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白州 武川 歴史紀行 真実を求めて

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甲斐ゆかりの武将 加藤光泰(かとうみつやす)

『山梨百科事典』山梨日日新聞社刊 一部加筆
 
生、1537(天文6)−歿、1593(文禄2).829
安土桃山時代の甲斐領主、美濃斎藤竜興の臣景秦の子、初名は作内、のち遠江守光春。
斎藤氏滅後1571(元亀2)年、豊臣秀吉に仕え、丹波周山城主、近江貝塚、高島城主、美濃大垣城主などを経て、1591(天正19)年、甲斐の領主となる。
城代は加藤平兵衛光政。入国と同時に平岩三吉が縄張りしたままの甲府城の築城工事を継続する。
文禄の役(1592年)に秀吉の代官七人衆の1人として渡鮮、陣中にて,病死。墓は甲府善光寺にある。<斎藤典男氏著>

山梨県ゆかりの人 加藤平四郎(かとうへいしろう)

『山梨百科事典』山梨日日新聞社刊 一部加筆
 
生、1854(安政1).223−歿、1877(明治10).318
岡山県高田村416番地(勝山村472番地)に士族量4男として生まれる。
岡山師範卒、教職にあったが1890(明治23)年7月、政友会から代議士に当選、18922月、18953月、1898(明治31)年4月と当選を重ね、同年7月静岡県知事、翌年8月、第13代山梨県知事となり、在職21ヵ月で1901(明治34)年814日休職。1911(明治44)年4月、甲府市長に迎えられ、1916(大正4)年8月辞職する。
青年のころ自由民権運動に投じ後、政友会院外団長をした。号を無田居といったクリスチャンで、青山墓地に葬られている。
板垣伯の信任あつく星亨と比肩された。
山梨県では甲府市の上水道敷設、甲府水道の今日を開いた。また初めて県立図書館を錦町(中央一丁目)に開設(後、櫻町に移転)した。県教育会付属図書館がこれである。
また上野村(三珠町)に芦川発電所をはじめ、各所にこの新規事業を起こした。       <鈴木喜太郎氏著>

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甲斐の武将 勝沼氏(かつぬまし)

『山梨百科事典』山梨日日新聞社刊 一部加筆
 
武田氏の一族。武田信縄の子。信虎の弟に五郎信友があり、勝沼氏を称した。
勝沼(山梨県勝沼町 現甲州市)は甲斐国栗原筋の村名である。
武田系図に、信縄の男信虎の弟次郎五郎信友(安芸守)が勝沼殿と称し1560(永禄3)年113日死、法名不山道存庵主とあるが、1520(永正17)年都留郡岩殿七社権現の棟(むな)札に「御奉加鳥目百匹武田左衛門大輔信友」と記され、「妙法寺記」によれば1535(天文4)年822日、相模の北条氏綱が甲斐郡内に侵入し、小山田越中守信有の軍が敗れ、小山田弾正有誠らとともに武田左衛門大輔信友が討ち死にしており、特に勝沼勢は240人討ち死にしているとあるので、系図の永禄3年は誤りである。

加藤氏

信友の子は男2人。兄は丹波守信元。弟は丹後守信厚で加藤氏を相続した。「甲陽軍鑑」などでは、勝沼氏が異心あり、武蔵の藤田右衛門と内通したが露見し永禄3113日山県昌景に処断されたとあるが、この勝沼氏は信友ではなくてその子信元である。系図はそれを誤って信友の下に注記したものであろう。  
なお、加藤駿河守信邦の子に加藤丹後守景忠があり、郡内上野原の城主となり、1582(天正10)年312日武州箱根崎で死、年43。法名傑宗道英居士というが、信友の子丹後守信厚と同じ人物であるか否かは明らかでない。

理慶比丘尼

また、武田氏滅亡を記した「理慶尼記」で有名な理慶比丘尼は、勝沼入道不山すなわち信友の女であり、初め雨宮氏に嫁したが、勝沼氏が処断された時雨宮氏と縁を断ち、柏尾山(大善寺)にはいり、護摩堂の阿闇梨(あじやり)慶紹を師として尼となり、山内に庵室を結んで住んだ。1611(慶長16)年817日死、大善寺に墓がある。
丹波守信元の子は僧となり、日閑と称し、相模の今井村信隆院に住したが、1640(寛永17)年寂。<服部治則氏著>

山梨県の偉人 風間金八(かぎまきんぱち)

『山梨百科事典』山梨日日新聞社刊 一部加筆
 
生、1885(安政2)・318−歿、1855(明准40).112
甲府柳町の製糸家風間伊七の子。
1876(明治9)年伊七が創設した器械製糸場の管理にあたり、1882(明治15)年、同業者有志とはかり、各自所有の器械を改造、山梨誠進社(株)を組織して社長となった。
1887(明治20)年、製糸貿易視察のためアメリカに旅行、帰国後新工場を建
設して208人操りとし、製糸改良とその事業の改進につとめた。遺稿に「製糸要論」がある。<飯田文弥氏著>

山梨県ゆかりの人 香川香南(かがわこうなん)

『山梨百科事典』山梨日日新聞社刊 一部加筆
 
生、1858(安政5).51−歿、1936(昭和11).826
名は小次郎、山口県旧岩国藩家老景矩の長男。1864(元治1)年藩校養老館
に入学、9年にして業を終えた。
1898(明治31)年から1906年まで、山梨県第一中学校(甲府一高)に教鞭をとり、漢文習字などを担当、その淡白な性格は生徒に深い影響を与えた。のち参謀本部の戦史編集となり、退官後甲府の地を愛し1929(昭和4)年、愛宕町に居を構え、七分三分の薄酒と和習のある漢詩とに悠々晩年を終わった。いま甲府一高に門下生の建てた記念碑がある。<笠井輝男氏著>
 1913(大正2)年1215日、山梨日日新聞の新春文芸選者となる。

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