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白州 武川 歴史紀行 真実を求めて

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茅点景(茅ケ岳)太宰治の死
多田莞氏著(『中央線』1968 中央線社 掲載 一部加筆)

茅に金峰に秋たちて里に流るる七草よ

子供のころこんな歌を聞いたことがある。しかしこれ以外に茅が歌われていることを聞いたことがない。名画や名文の中に茅のいることを知らない。
茅ケ岳、一七六四メートル。古い休火山である。竈二重火山で外輪山の火口壁は破壊せられ、芽ケ岳とその北方の金ケ岳は旧火口を破ってできた新しい火山と聞く。新火山といっても、もちろん富士や八ツとは比較にならないずっと昔にできあがっているのだ。あの謙虚な稜線がいい。それにあの裾野、悠然とした傾斜に従って南に登美の高地をつくり、北は浅尾の広野をつくって八ツの裾野に連接している。あの規模は茅ケ岳だけのものだ。大きいのだ。古いのだ。大家である。老成しているのだ。だがちょっと誤れば、老獪(かい)、老醜のそしりを免れなくなりそうだが、そんな危険には無頓着で、おのれの天分とおのれの運命を信じきって、追随せず、妥協せず厳然としているのがいい。
孤高である。いや孤高というには低すぎるか。とにかく孤独。毅然とした孤独。ひとりでよくやっているなあというあの感じ、そんなものが茅の個性なのだ。
小学六年生の秋、ぼくは修学旅行に旅立った。熟田神宮にお参りし、名古屋城を眺め、翌日二見浦の日の出を拝んでから内宮に参拝するというコースで、ぼくにとって修学旅行と名のつく、最初の旅行であると同時に最後の旅行でもあった。日本が戦勝気分に酔っていた時代である。
早朝の韮崎駅。汽車は媒煙を吐き吐き七里岩をのぼる。俯瞮すると駅広場。人がいる。見送り人がいる。車窓の少年たちは喚声をあげ手を振る。ぼくも手を振った。だがぼくを見送ってくれる人はいない。母親という贅沢な存在は失われていたのである。しかたなくぼくは手だけそのままにして、視線を移した。その視線の中に茅(茅ケ岳)がいた。そう、まさにいたという感じー寝冷えしないよう、腹をこわさないよう、新調した帽子を飛ばさないよう、そう言っている慈母の姿だった。だがぼくはすねた。泣いた。しかし茅はどう見ても慈母の姿などというロマソチツクな存在ではない。山の中のすねものだ。ぼくのすねた心はあの時茅から移植されたのかもしれない。當士に見おろされているからいけないのだ。にせ八ツなどと軽蔑されているからいけないのだ。だが茅がいかに山の中のすねものだろうと、けっして下品でないからいい。冷厳なまでの気品、風格、
そんなものを備えている。
昭和二十三年六月十五日、ぼくは玉幡の釜無川原の木陰に寝そべって、遠くに霞む小さい茅ケ岳を眺めていた。そして茅のあの諦めきつた表情は辟易だ。茅のあの老成した風貌はやりきれない。もつと酷しいもの、もつと峻厳なもの、死と対峙した冷酷なものが欲しい。そんなことを考えながら、少年らしい深刻な表情をつくっていたのである。それというのも、朝教室へはいったとたん眼にはいった黒板の落書きが大きな心の衝撃になっていたのである。

太宰治死す

戦後特異な作風をもって将来を嘱望されていた人気作家太宰治は、十四日未明、山崎富栄と連れだって玉川上水に入水情死せり。
辞世の詠、
池水は濁りににごり藤波の影もうつらず南降り続く。

誰かが新聞記事を披き書きしたものである。もちろん辞世の詠というのは自作ではなく、伊藤左千夫の作で、短冊にして伊馬春部に贈ったものだが、こんな文句が達筆で大書されていたのは大きな驚きだった。驚きというのは太宰治の情死ということばかりでなくこの新聞記事をいち早く読み取って「嘱望」だの「惜死」などというぼくのよく知らない熟語を書き慣れた筆致で書いている級友がいるということであった。
ぼくは興奮した。熱力学の講義が始まってからも、その跡を喰い入るように見つめていた。もちろん講義は耳にはいらない。ぼくはそっと教室を抜け出て来たのであつた。山梨工専が玉幡の飛行場跡の兵舎を使っていたころである。
太宰治という作家はぼくの記憶の底にあった。それより一月ほど前古本屋で求めた「展望」の前年二月号に「ヴィヨソの妻」というのがあって、漫然と眼を走らせていたが、読み終わってガクソと一撃をくらった。それは人生の深淵を覗いたような、大げさに言えば少年の人生観を根底からくつがえすような打撃であった。小説というのはリリシズムかロマンチシズムの上塗りにしかすぎないというようにしか思っていなかった十八歳の少年にとっては、それは魅力というよりは蠱惑的で倫理を越えた人間の美というようなものを感じたのだった。
あの作者が自殺する。やっぱりなあーだが情死とは句を意味するのだろう。そして実生活と小説との連りはどうなっているのだろう。ぼくはまじめに考えたのである。あの時の茅は忘れられない。けっして俗流に妥協せず、不遜なまでの矜持をもって聲えていた。
太宰治なんてわからない。だが人問にとって死と直面するような、何か魂を凝結させるような緊迫したものがあってもいいではないか。人類のためだの社会のためだのと大げさなことは言わない。ただ十八歳の少年の小さな魂を燃焼させるもの、そいつが欲しい。そう思って茅ケ岳を見ると、芽は淡雲に包まれて、冷淡に暖昧な微笑をもって見おろしていた。あの冷淡さ、あの無関心、あの茅はすばらしかった。
それから何年か経ってぼくは東京の病院にいた。大手術をしたのである。文学的想像力と実感とははたしてどの程度の距離があるものかと、その手術に触れた文学書を読みあさり、自分でも、もし助かった場合、自分の想像がどの程度正鵠を得たものになるか、というような意味で、術後の苦痛と生活とをあらかじめ書き綴っておいたのであるが、事実は想像の及ぶところではなかった。いかなる文学もいかなる想像も、けっして実感を的確に表現するものでないことを知ったのである。
ぼくは迷った。人生というのはこれほどの苦痛をためてもなおかつ生きるに価するものなのだろうか。そして文学はその人生のどこに位置するものだろうか、と。
そんなくだらないことを考えているある日、甲府の友人から駒ケ岳と茅ケ岳の二葉の写真が届いた。ぼくは嬉かった。すぐ病室の壁にはってもらった。いずれも早春のもので、駒には険しい雪が、茅には暖い雪が光っていた。かねがねぼくは雪の茅は気にいらなかった。あれは俗である。人まねである。みっともないと思っていた。だがその写真の茅は違っていた。等高線と平行して潔癖なまでの一線を画し、その上が雪。夕陽を反射しているのである。ぼくはやっぱり生きようと思った。
その日の夕方、主治医とは違う当番医が回診に見えた。
「ほほう、これは甲斐駒だね。ぼくも二回登ったことがある。フィアンセとね。全くすばらしかった。こちらはどこの山かね。裾野は小諸から見た浅間山麓に似ているが。」
ぼくはその日からその医師を軽蔑することにした。駒ケ岳に二度登った人が、どうして茅ケ岳の存在を認めないのだろう。爾来、いい山と見れば登りたくなり、いい女と見ればものにしたくなる男とはつきあわないことを決心した。
いい山でたくてもいい。いい男でなくてもいい。とにかくおのれの位置に不動の根を張り、高潔に生きるのが人の生活というものだ。ぼくはいまだに茅に登っていない。

太宰治 山梨県関係サイト
http://search.yahoo.co.jp/search?p=%E5%A4%AA%E5%AE%B0%E6%B2%BB%E3%80%80%E5%B1%B1%E6%A2%A8%E7%9C%8C&aq=-1&oq=&ei=UTF-8&fr=top_ga1_sa&x=wrt

 

山映の女 詩人竹内てるよと山梨県大月市
中込友美氏著(『中央線』1968 中央線社 掲載 一部加筆)

 詩人竹内てるよがどうして山梨の山狭に住みつくようになったのか、ぼくは知らない。「松本へ疎開するつもりで新宿を発ったんですよ。そしたらここまできて空襲で汽車はストツプ。それから荷物をかかえてうろついて、一時の宿を借りた。そのままここに住みついてもう何年になるでしよう」
彼女はくったくもなくそう言って笑った。
 偶然はそうであったかも知れない。しかしもう二十数年も、あの山里に詩人竹内てるよを住みつかせているものは、決してそんな単純なものではないだろう。
 もう数年もまえのことになるが、ぼくは竹内てるよを訪ねることを主な目的にして、同じ晩秋のころ二年ほどつづけて中央線鳥沢周辺の山歩きをしたことがある。鳥沢駅でおりて街道を西の方へしばらく行き線路を南に横切って、畑の中の路を歩いてゆくと、農作業や山仕事で通行もかなり多いとみえて頑丈な桂川の吊り橋がある。吊り橋を渡りきったところで磧におりる。碧い澄みきった流れの指のしびれるような冷たさ。あたりのしんしんとしたしずかさの中で礫と白い砂のうえに坐していると都市生活のねばねばした汗もすっかり洗われる。そこから竹内さんの住む山添いの部落の方へ上っていく。小学校の分校と小さい寺院と一軒のよろず屋のある小さい部落だが石ころの多い村道がうねってつづき、家々の庭には赤く熟れた実をたくさんつけた柿の木が多い。よろず屋のわきを奥へ入ったところに、門塀の傾いた竹内さんの住む古い家があった。がらんと広い農家づくりで農繁期の時だけ持主の人がそこに泊まったり、庭も土間も農作業につかうのだという。
 はじめに訪ねたときはそこに竹内さんの生活のことを何かとめんどうをみているKさんが待っていてくれて、ぼくと連れとを近くの仙人山に案内してくれた。それは登りに一時間はたっぷりかかる眺望のいい山で、頂上にはこんどの戦争で一人息子を失ったという老人がひとりで住んでいた。山の上に苺をたくさん植えて登ってくる人たちに食べさせたり、話しこむ人があれば小舎に泊めたりという生活をしていた。一人息子を失ったのが動機で、どうしてこんな生活に入ったかという話を長々ときいたが、どうム俗っぽい印象の仙人だった。
翌年の秋、鳥沢の山峡に竹内てるよさんを訪ねたときは妻とその友人の女性と三人連れだった。このときは竹内さんのところでゆっくりするのがかなりの目的で、昼食のためのすき焼用の肉や野菜や米まで持ちこんだ。来訪者たちが縁側で七厘に炭火を起こしたり、米を磨いだりするのを竹内さんは、
「きようは私はお客さんになりましよう」と言って、笑いながら眺めていた。
畳は古ぼけて傷んで襖は破けているが、その家は幾間かあってかなり広い。
 北海道の辺地で生まれ、二十歳の頃結婚をするが病弱で、ひとりの息子をおいて婚家を去る。東京へ出て長い闘病生活。そうした苦しい生活の中で、「静かなる愛」や「生命の歌」などのすぐれた詩集を出す。戦後長い間探していた息子に再会するが、息子は不良化していて心は通わない。ようやく懐ろにもどった息子は間もなく死ぬ。
 竹内てるよさんの様子から、そうした不遇や苦労のかげりはまるでみえない。底抜けに明るくて、いつもにこにこ笑っている。「私は山姥ですよ」というが、私には山峡の女神という印象しかのこらない。
竹内さんは鳥沢の山暮らしの生活に入ってからも、いのちを鼓舞するたくさんの詩をかきつづけ、その他の作品も多く世におくっている。竹内てるよを慕いよる人々を中心とした雑誌も出しつづけている。竹内さんはぼくらが訪ねた間もなくのあと、またまた大病をしてその病後は、もとの不自由な部落の生活にはもどれず、大月市の方に転居しているようだ。
二度目に竹内さんを訪ねたときは、そのあとは鳥沢の町の方にもどり、知人の家に寄り、猟銃を下げたそこの主人に案内されて、減多に人の通らない間道から峠を越えて梁川駅の方へ下りた。その山道の紅葉の美しさと空の深さをいまも忘.れない。
 ぼくの手許に一冊だけある二十数年まえの竹内てるよの小さい詩集に、

病が五つあるとも七つあるともどの一つもが不治なりとも死んではならないときに死ぬまい生きたるは一つの責務正しく死せむための一つの証(あかし)また、詩こそ私の生活の行路である。

 などということばがみえる。
 ぼくは詳人竹内てるよを二度も中央線鳥沢の山峡に訪ねた。しかし、まだその二十余年の「山ぐらしの秘密」を解いていない。(昭和四三・四月)

http://search.yahoo.co.jp/search?p=%E7%AB%B9%E5%86%85%E3%81%A6%E3%82%8B%E3%82%88&search.x=1&fr=top_ga1_sa&tid=top_ga1_sa&ei=UTF-8&aq=&oq=

山梨県関係サイト
http://search.yahoo.co.jp/search?p=%E7%AB%B9%E5%86%85%E3%81%A6%E3%82%8B%E3%82%88%E3%80%80%E5%B1%B1%E6%A2%A8%E7%9C%8C&aq=-1&oq=&ei=UTF-8&fr=top_ga1_sa&x=wrt

山梨県ゆかりの人 内田一郎(富士吉田住)

『中部文学』の周辺()(『中部文学』承前 昭和46年 第6号 甲陽書房発行 一瀬稔氏著)
 
承前
内田一郎君は終戦直後、単身河口湖畔の知人をたよって、富士五合目で炭焼きをしていたことがある。約一カ年半ほど続いたろうか?そのあとその知人の紹介で、当時、富土ビューホテルを接収していたアメリカの赤十字の属託になって画を描く仕事にありついた。それで、それまで親戚の世話になっていた妻子を呼び寄せて、一緒に暮らすことになった。これは彼の生活力のたくましさを語るほんの一例に過ぎない。
内田一郎といえばすぐ酒を連想する。それほど彼と酒とのつき合いは深く、酒席ではいつもにぎやかな存在で、酒興いたれば、いつもヨカチンと、カッパ踊りを披露におよぶ。彼にはカッバ画伯というニックネームがある。脳天が河童の皿のようにポッカリ禿げていて、そんな彼が手ぶり足ぶり「河太郎」を踊るおどりの振りが、いかにもほんものの河童然としているところからいみじくも名づけられたネームである。
彼についての珍談はいろいろあるが、とにかく、ぼくらの仲間ではいいちばんの人気者で、酒席にはなくてはならない存在でもある。
昭和十五年十一月発行の『中部文学』第三集から同人として詩人の鈴木久夫、村上芳雄君の弟の村上敏雄、川端有彦、準同人に中川彰平、望月由美、斎藤孝の六名が参加した。
この第三集の創作欄には、中村鬼十郎、柳沢八十一、石原文雄、山内一史等の作品五篇と、詩は中川彰平の「墨を吐く」という題の短詩七、八篇が載っている。

宇野浩二氏『中部文学』の周辺()

(『中部文学』承前 昭和46年 第6号 甲陽書房発行 一瀬稔氏著)

 
宇野浩二が甲府へ見えたのは、昭和十六年だったか、その翌年だったか記憶がさだかでないが、これは熊王君に聞けばはっきりすると思う。
すでに第九章で書いたように、熊王君の『いろは加留多』が第一回の「文芸推薦」の候補作に選ばれたのは、宇野さんが極力この作品を推したからである。熊王君はそれから度々上京しては宇野さんを訪ねていたようだ。彼は手野さんが甘党だと知って(もちろん宇野さんから頼まれたのだろうが)、上京の折など時々闇の秒糖を見つけては届けていたようである。
そんな関係で、熊王君が石原さんや山内君らに話を持ちかけて、宇野さんを甲府へ招くことにしたのではないかと思う。もう三十年も前のことだからたいがいのことは忘れてしまったが、何でも裏春日の「専次郎」という飲み屋へ案内し、宇野さんをぼくら仲間の五六人が囲んで、一杯やりながら話し合ったことだけを奇妙にはっきりとおぼえている。そのとき集まったのは、石原、山内、熊王、目井、内田、村上といったメンバーではなかったかと思う。
はじめてお目にかかった宇野さんの風貌は、鶴のような、といった形容がふさわしい白哲で、痩身長軀、芥川が俳句にうたった長いもみあげなどが、特に印象的だった。たしか、皆んなで駅まで出迎え、それから宇野さんをとり囲むようにして裏春日まで歩いていった。その途々、宇野さんは熊王君と肩を並べながら低い声で何かしきりにしゃべりつづけていたようだった。宇野さんははじめて降りた甲府の街の様子など眼もくれないで、その飲み屋へ辿りつくまでご自分の話に夢中だった。恐らく文学に関する話だったと思う。
当時、流石に《文学の鬼》といわれた作家だけのことはある。と、ぼくは内心ひどく感服したものだった。その夜の宿は、同人の赤池東山氏がマネージャーをしていた湯村の昇仙閣に決めてあったが、ひとまず、ふだんぼくらの行きつけの「専次郎」へ落ちつくことにした。
宇野さんは酒は一滴も口にしないので、ジュースか何か飲んでおられて、ぼくたちだけが勝手に酒を酌みながら宇野さんの話を拝聴していた。飲めない宇野さんの前でぼくらだけ酒をやるのは失礼だと思ったが、字野さんは少しも意に介せず、いかにも話すのがたのしいといった感じで、卓に両肘をつき、痩せた両肩をすぼめるような恰好で、熱心に文学談をつづけられるのだった。その時の話の内容は何もおぼえていないが、ほとんど文壇の裏話めいたものだったようである。その時ぼくが詩人だと細介されたので、ぼくを相手に詩壇のことやら、詩についてもいろいろ話された。それでぼくははじめて、宇野さんが詩にかなりの関心を持っておられること、そして、明治から昭和にかけての一応定評のある詩人の作品は、あまさず読んでおられることなどを知って、その薀蓄の深いのにひそかにおどろいたのである。
そんな話のきっかけから、字野さんはぼくに向かって、「ぼくの知っているのが○○という文芸雑誌をやっているので、あなたの作品をその雑誌へ紹介してあげましょう。」と言われた。ふいにそんなことを言われたので、ぼくは内心ちょっととまどったが、折角のチャンスと思い、そのご好意に甘えることにした。それから間もなく、一篇の詩を宇野さん宛送った。ニケ月ほど経って、ぼくのその作品が載った雑誌が手元に届いたが、初対面のぼくに対して、いきなり作品を紹介しようと言われた宇野さんのその時の、ご温情は、今でも身にしみてありがたく思っている。その文芸誌の名前は何といったか、いま全然記憶にのこっていない。
そのあと、熊王君とほかに二、三人が宇野さんのお伴をして昇仙閣へ行ったのをおぼえているが、その晩一泊して、翌日宇野さんは帰京された。
宇野さんは昭和三十六年に逝くなられたが、逝くなる四、五年前にもう一度甲府を訪れている。何でも信州へ来られての帰り途、同行の人たちと別れたあと、お一人だけで甲府へ下車されたということだった。熊王君とは前もって手筈がついていたらしかった。急に彼からの連絡で、ぼくたちは仲間の者四、五人で、宇野さんを迎えに甲府駅へ出向いた。
その時の宇野さんは、前にお会いした時から見ると、すっかり老けられた様子で、あの長いもみあげもまっ白にたり、何かいたいたしいほど、顔や姿に憔悴のいろがあらわれていた。それでも、つぼの広い黒のソフトを被り、背広の上にやはり黒のマント(或はオーバーだったかも知れない)のようなものを着て、細身のステッキをついた姿は、昔と変らないダンデイな感じだった。
ぼくたちは駅前から二台のタクシーに分乗して、湯村の昇仙閣へ向かった。その夜、昇仙閣の一室で、宇野さんを正面に、ぼくたち仲間の者がテーブルを囲んで撮ったスナップ写真が、今でもどこかにしまってあるが、宇野さんは昔と変らず、文学や美術について熱心にいろいろとしゃべられた。
ただ以前と変ったのは、低い声が一層低くなり、話しながら何となく息ぎれがしそうな感じだった。ぼくの記憶に問違いがなかったら、いま手元に著書がないのではっきりしないが、熊王君が宇野さんの紹介で、講談杜から『無名作家の手記』を出したころではなかったかと思う。そのとき集まった顔ぶれは、ぼくのほかに、熊王徳平、赤池東山、萩原慶助、内田一郎、小木町圭子、古志地恵子の諸君だったように思う。

石原文雄氏(市川大門町出身)昭和十六年度上半期の芥川賞候補
『中部文学』の周辺()(『中部文学』承前 昭和46年 第6号 

甲陽書房発行 (一瀬稔氏著)

『中都文学』第五集には、石原文雄氏の短篇『断崖の村』が載っている。この作品は、昭和十六年度上半期の芥川賞候補に推薦された。
これは選考委員の滝井孝作氏が極力支持したのだが、その時の受賞作は横光門下の多田裕計の「長江デルタ」に決まった。
 この「断崖の村」は、「短冊型の空だけが妙に明るい谷底」の川を挾んだ、「石垣で段々を作り、辛うじて急坂に張りついている」戸数にしてわずか二十軒足らずの、貧しい山村に起きた火災という異常事態をテーマにした作品である。
これは終戦直後の昭和二十一年の七月に、同じ題名で、他に『新潮』『制作』『中部文学』等に発表した作品八篇を加えて単行本にし、中川一政の装幀で、豊橋の高須書房から出版された。いわゆる一連の山村ものである。
石原さんは市川大門町で生まれたが、石原さんの祖父は上九一色村の出身で、奥さんもやはり同じ土地の生まれである。石原さんと奥さんはいとこ同志だということである。
 九一色というのは上と下とがあり、石原さんの住んでいる市川大門から十キロほど芦川の渓谷を東へ遡ったところの山村で、そこから一山越えると、富士五湖の一つである精進湖へ出られるが、交通の便は極めて悪いようだ。
その九一色村というのは、「歩く時間の方が多い遠さに」にある山畑で、麦や養蚕の桑を作り、朝がた暗いうちに、炭や薪を馬の背や背負子に結えて、十キロ余もある盆地の町や村へ売りに行くことによって、日々の生計がいとなまれている戸数わずか二十戸あまりの寒村である。
石原さんはそのころ時々泊まりがけで、(当時バスの便はなかったので)てくてくと歩いて上九一色の親戚へ出かけていったようだ。もちろん何軒かの親類とのお附き合いがあって行くわけだろうが、作家である石原さんにとっては、その土地の人たちにじかに触れることによって、学ぶべきものがいろいろあったことは事実である。
 農民作家として出発した石原さんの目が、その峡谷の村に向いていったことは自然であるし、もともとその土地出身の先々代から受けついだ農民の血が、石原さんの体内に流れていたこともたしかだと思う。
 石原さんの作品の世界に登場する人物は、石原さんがその土地で小さい時から身近に接している人たちばかりで、わずか二十戸そこそこの村人は、殆どその一人ひとりが親類同志みたいに親しく膝を交えて話し合える間柄だったろうと思う。町で宿屋稼業をしている石原さんが、あれだけ克明に山村の人々や、その生活の実態を描くことが出来たのは、主としてそうした谷問の村とのふだんのふれ合いがあったればこそだと思う。
 石原さんはそれより前、昭和十三年四月号の『新潮』に、「山村の人序」という短篇を発表している。その号は《新人創作号》という特集で、石原さんはその時はじめて、新人として晴れの舞台へ紹介されたわけである。たしか、石原さんが四十歳ぐらいの年齢だったと思う。新人として世に出るにはいささか晩い感じがないでもなかったが、石原さんがこの文章のはじめに紹介した『農民』という雑誌に作品を書きはじめてから、すでに十年余りの才月が経っている。文字通り十年一日のような努力を、地味な農民小説の創作に捧げてきたその執念が漸く酬われたわけである。
 石原文雄氏の『太陽樹』が出版されたのは昭和十六年の八月だった。これは石原さんがはじめて手がけた六百枚に及ぶ書きおろし長篇で、加藤武雄の序文、中川一政の装偵で東京の文昭社から刊行された。
この作品は、市川の隣村の上野本村(現在は三珠町)に在住し、明治の中葉に青年期を過ごしたクリスチャンであり、徳富蘆花とも親交のあった(『みみずのたはごと』の中に出てくる赤沢という人物)一個の聖者として生涯をおくった丹沢正作翁をモデルにした伝記風の小説である。資本主義全盛期、つまり物質万能、実利主義本位の明治という時代を、いろんな困難や障害と闘いながら只ひたむきに真実の生活を求めて、信仰と信念に生きた、貧しい非凡な一百姓の苦悩の半生を描いた長篇小説である。
 石原さんはこの小説にとりかかるまで、相当永い準傭期間を要した。翁とは生前面識があり、死後、翁を何十年問というもの克明に日記やノートをつけていたので、それをたんねんに調べ、また翁と関係のあった人たちの話など聞いたりしてじっくり構想をねっていたようである。そのころ石原さんは会うとよく、この作品はぼくのライフ・ワークだと云っていたが、それほど石原さんはこの伝記の完成を畢生の念願とし、心魂を打ちこんでいた。
この『太陽樹』は、昭和十六年度の「新潮賞」の有力候補作になった。はからずもこの長篇が石原さんの出世作となったわけだが、それまで農民作家、郷土作家として土臭い農村小説を書いてきた石原さんがこうした小説に手を染めたことはたしかにめずらしい。だがこれは石原さんのその後に書いた『現代の河』『青春の笛』『影と影』等に見られる特質ともいうべきものであって、鑓田研一氏も指摘しているように、つまり作者の性格や持ち味がいわゆる農民小説のカテゴリーにおさまるほど狭くはない、その土臭さが必ずしもこの作家のホーム・グランドではないということである。
(
付記この原稿を書き了えたあと、熊王着が来宅、その時の話だと、宇野さんは昭和十九年にも来甲されたとのことだが、ぼくの記憶にないところをみると、ぼくは会っていなかったのかも知れない。で、戦後の入峡は第三回目になるわけである)

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