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*通校するに天平中(729〜749)阿弥陀如来を所安置の本尊西明寺は何頃にか照して、鎌倉以前より薬師如来を本尊とし、今の金堂に安置せしにや、
*暦応二年(1339)の注進状に「浄瑠璃寺薬師如来」とは見えたれど金堂は不載、此時の火災にも免れしやらん、
*天文廿四年(弘治元年 1555)九月五日造営供養の記に天文九年(1540)八月十一日、一昼夜大風あり本堂以下破損して国主晴信の下知を得国中棟別一升勧進他力を以て修治すと云々、実に五百年来の旧造ならんこと左もあるへし、
*本尊薬師(木仏坐像長三尺相伝う行基の作正月八日開扉、一七日国家安全の祈願護摩執行、正月九月大般若経転読)同宮殿(積二間余三重椽(?)金飾美麗也、屏に武田菱の紋あり、刻書に云う、甲信太守武田晴信公御武道堅固御祈祷之故也と)
*日光月光(長各八尺余)
*十二神将(長各三尺五分許但一鉢は後世所修補工尤も劣れり)右運慶作也、毎像脊中に記あり、子神に記して云う、大善寺十二神将始勧進僧厳海密房仏師僧運慶三河公筆師僧上実円勝房嘉禄三年(安貞元年 1227)大戈丁亥閏三月十五日始之、『西神記』云う、嘉禄三年(1227)大戈丁亥五月十一日西神造立始之、右志者為四恩報恩為大法師円融現当二世之悉地成就円満也、右金剛弟子順円大仏師道慶三河公、末神の胎中に記云う、大仏師僧運慶願主金剛弟子阿闍梨湛禅安貞二年(1228)大東戈成子三月廿一日、又再興ノ板記に大将彩色本願大泉坊長胤法印(旦那杉田与五右衛門、梶原源右衛門、坪井住金藤縫助)
*永禄五年(1562)壬戌四月十日、本願東坊長秀開眼供養師護摩堂阿闇梨玉泉坊慶紹(八幡松枝百文松本道泉内万仁百文)薬師如来一躯(金造)相伝う、三枝守国の守本尊也、
*賓頭慮尊者(旧作ナリ、作者不詳)
*大黒天(木像弘法ノ作上空不動明王(木像也伝云信玄の所寄)
*七号袈裟一襲(信玄所寄赤地金爛)
*水晶念珠一聯(同寄附也)
寛政中(1789〜1801)松平甲斐守、当寺に詣し懇望さるるに依りて之を贈る、和歌一首を詠して謝せらるに依り藩臣久城部次兵衛、吉田権十郎をして添書致意せしむ)
法性院とののもたまへる念珠をゆつり
きこえけるかしこざを謝す 保光
かすくに念の珠をくりかえし
むかしを今になほあふかなむ
*白栴檀釈迦ノ坐像(松平美濃守保明(柳沢吉保)の北堂看経仏なり故ありて当時に納む)
〔註〕柳沢 保光(やなぎさわ やすみつ)は、江戸時代中期の大名。大和郡山藩第3代藩主。郡山藩柳沢家4代。2代藩主柳沢信鴻の長男。
*大般若本尊十六善神(画面に書あり、主願道清岩崎竹内筆者和泉表絹本願西光坊長祐律師、文明十六年(1484)甲辰霜月廿三日)
〔註〕この他、文政二年(一八一九)の修復箱書がある。
*大般若経(元禄九年(1696)土屋定直寄進)
〔土屋定直〕 元禄二年(一六八九年)〜宝永二年閏四月九日(一七〇五年五月三一日))は、常陸土浦藩の嫡子。老中を務めた第二代藩主・土屋政直の三男。官位は従五位下、出羽守。
兄・昭直が早世したため代わって嫡子となる。元禄九年(一六九六年)に徳川綱吉に初御目見し、元禄十六年(一七〇三年)に叙任する。兄と同様、宝永二年(一七〇四年)に早世した。代わって弟の陳直が嫡子となった。
*仏前供物器三具(銘云寄進永禄四年(1561)七月七日柏尾山常什杉之坊明乗と、按ずるに杉之坊古迩今審ならず、又虎四月四日杉之坊明乗がたつ子と云う者に授くる遺状一通あり、文中に行平秋広の二刀小鍛治の脇差云云と見えたり、今倶に其伝なし)
*金鼓銘(奉施入柏尾山大善寺鰐壱口徳治二年(1307)丁未十一月廿日願主権律師快俊)
*銅燈籠二(奉寄進甲州八代郡柏尾山大善寺慶長十三戊申(1608)五月十三日大久保石見守(長安)敬白)
〔大久保石見守〕
1545〜1613 天文十四年生まれ。はじめ武田信玄につかえ,武田氏滅亡後徳川家康にしたがい猿楽(さるがく)を業とした。鉱山開発の才能をみとめられ、石見(いわみ)銀山,佐渡・伊豆(いず)金山などの奉行を歴任。慶長九年東海・東山・北陸三道の一里塚建設を指揮した。慶長一八年四月二十五日死去。六十九歳。死後不正が発覚したとされ大久保家は改易となった。
*不動明王画像一幅(竪壱丈壱尺二寸五分横壱丈五尺余表具天弐尺玉寸地壱尺二寸五分縁弐尺弐寸五分)巨勢金岡筆也
〔巨勢金岡〕
平安時代前期の宮廷画家。巨勢有行または采女正・巨勢氏宗の子とする系図がある。官位は従五位下・采女正。
中納言・巨勢野足を曾祖父に持つ少壮貴族の出身であったが、その豊かな画才を朝廷に認められ、宇多天皇や藤原基経といった権力者の恩顧を得て活躍した。貞観十年(八六八年)から同十四年(八七二年)にかけては宮廷の神泉苑を監修し、その過程で菅原道真や紀長谷雄といった知識人とも親交を結んだ。
日本画独自の様式を追求・深化させ、唐絵の影響を脱した大和絵の様式を確立させた功労者とされる。またその子孫は、後世において巨勢派と称される画家集団を形成、宮廷画や仏画の分野において多大な影響力を発揮した。しかし、その作品は一切現存してはいないと伝えられているが、ネットで検索で数点見える。
〔柳沢吉保奉納 観世音菩薩画像一幅〕
宝永二年酉(一七〇五)二月とこれは御朱印にあり、二月十九日引き渡しなり。吉保初め懇下望み被封の上、本州恵林寺不動明王へ祈願の願書を捧げ置きしに、封を受け後に願いを解いたと云う。
柏尾山(大善寺)に奉納の画幅あり、記に云う、奉蔵、武州川越城主従四位下行侍従兼出羽守源朝臣柳沢吉保とあり。
【筆註】この記載事項は重要である。これまで、一蓮寺や常光寺それに恵林寺の所蔵物については詳細の記があるが、この柏尾山大善寺に奉納されたという画幅(観世音菩薩画像一幅)については触れられていない。調べてみる必要がある。
『甲斐国志』大善寺の項を見ると、
「水晶念珠一聨」同寄付なり。寛政中、松平甲斐守様(吉里)当寺に詣でし、懇望さるるに依りて之を贈る。和歌一
首を詠じて謝せらる。藩臣久城部次兵衛、吉田権十郎をして添え書き致意せしむ。
法性院とののも賜へる念珠をゆつり
聞こえけるかしこさを謝す 保光(吉保)
かすかすに念の珠くりかえし
むかしを今になほあふかなむ
◎『白旃檀釈迦の坐像」松平美濃守保明の北堂看経仏なり。故ありて当時(寺)に納む。
*『脊記』云初度愛甲州岩崎一分ノ地頭武田築前権守源武政以鏑表具被加修理者也、
〔武田築前権守源武政〕
大善寺の嘉元4年の記録に「岩崎一分地頭武田筑前権守源武政」とあるのが初見、この地は、武田信光の子信隆が領地。
*嘉元四年丙午(1306)二月廿八日、爾后之表本当寺住僧式部公長遷此近里勧化被加修補畢、時住寺岩殿権少僧都明泉代別当権大僧都栄賢表具師錦之住僧聖通延徳元年己西(1487)九月八日、人皇六十代醍醐帝延享年中(1744〜1748)金岡一書之明年代に糺す、 *慶長壬寅七年(1602)迄凡七百年歟、慶長七壬寅七月十二日注之(当寺護摩堂住)紹宥、
*又寛永十二(1635)亥延亨二丑(1745)両度裏打表具の記あり文之を略す、毎年七月六日夜ヨリ一七日護摩修行天台大師画像表装に記云、奉表補給天台大師御影甲斐国柏尾山公用也、
*天正五年丁丑(1577)霜月大師当番常行堂総持院慶相法印願主是也、太刀一握(銘云運有天命依義軽武州住昭重作天文二年(1533)八月十四日)
右の外古画器品あり寛永以来宝永正徳頃に至り、三枝、土屋、神尾、佐竹等ノ諸家より仏像、諸具祭旗、幕、戸張の類寄贈する所甚多し、今皆省略して記さず、毎四月十四日祭礼舞台にて児子舞、衆徒剣舞等あり、
*藤切り祭
庭上に二丈許の柱を建て藤蔓を縄とし、これに纏い修験者一人が柱上に攣ぢて修法し、終り剣を以って其縄を両断となし、地に墜すを、香火群集の人噪(さわぎ)立ちて左右に之を引き勝負を争うことを旧式とす(或は勝負に因りて年内吉凶を占うとも云う)この「柏尾藤切」と謂う覚山の祭祀にも此式あり、彼所にては真截(しんきり)と唱う。
*『回国雑記』(文明十九年(1487)聖護院宮准三后道与の道の記也)
かし尾といえる山寺に一宿し侍りければ住持のいはく
後の世のため一首を残しはべるべきよし、しきりに申
し侍れけれは、立ちながら口にまかせて申しつかはし
ける、かし尾と俗語に申ならはし侍れとも柏尾山にて
侍るとなん
かけたのむ岩もとかしはをのつらから
ひとよかりねに手折てそしく
〔*『回国雑記』〕
名所、古寺の巡歴記。聖護院門跡准后道興著。長享一 (1487) 年成立。著者が文明十八年(1786)から翌年三月までに、北陸、関東、奥州諸国を遊歴した折の紀行文。
*寺宝に安元三年(1117)下し文一章花押あり(寺伝に平相国の下文也云う、柏尾寺社迯脱の大衆如本可令帰住云々惧に花押讃等に所載と異なり附録に録す)
*九月八日禁制写一章平花押(以下写本八通の事は前に記せり、此状仮名文なり、延慶三年下知状に拠る、按に建久九年(1198)塔供養の時の禁制一見えたり、北条時政の押か)
〔北条時政〕平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての武将。伊豆国の在地豪族の北条時方(もしくは時兼)の子。源頼朝の正室・北条政子の父。鎌倉幕府の初代執権。
*建仁四年(1204)二月廿八日下知状写一章、遠江守花押(別所四至の内先例に住す云々とあり、寺の東に今も別所と云う処あり是か)
*建保元年(1213)十二月廿九日下知状写(菅野図書允清原図書少允清原、柏尾山四至内乱入狼籍輩事と云々、建仁建保は実朝将軍の時也)
*嘉禄二年(1226)十一月三日下知状写(武蔵守平、(北条時房)相模守平(相模守平朝臣 執権北条時頼(朽木家古文書))
〔北条時房〕
北条 時房(ほうじょう ときふさ)は鎌倉時代初期の武将。北条時政の子。北条政子・北条義時の異母弟。鎌倉幕府初代連署。延応二年(一二四〇年)死去。享年六六。時房死去後の連署は一二四七年に甥北条重時が就任するまで空席となった。
〔連書〕
鎌倉幕府の役職。執権の補佐役であり執権に次ぐ重職で、実質上の「副執権」 *嘉禎三年(1237)十二月六日下知状写(左京権大夫平(源義清)、修理権大夫平(藤原宗兼))
〔源義清 (左京権大夫)〕
源義忠(八幡太郎義家の三男)の四男、河内経国(義行)・義高・忠宗の弟、義雄の兄、義久の父、義高の祖父。
*建長元年(1249)十二月廿三日守護所文書一章文字剥けて不分明花押は脊面にこれ有り
*弘長二年(1262)十月十八日紛失状写(武蔵守平朝臣(北条時房)、相模守平朝臣(北条時頼))
*弘安七年(1283)八月廿三日下知状写一章(左馬権頭、陸奥守)三月十四日宣旨一通皇后宮大進在判進上土御門前原大納言殿とあり、柏尾寺造営の事なり、弘安七年(1283)と見えたり
〔北条業時 左馬権頭、陸奥守〕
一二五九年(正元元)四月七日、従五位下に叙し、弾正少弼に任官。七月二七日、左馬権頭に遷任。一二八三(弘安六)四月十六日、連署に異動。七月二十日、従五位上に昇叙。駿河守如元。九月二十六日、正五位下に昇叙。駿河守如元。 一二八四年(弘安七)八月八日、陸奥守に転任。 〔弘安七年 1283 八月二十三日 甲斐大善寺文書〕
*関東御教書
当寺本堂大善寺造営の事、勧進甲斐国中、その功を終しむべきの由。仰せ下さるる所なり。仍って執達件の如し。 弘安七年八月二十三日 左馬権頭(貞時御判)
陸奥頭 (業時御判)
*正安三年(1290)大善寺請衆交名草勧進何某云々の書二通
*延慶三年(1310)五月五日下知状三章(陸奥守平朝臣、相模守平朝臣)信濃国棟別十文銭貨勧進の事同一章は隠岐守殿とあり(同年九月五日一章あり写なり、隠岐前司入道殿とあり)
延慶三年(一三一〇)
五月五日、鎌倉幕府より大善寺に下知状が発せられる。
その文中に嘉禎三年(一二三七)に鮎沢宿雑事を免じたことが記される。
〔「大善寺文書」関東下知状(山4六〇二)〕
甲斐国柏尾山衆徒等申、信濃国棟別 拾文銭貨事右如解状者、当山者薬師如来之霊場、行基菩薩草創也、右大将家建久年中雖被定寺内四至、更無立錐之田地、爰文永七年有火災本堂大善寺以下焼失、去弘安七年可勧進国中之由被成御教書畢、而地頭御家人等依無一分
之助成、未遂数宇之造営、建久九年当山塔供養時、有狼藉之輩者可搦進之由被仰下畢、嘉禄二年賜国中人夫、嘉禎三年被免鮎沢宿御雑事畢、代々将軍家御帰依如此、早不論神社仏寺之領、無謂権門勢家之地、賜信濃国棟別、欲致本堂以下造営云云者、任申請充取件国
棟別拾文銭貨、可令遂造営功之状、依仰下知如件、
延慶三年五月五日
平朝臣(花押) 陸奥守(大仏宗宣)
平朝臣(花押) 相模守(北条師時)
※嘉禎三年の鮎沢宿雑事免許についての関東下知状は、東京大学史料編纂所の影写本が残されている
*正中三年(1326)三月廿五日紛失状、修理権太天平朝臣花押(北条貞顕なり)。
〔北条貞顕(ほうじょう さだあき)〕
鎌倉時代末期の武将。北条氏の一門で鎌倉幕府第十五代執権(在職は正中三年三月十六日(一三二六年)執権と成る。三月二十六日、執権退任。出家、法名:崇顕。一三三三年(元弘三年、正慶二年)五月二十二日、鎌倉幕府滅亡に際し東勝寺で北条高時らと自刃。享年五十六。
*建武四年(1337)六月十三日足利家の寄進状(左兵衛尉源持平泰□□)各花押あり。
*建武四年(延元二年)(1337)七月十六日陸奥守花押(右押譜所載斯波陸奥守家長の押也)
*小岡郷寄進状一章、暦応二年(1339)四月十九日散位花押一章(是は国街在庁宮人乃証状なり、以上三章皆小岡郷の事を載せる)。
*暦応二年(1339)五月日注進状案文一章(建武三年(1336)五月炎上の事なり)。
〔暦応二年(1339)四月十九日〕『柏尾大善寺文書』
国衙在庁の証状の添状も有之
一色氏・金丸氏・土屋氏の家系を按に本州の在りし。
一色氏は左京大夫範氏四世の孫満範より出る趣なり。武河(上条南割)の大公寺の所建大興寺殿(範氏法名)の牌子あり。始祖の香火場に営む所なるべし。
*観応二年(1351)六月廿日名主職補任状一章留守所(花押)
国別当(花押、国衛在庁より出づる所の許状なり)
*文和四年(1355)二月廿五日修理亮信春寄進する所の証状(信春は武田氏也)
〔武田信春(たけだのぶはる)
没、一四一三年十一月十六日(応永二十年))は、南北朝時代から室町時代前期にかけての武将。甲斐武田氏第十二代当主。信時流武田氏の子孫で武田信成の子。官位は陸奥守及び伊豆守。
兄弟に基信、武春、布施満春、栗原武続がいる。子は信満、穴山満春(武田信元)、下条信継、市部信久、吉田成春、観音寺遠大西堂、法弥陀仏(一蓮寺住持)、上杉禅秀正室、小笠原長基正室、武田信繁室など(信春の系譜・子女については「円光院武田家系図」をはじめとする武田家系図類に拠る)。
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2016年11月19日
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〔鎌倉期の武田氏〕
資料『山梨郷土史研究入門』山梨郷土研究会 山梨日日新聞社 平成四年(一部加筆)
治承・寿永の内乱とそれに続く初期の鎌倉幕府内の政争の過程で、鎌倉御家人としての武田氏の礎を築いた武田信光以降、南北朝内乱の過程で守護大名としての武田氏の礎を築いた武田信武に至る、鎌倉期の武田氏についての研究は、いわば武田氏研究における空白部分ともいえる。この期の武田氏研究の困難さは関係史料の絶対的な稀少性にあることは言うまでもないが、従来の諸研究が『吾妻鏡』や『甲斐国志』のみを利用してきたことは問題であり、また山梨県関係の史料に終始していたことも問題である。実際、広く鎌倉期の諸史料にあたってみると従来の諸研究では触れられていない人物の存在が確認されるのである。
また、信光から信武に至る世系を、暗黙のうちに武田氏の嫡流=甲斐武田氏の嫡流とみなしていた点も問題である。これは武田信玄に連なる世系が即武田氏の嫡流であり、同時に甲斐武田氏の嫡流であるという、いわば二重の信玄中心史観の表れといえる。
鎌倉期の武田氏について述べているもののうち、以上の点からみて最も。通説的であるのは広瀬広一『武田信玄伝』(昭19、同43再)であるといえ、以後における研究はこの広瀬氏の成果をどの程度超えられるかという点であるといえよう。
その点において、まず挙げなければならないのは佐藤進一『鎌倉幕府守護制度の研究』(昭23、同46増訂版)である。佐藤氏はここにおいて、甲斐守護として武田石和政義を、安芸守護として武田信光・信時の二人を検出された。特に政義については、現在に至っても甲斐守護として確認しうる唯一の人物であり、また彼が信光から信武に至る世系に属さない信時の弟政綱に始まる武田石和氏の人物であることは重要であった。
次に河村昭一氏は『郷土資料安芸武田氏』(昭五九)において、安芸守護の武田氏についてさらに詳細な検討を加えられ、政義の甲斐守護在任と同時期に再び武田氏が安芸守護に在任していたことを明らかにされた。これらの守護研究によって、武田氏は甲斐・安芸両国の守護であったこと、そのうち甲斐守護としては武田石和氏の政義が、安芸守護としては信光から信武に至る世系が確認された。
また、湯山学「『他阿上人法語』に見える武士(一)」(『時衆研究』六三号、昭50)において、鎌倉後期に武田石和総家(宗信)が伊豆守を受領し、北条得宗家の被官であったことが明らかにされ、その存在に注目された。これらを承けて黒田基樹「鎌倉期の武田氏」(『地方史研究』211号、昭63)は、甲斐・安芸守護、伊豆守の受領名の継承に着目し、鎌倉中期の信時の安芸下向以降、信時とその子孫は同国に在住して安芸守護職を相承する存在とみなし、これを、「安芸武田氏」と呼び、信時の弟政綱の家系(武田石和氏)は北条得宗家の被官として甲斐守護職に補任されこれを相承する存在とみなし、これを「甲斐武田氏」と呼び、両者の関係を惣領制規制から脱した同等のものとみなし、甲斐・安芸両武田氏の存在という設定を試み、また、伊豆守の受領者が武田氏の惣領を示すという推測をした。
以上は、守護在任者を出した、信時から総武に至る世系と武田石和氏という二つの家系についてのものだが、この他『吾妻鏡』以外の史料によっても、甲斐甘利荘地頭信賢(武田岩崎信隆忠)、安芸佐東郡地順奉継(同息)、和泉坂本郷地頭義奉(信時弟信奉孫)、等を始めとして多くの武田氏の一族が確認され、とりわけ武田一条氏と武田岩崎氏が注目され、今後はこれらをどう位置付けるかが課題となっているように思われる。
また、室町期以降の守護大名武田氏の祖である信武の動向も重要で、これについては佐藤・河村両氏によって、信武は南北朝内乱の過程で武田石和氏と対立・抗争し、その結果甲斐守護に補任されていることが明らかにされ、黒田はさらに、信武は安芸武田氏の出身であり、そのことから信武の後安芸守護を継承した氏信を実名と伊豆守の受領名とから信武の嫡子であり、甲斐守護を継承した信或は庶子であること、すなわち信武の嫡流は氏信の系統(安芸、のち若狭武田氏)であることを指摘した。信武にはこの他に信明・公信・義武の諸子であったが、それぞれ甲斐守護代、幕府奉公衆、鎌倉府近習衆として確認され、そのこと自体、守護大名武田氏の成立を考える上で興味深いが、南北朝期には鎌倉期以上に多くの武田氏の一族が確認され、これらの位置付けによって、逆に鎌倉期の武田氏を照射することが可能といえる。鎌倉期及び南北朝期の武田氏についての研究は緒に就いたばかりといえよう。〔黒田基樹氏著〕
〔註〕
正平七年(一三五二)三月二十九日、足利尊氏、大善寺の祈祷巻数。
(大善寺の僧が必勝祈願の祈祷回数や経典数を記録して報告する。
〔註〕
正平十年(一三五五)二月二十五日、去る二十一日甲斐の南軍、武田信春を攻める。信春は柏尾大善寺に陣を敷き、この日大善寺衆徒に闕所(幕府や領主により没収された土地)地寄進を約して祈祷させる。
〔註〕
正平十二年(1357)二月二十五日、足利尊氏、大善寺に祈祷を依頼する。(大善寺文書)左の記事と同じ。
*延文二年(1357)(足利)義詮(あきら)将軍始立御祈祷事可被進巻数由文書あり。
〔足利義晧〕
正平十三年(一三五八年)四月に尊氏が没し、十二月に義詮は征夷大将軍に任命される。この頃には中国地方の山名氏や大内氏などが向背定まらず、九州では懐良親王などの南朝勢力は健在であった。早速、河内や紀伊に出兵して南朝軍と交戦し赤坂城などを落とすが、一方幕府内では、正平十六年(一三六一年)に細川清氏・畠山国清と対立した仁木義長が南朝へ降り、さらに執事(管領)の清氏までもが佐々木道誉の讒言のために離反して南朝へ降るなど権力抗争が絶えず、その隙を突いて南朝方が一時京都を奪還するなど政権は流動的であった。しかし細川清氏や畠山国清が滅ぼされ、正平十七年(一三六二年)七月、清氏の失脚以来空席となっていた管領職に斯波義将を任命。正平十八年(一三六三年)には大内氏、山名氏が幕府に帰参して政権は安定化しはじめ、仁木義長や桃井直常、石塔頼房も幕府に帰参し、南朝との講和も進んでいた。同年、義詮の執奏により、勅撰和歌集の十九番目にあたる『新拾遺和歌集』は後光厳天皇より綸旨が下った。正平二十年(一三六五年)二月には三条坊門万里小路の新邸に移っている。この間に義詮は訴訟制度の整備に着手し、評定衆・引付衆を縮小して将軍の親裁権の拡大を図った(御前沙汰)。園城寺と南禅寺の争いでは、今川貞世に命じて園城寺が管理する逢坂関等を破却させた。正平二十二年(一三六六年)に斯波氏が一時失脚すると細川頼之を管領に任命した(貞治の変)。
*武田氏に於ても観応(1350)、文和(1352)以降巻数ノ受取書、寄進状等信成、信春の花押並に晴信の寺領証文、太刀奉進の折紙も存したり、彼家世々崇敬のこと諭なし、
〔註〕
正平二十年・貞治四年(一三六五)閏九月二十一日、武田信春、甲斐菱山内丸山村を大善寺に寄進する。
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建武三年(1336)五月五日、初雁五郎挙兵して、足利方を攻めて大善寺を焼く。(大善寺文書)
◇斯波陸奥守家長『甲斐国志』「姓氏部」筆者挿入
*建武四年(1337)七月十六日
甲斐国小岡郷内寄進状
*暦応二年(1339)四月十九日 『柏尾大善寺文書』
国衙在庁の証状の添状も有之一色氏・金丸氏・土屋氏の家系を按ずるに本州に在りし。一色氏は左京大夫範氏四世の孫満範より出る趣なり。武河筋(上条南割)の大公寺の所建大興寺殿(範氏法名)の牌子あり。始祖の香火場に営む所なるべし。
*室町家の時に及び、建武三年(1336)初雁五郎当時炎上の事あり、
*建武四年(1337)本州小岡郷内の田畠六町余寄附せらる、其状に
甲斐国柏尾山は本仏医王善逝ノ霊場、行基菩薩創立は六百余歳哉就其奉祈源家御繁昌御寺也、仇代々御崇敬之状数通有之(為御上覧備之)ト云々
〔初雁五郎〕 都留市立図書館(ネット検索)
❖第三節「恩敵」初雁五郎の狼藉
建武四年(1337)「御敵」初雁五郎という者が、柏尾山大善寺を炎上せしめた。室町幕府は将軍御祈祷のため同寺再建の料を寄進している。初雁五郎をこの史料に登場するのみなので前後の事情は類推していくしかない。おそらくは波加利庄の下級荘官であったのだろうか。『甲斐国志』に(大月市域)下初狩村に「河内屋敷」という城館跡地名がある。と伝える程度である。史料は御敵といっている。
初狩五郎は南朝方に加わって活動しているのである。大善寺は先にも述べたように古代の旧国造り三枝氏所縁の寺である。壇越の消長とは別に平安期の薬師三尊像を守って長く峡東の大寺であった。度々の炎上でもその都度に再建され、鎌倉末期の火災の時には幕府は同寺の再建のために信濃一国平均国役を課しているほど重要な位置付をもった。残存の史料からは御薬師信仰の隆盛がうかがえる程度であるが、郡内地方のしかも無名の地侍が押し出して、同寺破壊に及んだ状況の中に根本的な歴史の変動が読み取れるのである。なお波加利荘は南北朝期には長講堂領荘園として機能しており、北朝の崇光天皇の即位にあたって公事を申付けられている。請所も承久の時と同じ武田・島津となっている。
この寄進状の発給者である斯波家長は関東管領として、足利尊氏の代理人的立場にあったが、尊氏が征夷大将軍に任官するのはこの翌年であった。尊氏は一方で鎌倉時代の由緒を問わずより多くの武士を徴募しなければならないし、他方では幕府を僭称ではなく公権力を天下に認知させることに腐心している。十月には全国的に武士の占領した寺社・国衙の返還を命じたりしている。権力の帰趨は未定の時期である。甲斐国も事情は同じであった。
幕府崩壊時点での甲斐守護は武田三郎政義であった。後世の通説からみれば、この政義は幕府創建期を除けば初めて確認できる武田守護なのである。甲斐国の政治的寺院として誰もが連想する恵林寺の創建に関わるのが幕府官僚二階堂氏であることはよく知られていることである。高貴な血筋としての(石和御厨に依る)武田姓は尊ばれたものであろう。しかしこの惣領家の流れの中から自立できる武士は独立した御家人として、安芸や若狭の守護職となっている。残った者が甲斐守護になるような武田氏専制体制ではなかったようである。(中略)
残された数少ない史料の中に観応三年(1352)に甲斐国青沼郷の下知を地付きと思われる逸見入道から取り上げて、安芸の武士である金子信泰に与える沙汰状が残っている。(中略)
文安四年(1355)になっても守護信春にたいしては「国中の御敵が乱入」してきたので、大善寺に陣取って退治した、という。(下略)
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〔三枝姓について〕
*『日本紀』ニ顕宗天皇三年(日本書紀・487)夏四月戊辰置福草部姓氏録ニ三枝ノ連、天津彦根命十四世孫建呂巳命之後也
*顕宗天皇御世集ニ諸氏賜饗醺于時宮廷有三茎之章献之因賜姓三枝部連云々
*『和名抄』(『延喜式』云 福草端草也朱草別名也生 宗廟中云々。和名抄云佐木久佐、又加賀国江沼郡、飛騨国大野都等ニ三枝郷アリ佐以久佐ト訓ス、是福草ノ遺称ナルヘシ)
*「拾芥抄」ニモ川社南在社三枝御子也以三枝華・餝・酒樽祭故日三枝ノ祭神祇令ニノセル和歌ニモ詠リ。
*「続日本後紀」承和十一年(844)五月丙由甲斐国山梨郡人伴直富成カ女、年十五嫁 郷人三枝直平麻呂生一男一女而承和四年(837)平麻呂死去也。厥後守節不改、年也四己十四而攀号不止、恒事斎食榜於霊床宛如存日量彼操履堪為節婦考勅宣終身免其戸田租即標門閭以旌節行トアリ。 *「三枝家伝」ニ守国罪ヲ蒙り甲州東都能路ニ配流セラレ後ニ在庁官人トナリ鎌田氏之女ヲ娶リ四男子ヲ生ム(中略)柏尾寺ヲ建テ、氏寺ト為ス長徳四年戊戊(998)九月十九日卒年百六十ト見エタレハ其生誕ハ承和六年(839)ニ当レリ。然レハ彼ノ配流以前ヨリ本州ニハ三枝直ヒ者アリシ事明ナリ。是即三枝部ノ祖ナルヘシ。
*「長寛勘文」ニ甲斐守藤原朝臣忠重、目代右馬允中原清弘在庁官人三枝守政絞刑ニ処スト見エタレハ、斯ル時ニ三枝ノ本家断絶ニ及ビシカ後ノ記載ニ顕レタル者ナシ。
柏尾山所蔵正安三年(1301)上マキ用途勧進ノ記ニ三枝吉家、三枝正家アレト其人へ審ナラス。
*信虎ノ時石原丹波守ニ命シテ旧祀ヲ秦ジ三枝姓ヲ輿サシム事ハ将師部ニ委シ。三枝系図ニ所記守国五男子アリ(兄弟ノ行次ハ異説アリテ不分明)
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**〔甲斐国司〕**
○長徳2年1月25日(996)【『長徳二年大間書』】
◆甲斐権掾…大春日遠明。正六位上。
◆甲斐掾…坂本広茂。正六位上。
◆甲斐掾…三国重信。名替停。
○長徳3年1月28日(997)【『大間成文抄』】
◆甲斐介…賀陽文時(かやのふみとき)
○長徳3年1月28日(997)【『大間成文抄』】
◆甲斐権掾…山背師光 もろみつ 正六位上 補任。
◆甲斐権大目…伊豆友近(ともちか)甲斐権大目。補任。
◆甲斐権小目…大和(名不詳) 甲斐権小目 補任。
○長徳3年5月19日(997)【『権記』】
◆甲斐守…源忠規。甲斐守源忠規の従者、勅旨に狼籍をして逮捕される。
○長徳4年1月25日(998)【『大間成文抄』】
◆甲斐介…賀陽文時。名替停。
◆甲斐介…私氏民(きさいのうじたみ)正六位上。補任。
◆甲斐権掾…山背師光(もろみつ)正六位上。名替停。
◆甲斐権掾…子部吉景(こべのよしかげ)正六位上。補任。
○長徳4年10月27日(998)【『大間成文抄』】
◆甲斐権小目…六人部茂興。正六位上。補任。
○長保1年1月30日ころ(998)【『任国例』】
◆甲斐権大目…秦(名不詳)。前春宮籍。秦忌寸。
◇三枝氏について
*『日本書記』の福草部の姓氏録に「三枝連」
*『続日本後記』の承和十一年(844)の項に三枝直平麻呂。
〔註〕**〔甲斐国司〕**
○承和9年(842)6月3日【『続日本後紀』】
◆甲斐目…飯高浜水。従五位下。
甲斐目飯高浜水など、伊勢国の飯高公の一族二十七人が、飯高朝臣の姓を与えられ、左京三条に本籍を移す。
○承和10年(843)1月12日【『続日本後紀』】
◆甲斐守… 橘時枝。補任。
○承和10年(843)5月14日【『続日本後紀』】
節婦表彰…甲斐国山梨郡の人、伴富成の娘節婦表彰を受ける。
〔康和五年(1103)銘の経筒〕
*昭和三十七年、山梨郡勝沼町柏尾山の東京電力の工事現場で康和五年(1103)銘の経筒が発掘された。大善寺の大檀那三枝宿禰守定・守継、藤原朝臣基清らが経筒を仏前に供え、柏尾山に埋めるまでの経過が刻まれていた。
経筒に刻まれた守定・守継が戦国時代に武田氏に仕えて活躍した三枝守友の遠い先祖であろうか。
〔註〕**〔甲斐国司〕**
○長保3年10月10日(1001)【『母后代々御覧記』】
◆甲斐守…源高雅。甲斐守源高雅。従四位下。在任。
○長保4年7月9日(1002)【『権記』】
◆前甲斐守…源高雅。前甲斐守源高雅、権記長保四年七月十六日条に見える。
〔三枝守政〕
応保二年(1162)、甲斐守に任ぜられた藤原忠重は遥任国守として中原清弘を甲斐へ赴任させた。とはいえ、実務担当は在庁官人の三枝守政であった。この頃全国的に熊野信仰が流行し、諸国で社領の創建や拡張が盛んに行われていた。こうした事態に藤原政権は律令違反として弾圧を加えた。
甲斐国でも熊野信仰は盛んで、熊野社領八代荘は門前市をなすほどに信仰者が集まり一国の勢いを持つ小国家のような権勢を誇っていた。こうした事態を受け、中原清弘、三枝守政らは、軍兵を率いて八代荘を急襲、社殿を破壊し、責任者に停廃を命じ、さらに同社の蔵米や高価な物を没収、荘内の要人を逮捕し、教祖に残虐な行為した。
熊野側はこれを朝廷に訴えたが、忠重は撥ねつけた。しかし、検非違使庁が動きだし、罪状が明白になり、忠重は流罪、清弘と守政ら首謀者は禁固刑となり、熊野側の勝利となった。
これをきっかけに三枝氏は没落の一途をたどることになるのである。しかし三枝氏は甲斐源氏の活躍の中でも、三枝守継は於曾氏を名乗り、その分流も能呂(野呂)・石原・立河・石坂・窪田・沓間などの姓を名乗って、甲斐国内に勢力を保持したと考えられる。しかし、その動向は必ずしも詳らかではないが、やがて三枝宗家は歴の中から消えていった。
しかし武田信虎は三枝氏の断絶を惜しんで、一族の石原守種の次男石原守綱に名跡を継がせた。その子虎吉が武田二十四将の一人に数えられる勘解由守友の父である。 〔註〕**〔甲斐国司〕**
○応保2年(1162)1月27日【『山槐記除目部類』】
◆甲斐守…藤原忠重。従五位上。藤原忠重が甲斐守に。
○応保2年(1162)4月7日【『長寛勘文』】
◆甲斐守…藤原忠茂。
…甲斐守藤原朝臣忠茂並目代右馬弁中原清弘在庁官事人三枝の守正ら罪名爰に忠茂去年春除目被拝除。
○応保2年(1162)10月6日【『長寛勘文』】
◆甲斐守…藤原忠重。
…忠重が目代中原清弘・在庁官人三枝守政に命じて熊野社領八代荘を停廃する。
○応保2年(1162)10月28日【『応保二年除目大間』】
◆甲斐権介…不任。除目。欠員の甲斐権介は不任。
○長寛1年(1163)1月29日【『長寛勘文』】
◆甲斐守…藤原忠重。熊野社の訴えに対して、陳状を提出する。
○長寛2年(1164)1月21日【『公卿補任』】
◆甲斐守…藤原盛隆。父藤原顕時の大宰権師辞任の替として、甲斐守に任じられる。
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