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石原文雄氏(市川大門町出身)昭和十六年度上半期の芥川賞候補
『中部文学』の周辺()(『中部文学』承前 昭和46年 第6号 

甲陽書房発行 (一瀬稔氏著)

『中都文学』第五集には、石原文雄氏の短篇『断崖の村』が載っている。この作品は、昭和十六年度上半期の芥川賞候補に推薦された。
これは選考委員の滝井孝作氏が極力支持したのだが、その時の受賞作は横光門下の多田裕計の「長江デルタ」に決まった。
 この「断崖の村」は、「短冊型の空だけが妙に明るい谷底」の川を挾んだ、「石垣で段々を作り、辛うじて急坂に張りついている」戸数にしてわずか二十軒足らずの、貧しい山村に起きた火災という異常事態をテーマにした作品である。
これは終戦直後の昭和二十一年の七月に、同じ題名で、他に『新潮』『制作』『中部文学』等に発表した作品八篇を加えて単行本にし、中川一政の装幀で、豊橋の高須書房から出版された。いわゆる一連の山村ものである。
石原さんは市川大門町で生まれたが、石原さんの祖父は上九一色村の出身で、奥さんもやはり同じ土地の生まれである。石原さんと奥さんはいとこ同志だということである。
 九一色というのは上と下とがあり、石原さんの住んでいる市川大門から十キロほど芦川の渓谷を東へ遡ったところの山村で、そこから一山越えると、富士五湖の一つである精進湖へ出られるが、交通の便は極めて悪いようだ。
その九一色村というのは、「歩く時間の方が多い遠さに」にある山畑で、麦や養蚕の桑を作り、朝がた暗いうちに、炭や薪を馬の背や背負子に結えて、十キロ余もある盆地の町や村へ売りに行くことによって、日々の生計がいとなまれている戸数わずか二十戸あまりの寒村である。
石原さんはそのころ時々泊まりがけで、(当時バスの便はなかったので)てくてくと歩いて上九一色の親戚へ出かけていったようだ。もちろん何軒かの親類とのお附き合いがあって行くわけだろうが、作家である石原さんにとっては、その土地の人たちにじかに触れることによって、学ぶべきものがいろいろあったことは事実である。
 農民作家として出発した石原さんの目が、その峡谷の村に向いていったことは自然であるし、もともとその土地出身の先々代から受けついだ農民の血が、石原さんの体内に流れていたこともたしかだと思う。
 石原さんの作品の世界に登場する人物は、石原さんがその土地で小さい時から身近に接している人たちばかりで、わずか二十戸そこそこの村人は、殆どその一人ひとりが親類同志みたいに親しく膝を交えて話し合える間柄だったろうと思う。町で宿屋稼業をしている石原さんが、あれだけ克明に山村の人々や、その生活の実態を描くことが出来たのは、主としてそうした谷問の村とのふだんのふれ合いがあったればこそだと思う。
 石原さんはそれより前、昭和十三年四月号の『新潮』に、「山村の人序」という短篇を発表している。その号は《新人創作号》という特集で、石原さんはその時はじめて、新人として晴れの舞台へ紹介されたわけである。たしか、石原さんが四十歳ぐらいの年齢だったと思う。新人として世に出るにはいささか晩い感じがないでもなかったが、石原さんがこの文章のはじめに紹介した『農民』という雑誌に作品を書きはじめてから、すでに十年余りの才月が経っている。文字通り十年一日のような努力を、地味な農民小説の創作に捧げてきたその執念が漸く酬われたわけである。
 石原文雄氏の『太陽樹』が出版されたのは昭和十六年の八月だった。これは石原さんがはじめて手がけた六百枚に及ぶ書きおろし長篇で、加藤武雄の序文、中川一政の装偵で東京の文昭社から刊行された。
この作品は、市川の隣村の上野本村(現在は三珠町)に在住し、明治の中葉に青年期を過ごしたクリスチャンであり、徳富蘆花とも親交のあった(『みみずのたはごと』の中に出てくる赤沢という人物)一個の聖者として生涯をおくった丹沢正作翁をモデルにした伝記風の小説である。資本主義全盛期、つまり物質万能、実利主義本位の明治という時代を、いろんな困難や障害と闘いながら只ひたむきに真実の生活を求めて、信仰と信念に生きた、貧しい非凡な一百姓の苦悩の半生を描いた長篇小説である。
 石原さんはこの小説にとりかかるまで、相当永い準傭期間を要した。翁とは生前面識があり、死後、翁を何十年問というもの克明に日記やノートをつけていたので、それをたんねんに調べ、また翁と関係のあった人たちの話など聞いたりしてじっくり構想をねっていたようである。そのころ石原さんは会うとよく、この作品はぼくのライフ・ワークだと云っていたが、それほど石原さんはこの伝記の完成を畢生の念願とし、心魂を打ちこんでいた。
この『太陽樹』は、昭和十六年度の「新潮賞」の有力候補作になった。はからずもこの長篇が石原さんの出世作となったわけだが、それまで農民作家、郷土作家として土臭い農村小説を書いてきた石原さんがこうした小説に手を染めたことはたしかにめずらしい。だがこれは石原さんのその後に書いた『現代の河』『青春の笛』『影と影』等に見られる特質ともいうべきものであって、鑓田研一氏も指摘しているように、つまり作者の性格や持ち味がいわゆる農民小説のカテゴリーにおさまるほど狭くはない、その土臭さが必ずしもこの作家のホーム・グランドではないということである。
(
付記この原稿を書き了えたあと、熊王着が来宅、その時の話だと、宇野さんは昭和十九年にも来甲されたとのことだが、ぼくの記憶にないところをみると、ぼくは会っていなかったのかも知れない。で、戦後の入峡は第三回目になるわけである)

中川彰平翁(勝沼町出身)

明治十年山梨県東八代郡相興村(現在・勝沼町に編入)出身
『中部文学』の周辺()承前 
(『中部文学』 昭和46年 第6号 甲陽書房発行 一瀬稔氏著)
 
中川彰平翁は、昭和三十二年(1957)六月二十日、八十一歳の高齢で亡くなった。『中部文学』へ参加した昭和十五年といえば、翁が六十四歳の時である。中川翁はそれ以前に、『蟹の眩き』という感想集と、『墨を吐く』という詩集を出している。その後間もなく、中部文学杜から『酢の綿』という詩集を出し、戦後、『大乗遊戯』、『埋葬の詩』という二冊の詩集を上梓した。
『蟹の眩き』は、昭和二年の十月に東京神田の文化学会から出版されたもので、この著書の出版については、故人になった川合仁、望月芳郎、大木直太郎氏
らの陰の尽力があったということである。序文を加藤一夫と、島中雄三の両氏が寄せ、望月芳郎氏が敏文を書いている。
翁の思想はこの一冊の著書の中に充分尽されていて、その後発表された何百篇かの詩作品は、詩の形式(むしろアフオリズムといった方がいいかも知れない)を借りて、その思想や、人生観を断片的に吐露したものである。
ぼくたちが、『文化人』という文学を中心にした総合雑誌を出していた昭和三十一年に、つまり翁が逝くなる一年前、翁の第四詩集ともいうべき『埋葬の詩』を文化人社から刊行したが、その奥付に、次のような翁の略歴が載っている。
翁は「明治十年山梨県東八代郡相興村(現在・勝沼町に編入)に生まれる。十五才のころ基督教に入り、十八歳で洗礼を受ける。三十歳の時、木下尚江、内村鑑三に私淑、社会主義的思想を植えつけられる。その間、徳富盧花、石川三四郎等と交遊、三十三歳で結婚、四十歳前後、キリスト教会の異端者となるも宗教の世界から離れなかった。 
第二次世界大戦で三児を喪う。現在、老妻と二女に守られながら農事にたずさわり、かたわら詩作に専念する。
中川翁の生前の業績や、人となりについては、ぼくはかっていくどか書いたことがあるが、翁は、加藤一夫氏も書いているように、
「宗教的信仰者といっても少しも抹香臭かったり、バタ臭かったりするところがなかった。」田舎の一百姓であり、一介の野人、俗人に過ぎなかった。教養的に貧しい農村にあって、無理解な隣人から変りものとか、すねものとかいわれて一向に気にとめず、あくまでも孤独で大胆に自己の信念を押し通した。そんな中でよくあれほどに真実な、翁独自の思想をはぐくみ、それを実生活の上に貫いてきたものだと驚かれもする。
島中雄三氏は次のように翁の風貌を語っている。
「叔父(中川彰平)さんは確かに一介の野人に違ひない。甲州の山奥から掘り立ての自然薯を見るように、何の飾りもない野生そのままの姿と心と、そして想想の持主である。
バプテスマのヨハネのような熱情は或は無いかも知れぬ。しかし新鮮恋土の香があくまで人夫の心をそゝる。そこにこの叔父さんの実にいいところがある。
叔父さんは甲州の百姓である。しかし成るべく働かない百姓だといふ。働いても、働いても貧乏する。否、働けば衝くほど苦しくなる田舎の百姓の惨めな生活が、叔父さんにこうした思想を抱かせたのである。聞いてみると一々成程とうなづかれる。曽ては変人とか奇人とか指さししていた人たちも、今ではだんだん『彰平さん』にかぶれて、ぼんやり桑摘む手を休めて此の変人表見直している形である。(後略)
翁の略歴をみると、四十歳ころキリスト教会の異端者となったということだが、それは教会側度と、教会の内面の資本主義的であることに愛想をつかしたのであって、翁の思想はあくまでもキリスト教に根ざしているが、それはむしろ道義的であるよりも人生観的、世界観的な面において生きているといえるのではないかと思う。
『墨を吐く』の中から左に二、三篇を抄出してみよう。

馬と人間

完全なる馬とはただ馬でありさえすればいいのだ。
人間は食慾のない食事をしたり、生えもしない種を播いたりする。

牛は牛でいい。
馬は馬でいい。
鴉は鴉でいい。
皆宿命的な強さを持っている。

猫はいい爪を隠している。
 
晩年の中川翁は月に一度か二度漂然と街へ出かけてきては、友人たちの家を訪ねて歩いた。たいがい白分の家で採れた季節の野菜や、葡萄など手土産に持参して少しずつ置いていくのだった。いつも形のくずれた黒のソフト帽を被り、着古した黒の背広によれよれのネクタイをしめ、竹の太いステッキをついていた。翁はひょっこり玄関先に姿を見せると、きまって、「どうだなあ、みんな元気でやっているかなあ?」と、いかにも打ちとけた言葉で呼びかけるのだった。
つるりと禿げ上がった頭、鼻下の白い髭、度の強い眼鏡の奥の小さな眼を絶えず人なつっこそうにしばたたかせていた。翁は口数は少ない方だったが、ぽつりぽつりと語りかけては時おり、前歯が一本だけ残っている口を大きく開けて、いかにも屈託なさそうに笑うのだった。年に似合わず元気で、会って話していると何か青年のような若々しい情熱が感じられた。
翁は逝くなる四、五年前から神経痛のため歩行が困難になり、「そこし」を患って眼も悪くなった。それでお百姓仕事の手伝いもできなくなり、家に引込んで、毎日詩ばかり書いていたようだ。
翁の詩はせいぜい三行か四行のフラグメント風の短詩で、詩想が、頭に浮かぶと即座にその場にあり合わせの紙切れへ鉛筆で書きとめるといったようなもので、日に十篇や二十篇はたちどころに出来上るのだった。眼がよく見えないので判読に苦しむ文句がかなりあった。
翁はこんどの戦争で三人の息子を喪った。ぼくなど、病死ではあるがかけがえのない年ごろの子供を一人喪っただけで、言語に絶する痛手を受けたが、その上、三人とも戦死された翁の気持ちはどんなであったろうかと、まったく察するに余りあるものがある。
ところが、翁はぼくらの前で決して泣きごとをいわなかった。ことさらそのことに触れるのを避けているのか、いつもけろりとした顔をして、とぼけたようなことをいって済ましていた。
キリスト教徒としての信仰の世界に生きている翁が、現世的ないとなみのはるか彼方の至上的なものにあこがれていたことはわかるのだが、翁の作品に見られるあの痛烈な風刺、アイロニカルな現世批判の裏がわに、人間や、人間生活に向けられた翁のあたたかい優しい眼差しがぼくにははっきり読みとれるように思う。一言も語らず、文字にも表現しなかったが、戦死した三人の愛児に対する翁の内面の慟哭が、ぼくにはいたいたしいほどよくわかるのだ。
詩集『埋葬の詩』は、その殆どが死とあそび、死に憧れ、死をたたえる作品で占められている。ここにある「死」のイメージには少しも暗さがない。明るくユーモラスで、カラッとしている。あるいは、翁はすでに「大乗遊戯」の境地にいて、死を達観していたのかも知れない。だがぼくにはある意味で、この詩集は、戦場の露と消えたわが子への「鎮魂のうた」とも受けとれるのである。

死後

俺が死んだ後も目が出る 豚もなく 推肥は匂う 人は損得で争う

古い倦怠は麻癖し新しき感覚をあたるものは死なり 死なば多くの人が助かる

道楽のように死んだ 葬儀は宴会のように面白かった 古典音楽も 雲にのって行くようだ
革命
昨日は生き 今日は死す 何という 大きな革命だろう
 
昭和十六年五月発行の『中部文学』第五集の《文芸消息》に、「中川彰平氏の『酢の綿』の出版記念会は『中部文学』『山梨詩人会』の共同主催で開峡楼に於いて開催、参会者四十九名にて盛会であった」という記事が載っている。
『酢の綿』は翁の第二詩集で、その出版記念会は、多分、四月に催されたのではないかと思う。
昭和十六年といえば翁がまだ六十五歳の時で、たいへん元気なころだった。詩集の出版記念会で五十名近い参会者が集まったのもめずらしかったし、当時、甲府で一流のレストランでそうした会を催したことも今までに例のないことだった。その記念会で現在記憶にのこっているのは、発起者の提案で、翁に記念として黒のソフト帽を寄贈することにした。翁は外出の折りにはいつも古びて形のくずれた黒のソフトを被っていたので、この機会に新品にとりかえて上げようではないかという主催者の心尽しだった。
戴冠式ならぬ戴帽式が、参会者全員の抽手のうちに行なわれた。帽子を翁の禿頭に載造たのは、石原文雄氏だったか、山内一史君だったか忘れてしまったが、その帽子を頭にいただいた翁は、いかにもうれし気に表情をくずしながら、「ありがとう、ありがとう」と御礼の言葉を述べて着席した。今でもその時の情景がありありと、ぼくの眼底にのこっている。
 

甲斐の古代人 国司 田辺史広足(たなべのふひとひろたり) 

『山梨百科事典』山梨日日新聞社刊 一部加筆

御牧経営

甲斐国司として731(天平3)年に初めて登場する。「続日本紀」に天平312月、甲斐国守外征(げじゅ)5位下田辺広足が黒身にして白もう(髪)尾の神馬を聖武天皇に献上したことが見えている。これは大陸の竜馬思想(天馬思想ともいう)を背景にもった甲斐の黒駒であって、田辺史広足は御牧経営にたん能な国司として派遣されたらしいふしが見られる。それというのは、史(ふひと)は善人(ふみひと)の約で、古代の姓(かばね)の1つであり、多く帰化人で朝廷の文書、書記を世襲する氏である。応神天皇の時に帰化したとの伝説をもち、「古事記」には誉田陵(応神天皇陵)のところで馬をとりかえた飛鳥戸郡の人、田辺史伯孫の物語がある。それらを類推すれば広足は馬の扱いにたん能な帰化人の子孫として甲斐に派遣され、その次の国司馬史比奈麿も同じ系統の姓(かばね)であるから、甲斐の御牧と何らかの関係があったものと思える。当時、馬は大陸からもたらされて歴史は浅く、主として帰化人たちによって東国で牧経営が一般化され、皇室の御牧として次第に発達していった。<上野晴朗氏著>
 

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