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2015年11月09日
韮崎市の家塾 宮澤家塾 宮澤重礼『韮崎市誌』中巻 第二章 学校教育 第一節学制以前の教育 一部加筆
駒井村。寛政五(1793)年宮澤重礼は生山正方へ入門、国学・儒学の教を受け、同じく九年師の勧めに従って江戸へ出て、苦学の末、ついに昌平黌(しょうへいこう)学問所に入り、碩学佐藤一斎の教えを受け、学成るや帰郷、名主としての公務にはげむかたわら、仕事のあいまに村民を教化し、風俗淳美なる理想境の実現を企図して、「行餘館」を開設、近郷より師の令命を聞いて集まるもの多数、切瑳琢磨の道場として知られていた。邸内には佐藤一筋撰文の「行余館碑」が立っている(県立図書館・資料)。
解説佐藤一齋(一七七二〜一八五九・安永一〜安政六) 江戸末期の儒者、美濃岩村藩士信由の子。名は坦、通称幾久松・捨蔵。中井竹山、林述斎に学ぶ。文化二(一八〇五)年林家の塾長。天保一二(一八四一)年以後、幕府儒官として一生を送った。立場上表面は朱子 学をとったが、陽明学の影響を強く受け、陽朱陰王といわれた。門人に安穏艮斎・渡辺華山・佐久間象山・中村正直・横井小橋らが輩出。著書『言志四録』・『近恩録』などがある(『角川・日本史辞典』)。
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韮崎市の家塾 奥の舎塾 志村天目『韮崎市誌』中巻 第二章 学校教育 第一節学制以前の教育 一部加筆
南下条村。文化年間、心学者志村天目は、心学布教のためしばしば「奥の舎」(現・中込義直宅)を訪れて近郷子弟のため講演を行い、大きい影響を与えた。天目は末木村(現・一宮町)の人。加賀芙光章に国学・儒学を修めた後、京都の手島堵庵から心学を学んだ。郷里に忠款舎(ちゅうかんしゃ)を開設して、この学を講ずるとともに石和代官・川崎平右衛門の命によって、国内へあまねく出張・巡回して心学の布教による社会教化を生活の仕事とした。
解説心学とは、江戸時代、神・儒・仏の三教を融合して、その教旨を平易なる言葉と通俗な比喩で説いた一種の庶民教育であって、修錬のため静座を重んじ、社会教化のため道話を用いているが、この教学は石田梅岩を祖とする石門心学に始まり、手島堵庵・中澤道二に伝えられ、さらに柴田鳩翁に至って拡大され、一時に全国へ広がっていった(『広辞苑』より)。
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