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茅点景(茅ケ岳)太宰治の死 |

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茅点景(茅ケ岳)太宰治の死 |
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山映の女 詩人竹内てるよと山梨県大月市 |
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山梨県ゆかりの人 内田一郎(富士吉田住)『中部文学』の周辺(四)(『中部文学』承前 昭和46年 第6号 甲陽書房発行 一瀬稔氏著)
承前
内田一郎君は終戦直後、単身河口湖畔の知人をたよって、富士五合目で炭焼きをしていたことがある。約一カ年半ほど続いたろうか?そのあとその知人の紹介で、当時、富土ビューホテルを接収していたアメリカの赤十字の属託になって画を描く仕事にありついた。それで、それまで親戚の世話になっていた妻子を呼び寄せて、一緒に暮らすことになった。これは彼の生活力のたくましさを語るほんの一例に過ぎない。
内田一郎といえばすぐ酒を連想する。それほど彼と酒とのつき合いは深く、酒席ではいつもにぎやかな存在で、酒興いたれば、いつもヨカチンと、カッパ踊りを披露におよぶ。彼にはカッバ画伯というニックネームがある。脳天が河童の皿のようにポッカリ禿げていて、そんな彼が手ぶり足ぶり「河太郎」を踊るおどりの振りが、いかにもほんものの河童然としているところからいみじくも名づけられたネームである。
彼についての珍談はいろいろあるが、とにかく、ぼくらの仲間ではいいちばんの人気者で、酒席にはなくてはならない存在でもある。
昭和十五年十一月発行の『中部文学』第三集から同人として詩人の鈴木久夫、村上芳雄君の弟の村上敏雄、川端有彦、準同人に中川彰平、望月由美、斎藤孝の六名が参加した。
この第三集の創作欄には、中村鬼十郎、柳沢八十一、石原文雄、山内一史等の作品五篇と、詩は中川彰平の「墨を吐く」という題の短詩七、八篇が載っている。
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宇野浩二氏『中部文学』の周辺(四)(『中部文学』承前 昭和46年 第6号 甲陽書房発行 一瀬稔氏著)宇野浩二が甲府へ見えたのは、昭和十六年だったか、その翌年だったか記憶がさだかでないが、これは熊王君に聞けばはっきりすると思う。
すでに第九章で書いたように、熊王君の『いろは加留多』が第一回の「文芸推薦」の候補作に選ばれたのは、宇野さんが極力この作品を推したからである。熊王君はそれから度々上京しては宇野さんを訪ねていたようだ。彼は手野さんが甘党だと知って(もちろん宇野さんから頼まれたのだろうが)、上京の折など時々闇の秒糖を見つけては届けていたようである。
そんな関係で、熊王君が石原さんや山内君らに話を持ちかけて、宇野さんを甲府へ招くことにしたのではないかと思う。もう三十年も前のことだからたいがいのことは忘れてしまったが、何でも裏春日の「専次郎」という飲み屋へ案内し、宇野さんをぼくら仲間の五六人が囲んで、一杯やりながら話し合ったことだけを奇妙にはっきりとおぼえている。そのとき集まったのは、石原、山内、熊王、目井、内田、村上といったメンバーではなかったかと思う。
はじめてお目にかかった宇野さんの風貌は、鶴のような、といった形容がふさわしい白哲で、痩身長軀、芥川が俳句にうたった長いもみあげなどが、特に印象的だった。たしか、皆んなで駅まで出迎え、それから宇野さんをとり囲むようにして裏春日まで歩いていった。その途々、宇野さんは熊王君と肩を並べながら低い声で何かしきりにしゃべりつづけていたようだった。宇野さんははじめて降りた甲府の街の様子など眼もくれないで、その飲み屋へ辿りつくまでご自分の話に夢中だった。恐らく文学に関する話だったと思う。
当時、流石に《文学の鬼》といわれた作家だけのことはある。と、ぼくは内心ひどく感服したものだった。その夜の宿は、同人の赤池東山氏がマネージャーをしていた湯村の昇仙閣に決めてあったが、ひとまず、ふだんぼくらの行きつけの「専次郎」へ落ちつくことにした。
宇野さんは酒は一滴も口にしないので、ジュースか何か飲んでおられて、ぼくたちだけが勝手に酒を酌みながら宇野さんの話を拝聴していた。飲めない宇野さんの前でぼくらだけ酒をやるのは失礼だと思ったが、字野さんは少しも意に介せず、いかにも話すのがたのしいといった感じで、卓に両肘をつき、痩せた両肩をすぼめるような恰好で、熱心に文学談をつづけられるのだった。その時の話の内容は何もおぼえていないが、ほとんど文壇の裏話めいたものだったようである。その時ぼくが詩人だと細介されたので、ぼくを相手に詩壇のことやら、詩についてもいろいろ話された。それでぼくははじめて、宇野さんが詩にかなりの関心を持っておられること、そして、明治から昭和にかけての一応定評のある詩人の作品は、あまさず読んでおられることなどを知って、その薀蓄の深いのにひそかにおどろいたのである。
そんな話のきっかけから、字野さんはぼくに向かって、「ぼくの知っているのが○○という文芸雑誌をやっているので、あなたの作品をその雑誌へ紹介してあげましょう。」と言われた。ふいにそんなことを言われたので、ぼくは内心ちょっととまどったが、折角のチャンスと思い、そのご好意に甘えることにした。それから間もなく、一篇の詩を宇野さん宛送った。ニケ月ほど経って、ぼくのその作品が載った雑誌が手元に届いたが、初対面のぼくに対して、いきなり作品を紹介しようと言われた宇野さんのその時の、ご温情は、今でも身にしみてありがたく思っている。その文芸誌の名前は何といったか、いま全然記憶にのこっていない。
そのあと、熊王君とほかに二、三人が宇野さんのお伴をして昇仙閣へ行ったのをおぼえているが、その晩一泊して、翌日宇野さんは帰京された。
宇野さんは昭和三十六年に逝くなられたが、逝くなる四、五年前にもう一度甲府を訪れている。何でも信州へ来られての帰り途、同行の人たちと別れたあと、お一人だけで甲府へ下車されたということだった。熊王君とは前もって手筈がついていたらしかった。急に彼からの連絡で、ぼくたちは仲間の者四、五人で、宇野さんを迎えに甲府駅へ出向いた。
その時の宇野さんは、前にお会いした時から見ると、すっかり老けられた様子で、あの長いもみあげもまっ白にたり、何かいたいたしいほど、顔や姿に憔悴のいろがあらわれていた。それでも、つぼの広い黒のソフトを被り、背広の上にやはり黒のマント(或はオーバーだったかも知れない)のようなものを着て、細身のステッキをついた姿は、昔と変らないダンデイな感じだった。
ぼくたちは駅前から二台のタクシーに分乗して、湯村の昇仙閣へ向かった。その夜、昇仙閣の一室で、宇野さんを正面に、ぼくたち仲間の者がテーブルを囲んで撮ったスナップ写真が、今でもどこかにしまってあるが、宇野さんは昔と変らず、文学や美術について熱心にいろいろとしゃべられた。
ただ以前と変ったのは、低い声が一層低くなり、話しながら何となく息ぎれがしそうな感じだった。ぼくの記憶に問違いがなかったら、いま手元に著書がないのではっきりしないが、熊王君が宇野さんの紹介で、講談杜から『無名作家の手記』を出したころではなかったかと思う。そのとき集まった顔ぶれは、ぼくのほかに、熊王徳平、赤池東山、萩原慶助、内田一郎、小木町圭子、古志地恵子の諸君だったように思う。
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石原文雄氏(市川大門町出身)昭和十六年度上半期の芥川賞候補 甲陽書房発行 (一瀬稔氏著) |
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