韮崎市の家塾 矢崎家塾 矢崎式部好貫(よしつら)『韮崎市誌』中巻 第二章 学校教育 第一節学制以前の教育 一部加筆
北宮地村。矢崎氏は八幡社の神官で代々近郷の子弟を集めて手習・素読・詩文等の教授をなした(家塾・寺子屋調・参照)。
解説特に武田八幡神社・第二三代神官の矢崎式部好貫(安永九・1780〜文久二・1862)は神道の弘布、八幡社の復興のため尽力しているが、また生山正方の高弟として知られ、堀秀成とも親交があり、詩文などにも巧みであって、その家塾を「菱の舎」と称し、子弟の教養に懇切であった(功刀利夫家・資料)。
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韮崎市の偉人
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韮崎市の家塾 長養義塾 山本国雄『韮崎市誌』中巻 第二章 学校教育 第一節学制以前の教育 一部加筆
穴山村石水。城源院住職山本国雄は天保(1830〜44)の未年、檀徒の子弟を集めて寺子屋を開き専ら手習をなさしめた。安改元(1854)年一月下総の隠士、堀秀成を聘して、皇学を教授し、『古事記』・『日本書紀』を始めとして、我が国の古典・歌詞・章句を講じたから、遠近より来り学ぶもの七〇〇を超え、秀才、逸足を輩出した。輿石守郷、八代駒雄(韮崎市偉人伝 八代駒雄 ) 等はその門下生である。
堀氏は明治初年、侍講となって東京に出で、当塾はこれとともに閉鎖した。
解説堀秀成(文政二・1819〜明治二〇・1887)下総古河藩の家老の家に生まれたが、向学の志あつく家督を弟に譲って、富樫広陰の門に入り国学を究め、天保のころから駿河・甲斐・武蔵の国々に出講した。甲斐への滞在は御岳社中の請いによって、ここを本拠として市川大門にいたが、安改元(1854)年、穴山村の守屋真虞清等の招請によって、同村石水に長養義塾を開設して国学を講じた。時に秀成は三五、六歳の壮年期であり、その教授は厳しかったが談論風発、まことに人を引きつけるものがあった。風格を慕って遠近の子弟はその門に入り学問に励んだ。
秀成の国学とするところは国語の学特に、五十音図の一音ごとに有する幽顕二法にわたる妙用を重んずるものであって、ために万葉集は古言・古意を知る基であり、『古事記』、『神代紀(日本書紀)』は古道を知る梯(きざはし)であると教えている。穴山滞在の折著した「古道掟綱」という書物は、おそらく秀成学の入門書であるが、「(皇国は)天の下の本つみ国なれば、正しく神随の道備れるを、上(かみ)フ代より言拳(ことあげ)して道々(ことごとく)しく云はざる国体(くにがら)であって、異国と相違するゆえんを、言霊(ことだま)・巖(いつ)・稜威(みいず)・畏敬(ことかしこみ)・禊(みそぎ)・千足(ちたる)などの古語をもって発としている。また国学を古道または皇学と称している。
時に暮府の威令衰え尊皇の風はここ峡北の地にも押し寄せていた。皇学を説く秀成の下へは、各地から出講の懇請があり、秀成は席の温まる暇なく、各地の門弟塾で熱心なる講演を行っていたことと考えられる。「郡勢一斑」には長養義塾は明治初年まで続いているが、「秀成年譜」によれば安政五(1858)年ごろ秀成はこの地を去っている。ただし、秀成の学はその後も各地の門弟塾で講ぜられていたし、「古道投網」がなお読まれていたことは、明治八(1875)年内藤伝右衛門によって出版されていることによっても証明される(『山梨百科事典』『穴山小学校育周年記念誌』『国学者伝記集成』)。
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韮崎市の家塾 堤家塾 堤常陸『韮崎市誌』中巻 第二章 学校教育 第一節学制以前の教育 一部加筆
南下条村。堤氏は世襲の神職で、代々近郷の子弟を集めて教授をした。堤常陸の時、甲府代官松坂左衛門の命により、学問所を自宅に設け、常陸は学頭を命ぜられ、講師として宮地村神主矢崎式部(好貫)、柳澤村浪人駒井甚蔵(現武川町)、横手村浪人横手彦左衛門(現白州町)が出席して国史・漢学を講じたから来り学ぶ者が多かった。
解説常陸(天明七〜文久三)は少時江戸に出て市川米庵および佐藤一斎に学び、学成りて帰郷、父主苗の学問所を継ぎ、次いで里仁会学頭となったが、その子西園また家学を受けて家塾を経営した(家塾・寺子屋調・参照)。明治初期の教育、下条学校−既に学頭常陸亡く(文久三歿、七五歳)その次男(長男夭)堤左兵衛正矩(学号西園)里仁合の伝統を継ぎ教学に専念するも、学校の職員構成など細部はつまびらかでない。
教学内容も現存書籍等から、里仁舎当時より平易なものに見受けられるが、算法が取り入れられていること、および地誌、博物、日本史、読本等、逐次官学への移向が認められる(『藤井小学校官周年記念誌』)。
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韮崎市の家塾 堯民舎 生山健雄『韮崎市誌』中巻 第二章 学校教育 第一節学制以前の教育 一部加筆
穴山村。天保(一八三〇〜四三)の末、甲府代官松坂三郎衛門の命により黒駒神社の神官生山健雄は、その住宅を校舎として堯民舎と称した。徽典館より毎月二四日学頚深町小七郎が出張、教授し専ら漢籍を授けた。生徒は各村里正(名主)の子弟、甲府勤番旗下の士などで、聴講二〇〇名を下らなかったが、明治二(一八六九)年廃止となった(寺子屋詞・生山昌眞塾・参照)。
解説 松坂代官の計画による北巨摩郡下の公学校とも称すべきものはひとり堯民舎のみならず、郡下へ一〇余か所の講会所を設け、徽典館の教師が日を定めて巡回教授をした。韮崎市内における講会所は堯民舎のほか、次のとおりであった。
駒井村 行余会 毎月二一日 新右衛門
河原部村 弘道会 同 二二日 七左衛門
南下条村 里仁会 同 二三日 堤 常陸
解説2
松坂三郎左衛門は、天保九(1838)年から天保一三(1842)年まで甲府代官であったが、所属の逸見筋・武川筋の文教不振を憂い、天保十(1839)年、二か所の「学授所」を各地に設けて、一般成人有志に対して大学・論語・孝経・孟子等の講義を行った。学授所は「学
校」、「講会」ともいい、地方の人は「学校所」と唱えた。会場は社寺や名主宅・神主宅などを充て、それぞれ会主および取締役・肝煎 などをおき、講師としては小尾保教(兵之進)<甲斐叢記』入集者 小尾鳳山 保教(高根)>、台原丹宮(白州町台ケ原)、徽典館の教師などが当たり、それに松坂代官白身も講義を行っている。講義日は毎月一定していて、講師はこれを巡講していた(『山梨県教育青年史』)。
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韮崎市の家塾 稲倉塾舎『韮崎市誌』中巻 第二章 学校教育 第一節学制以前の教育 一部加筆
穴山村。穂見神社神官生山正方、天明八(1788)年社内に塾舎を開き、甲州各地より生徒を募って教授した。氏は山県大弐とともに加賀実光章より漢学を学び、日野資枝より皇学を受けた博学の人で入門する者が多く、文化の末ごろ最も盛んで門弟四○○を超えた。文政の末年(1830)その死とともに塾舎を閉じた。
解説生山正方(明和一1764〜天保一1830)は、初め加賀美光章について漢学を学んだが、光章は京都において山崎闇斎の高弟、三宅尚斎について教えを受けている。闇斎は垂加神道を唱えた人であって、その学説は宋子学の敬慎説を主として吉田・伊勢両神道の要素を加えた神儒習合思想よりなる、天地開閉の神の道と、天皇の徳とが唯一無二なることを説く神道(『角川・日本史辞典』)であって、正方の家学なるものは多分にこの影響を受けた後、京都で学んだ日野資枝の和歌・有職(朝廷・武家の官職・典例に関する知識)など、国学による学問が前記の神道説に大成されたものと同時に、造詣深い漢学の力とが、正方の家学として子弟に共鳴を与え、俊秀を輩出せしめたことと考えられる。
俊秀なる門人としては宮地の矢崎好貫、円野の歌田隼人、駒井の宮澤重礼、柳澤の一条信郷、更科の腰巻正興、日野春の輿石豊一、横手の横手保民、大泉の森越義教、横手の古屋義貴等があり、「天正以後峡北の地に文学を称えたのは生山氏をもって鼻祖とする」(県
誌編纂会『若尾志料』)と称えられている。
交友なお、正方と交友の人々としては、京都の千種有功、同じく加茂季鷹をはじめ、山県昌貞(大弐)、萩原元克、古屋蜂城、志村天目、古屋眞幸、上野広俊、辻保順、飯田正紀、山本忠吉、野澤昌樹、堀内憲時等がある。
天保一〇(1839)年門下の手で穂見神社の境内へ「藤原正方之碑」(「生山正方之碑」)が建てられている(『山梨百科事典』『穴山村志』)。
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