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長寛勘文―国衙と荘園
『図説 山梨県の歴史』 責任発行者 磯貝正義氏 河出書房新社
荘園は不輸不入の特権を得て国家の支配を脱却しようとするが、それは国家財政にとって大きな脅威となるので、政府は延喜二年(九
〇二)以来しばしば荘園整理令を出して新立荘園の整理を試みた。そのため政府の出先機関である国衙(国司)と荘園領主との間に、荘園の存続・停廃をめぐって激しい抗争が展開されることもあった。
当国八代荘をめぐる国司と紀州熊野神社との紛争は、その最も著しい例であり、事件の経緯は当時の裁判記録『長寛勘文』(『群書類従』雑部所収)に詳しい。
応保二年(一一六二)春、甲斐守に任ぜられた藤原忠重は、当時の慣例に従い、自らは京都に留まり、右馬允中原清弘を目代として派
遣し、荘園の取り締まりなどの国務を代行させた。ときに甲斐国衙には在庁宮人三枝守政らがいて実務を執っていた。
ところが同年一〇月六日、清弘・守政らは軍兵を率いて熊野神社の社領八代荘に侵入し、ほしいままにこれを停廃し、四至の膀示々扱き棄て、年貢を奪い取り、在家を追捕し、神人を搦め取ってその口を八割きにするなど乱暴・狼籍を働いた。八代荘はいまの東八代郡八代町にあった荘園で、熊野側の主張によれば、久安年間(一一四五ー五)、藤原顕時が甲斐守在任中、熊野本宮で毎年一一月に行われる法華八講の用途に充てるため寄進し、鳥羽院庁の下文によって公認された社領であり、その後付近の長江・安多も加納荘として同院庁によって公租の免除を受けたというのである。
もちろん熊野側は黙っておらず、一二月には朝廷に提訴した。朝廷は検非違使庁をして、忠重、ついで下手人の清弘・守政らを喚問糾弾させた。清弘らはほぼ罪状を認めたが、ただ八代荘停廃は命じていないという国守忠重の主張に対し、停廃の指令を受けていたとまったく正反対の陳述をした。
結局、忠重以下は有罪ということになり、大判事兼明法博士中原業倫(なりみち)に勅命を下し、所当の罪状を勘申させた。業倫は長寛元年(一一六三)四月七日付で勘文(朝廷からの下問に対し、
先例・故実などを調べて上申する文書)を奉ったが、その内容は、熊野神社は伊勢神宮と同体で大社であり、その大社の神物を盗んだこと、院庁の下文は詔勅と異ならないのにそれを無視したこと、この二つの理由で忠重以下は絞刑に該当するという、原告側さえ予想しなかったであろうきびしいものであった。
しかし伊勢・熊野同体説は、熊野信仰が盛んになり、皇室の崇敬が厚くなると一部に唱えられたが、牽強附合で説得力に乏しく、翌長寛二年に太政大臣藤原伊通(これみち)大学助教清原頼業らが非同体説を唱えると、非同体説がにわかに有力となった。また院庁の下文は詔勅に異ならないという説は、院政政権の権威の確立に努めつつあった後白河上皇の意図に迎合したもので、論理的にはやはり無理な主張であった。
この事件の結末がどうなったかは明らかでない。しかし伊勢・熊野非同体説が有力になった以上、業倫の勘申がそのまま採用されたとは考えられない。恐らく国守忠重の流罪、目代清弘・在庁宮人守政らの禁獄程度で事件は落着したであろう。
それにしても国の出先機関である国衙が荘園の本所に敗れ去った意義は大きい。また在庁官人として国街権力と結びつくことによって勢力を維持してきた甲斐の古代豪族三枝氏も、この事件を契機に勢威を失い、新興の甲斐源氏にその地位を譲ることとなった。
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長寛勘文と三枝氏
上野晴朗氏著『甲州風土記』より
これはさしも強大であった律令制が崩壊の危機に瀕し、国司庁が御坂町の国衙に移って、細々と政治が行なわれていたころの物語である。
律令制の崩壊は、当然荘園領の規模の拡大という形で進行し、荘民の蜂起さえあちこちで見られるような時代のことである。そのため荘園の整理令もしばしば行なわれ、ようやく荘園が政治的にも社会的にも問題にされるようになってきていた。
初期荘園は天皇(皇室料)に代る貴族や社寺が、直接土地家庭を所有する形であったが、だんだんに遠隔地の間接的支配を行なうようになり、そのために全国的に荘園発生を見るにいたった。これらの土地には荘官を置いて管理させ、貴族や社寺は本家または領家として、領地の得分の一部を収納する形を踏んでいる。源義光の子義清がこうした貴族に仕え八代郡青島荘の下司職として都から派遣されて甲斐国に赴任してきたのも、この荘園の管理者としての形を伝えているのである。(この項の内容は間違い)
青島荘は広瀬広一氏の発見であるが、長講堂御領目録に「甲斐国青島庄 年貢白布三百段 帷布二十段」と見えるから、後白河天皇領掌の荘園を、のちの長講堂に付与した荘園であった。
甲斐国の場合は、往時皇室料をふくめて荘園はその数四十余あり、鎌倉時代初頭甲斐源氏によって占有された主だった古荘園をあげてみると次のようである。
山梨郡 牧・八幡・加納・塩部・一条
八代郡 八代・石禾・浅利・市川・青島
巨摩郡 多摩・熱那・大八幡・大井・奈胡・稲積・布施・加賀美・甘利
都留郡 古郡・波加刺
そして注意すべきは、これらの荘園の分布状態が、さすがに国衙周辺の公領である一宮・御坂方面にないことは、その勢力範囲を知ることができる。また時代が進むに従って、社寺領の中でもとくに甲斐国の内に早くから勧請または奉斎されていた権力のある神社、仏閣が、それぞれに荘園確保に動いている実態も見のがしてはならず、そうした転換期にいろいろなトラブルが持ち上がっているのである。
〔長寛勘文〕
長寛勘文とは、そうした荘園の紛争がつづられた、全国的にも珍らしい資料で、東八代都八代町の熊野神社にまつわるものである。勘文とは朝廷にて罪をしらべたその意見裁決状のことである。
その内容というのは、二条天皇の長寛元年(一一六三)四月七日に、甲斐国司の藤原忠重、日代中原清弘、在庁宮人の三枝守政の三人が絞刑に処せられた事件である。
「勘申甲斐守藤原朝臣忠重、并目代右馬允中原清弘、在庁官人三枝守政等罪名事」
とこの時の冒頭の申告文は、なんともいかめしい言葉で始まっている。
内容を追ってみると、訴人は熊野神社の所司等で、熊野領の字八代荘園をめぐる複雑な事件である。
問題となった八代荘は、近衛天皇の久安年中に大宰師で当時甲斐守であった藤原顕時が、信仰からその私領を朝廷の承認を得て熊野領として寄進したもので、その結果当時熊野別当湛快は、甲斐国司と協議の上、膀示を立てて社領明確にした。そのため鳥羽上皇の御下文があり、永く国司の妨を停止すべきの宣旨をもつ特別由緒のある荘園であった。
ところが訴えられた甲斐守藤原忠重は、それから十四、五年のち、甲斐守に任命されてくると、この熊野社領として由緒のある八代荘に目をつけ、その禁制の膀示杭を抜き捨てて、年貢を奪い、荘民を搦め取り、さらに神官の口を八つ割きにしたというもので、とくに鳥羽上皇の宣旨をないがしろにしたその罪は不敬罪として軽からずというわけで、ついに三人とも絞刑に処せられたというわけである。
ところでその裏に流れているものを注意してみると、前記のように荘園整理の実態がからんでいるのであって、その実権は国司にまかされていたから、国司はときに一方的な決断で由緒のある荘園でも整理(停廃)を行なうという行動にでたのである。
これは公式的には公領をふやそうとするものであり、そこには国司と荘園領主との力の対決がしばしば見られたのも当然である。また正当と認定された荘園は、国司と領主が立合って四方の境界に 膀示を立て、その区域を明確にする方法がとられたが、長寛勘文の事件は白河、鳥羽両院の御一文があるのに、荘園整理令の手続きもせずに勝手に没収してしまったところに問題があったのである。なお竹内理三氏によれは、この長寛の勘申が注目されるのは、院庁の命令が絶対優先するということで、在位の天皇はただ位にあるというだけで、院宣、庁下文が重んぜられていることは甚だ重大だと見ているのである。
このように幸運にも、甲斐国にとって資料の少ない荘園関係文書の中で、国司の動き、それにつながる目代在庁官人の警、院宣、庁下文の効力など、さまざまな歴史上の問題点を投げかけてくれた長寛勘文が残されたとは有難いことであった。
また事件の結末は、国司側の惨敗に終ったが、これは甲斐国内の一般に与えた影響が大きく、荘園の存立がいよいよ確固たる地歩を占めた一例といえよう。
そして処刑者の一人に在庁官人の三枝守政が一枚加わっていることは、甲斐国にとってとくに注目される内容である。三枝守政は三枝系図では宗家を継いでおり、守政の処刑によって甲斐国内に覇をとなえた名族三枝の宗家は断絶したものと思われるが、このことも甲斐一円に散っていた三枝一族に甚大な影響をあたえたことであろう。
こうして律令政治の崩壊は、いよいよ混乱な世層を生み出し、・権門の争い、寺門の争い、社家の争いなど、一般庶民の苦しみをよそにますます混乱の度が増していくのであった。
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