集ニ諸氏賜饗醺于時宮廷有三茎之章献之因賜姓三枝部連云々(延喜式云、福草端草也朱草別名也生 宗廟中云々。和名抄云佐木久佐、又加賀国江沼郡、飛騨国大野都等ニ三枝郷アリ佐以久佐ト訓ス、是福草ノ遺称ナルヘシ)拾芥抄ニ率川社南在社三枝御子也以三枝華・餝・酒樽祭故日三枝ノ祭神祇令ニノセ和歌ニモ詠リ。 ☆『続日本後紀』
承和十一年(844)五月丙由甲斐国山梨郡人伴直富成カ女、年十五嫁 郷人三枝直平麻呂生一男一女而承和四年(837)平麻呂死去也。厥後守節不改、年也四己十四而攀号不止、恒事斎食榜於霊床宛如存日量彼操履堪為節婦考勅宣終身免其 戸田租即標門閭以旌節行トアリ。 ☆『三枝家伝』
三枝家伝ニ守国罪ヲ蒙り甲州東都能路ニ配流セラレ後ニ在庁官人トナリ鎌田氏之女ヲ娶リ四男子ヲ生ム(中略)柏尾寺ヲ建テ氏寺ト為ス長徳四年戊戊(998)九月十九日卒年百六十ト見エタレハ其生誕ハ承和六年(839)ニ当レリ。然レハ彼ノ配流以前ヨリ本州ニハ三枝直ヒ者アリシ事明ナリ。是即チ三枝部ノ祖ナルヘシ。
☆『長寛勘文』
長寛勘文ニ甲斐守藤原朝臣忠重、目代右馬允中原清弘在庁官人三枝守政絞刑ニ処スト見エタレハ、斯ル時ニ三枝ノ本家断絶ニ及ビシカ後ノ記載ニ顕レタル者ナシ。柏尾山所蔵正安三年(1301)上マキ用途勧進ノ記ニ三枝吉家、三枝正家アレト其人へ審ナラス。信虎ノ時石原丹波守ニ命シテ旧祀ヲ秦ジ三枝姓ヲ輿サシム事ハ将師部ニ委シ。
三枝系図ニ所記守国五男子アリ(兄弟ノ行次ハ異説アリテ不分明)
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