韮崎市の家塾 武田秀治法印家塾『韮崎市誌』中巻 第二章 学校教育 第一節学制以前の教育 一部加筆
下条南割村。法印歴代家塾を開き郷党の教化をなしたが、その創始の年時を知るよしがない。第一四代秀海(安政六年没)の時最も盛大であった。第一五代秀穏、第一六代栄秀に至り、維新後之を閉した(家塾・寺子屋詞・参照)。
解説 法印は武田信武の六男信行(秀潮)を祖とする当山派修験(醍醐寺を本所とする高野山系の山野において霊験を得る法を修する験者)であって、永寿山文殊院と称し、本尊を開運不動尊とする、武田家代々の祈願所である(『甲斐国・社記寺記』)。
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韮崎市の偉人
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韮崎市の家塾 歌田家塾『韮崎市誌』中巻 第二章 学校教育 第一節学制以前の教育 一部加筆
下円井村。歌田氏は同村宇波刀神社の神官であって、寛永年間(1624〜43)より以降、昌吉・豊昌・昌豊・森村・昌行・昌房・昌保に至る数代、明治の初年まで郷党の教化に当たり、和漢の学を教授した(家塾・寺子屋調・参照)
解説寛永一七(1640)年、初代昌吉は笈を負って上京、日野家に師事して国学ならびに武道を修め、同じく二〇年郷里に帰り、家塾「耕餘館」を開設、以来家嫡はしばしば上京して勉学を怠ることはなかった。
家業とするところは、末子学を中心として、陽明学の見知(目でみ、心にさとしみる)によって、神明をもって良知(心の先天的な働き)の本体として、神官の尊ぶべき所以、祖先の崇拝すべき意義を明らかにすることを本旨とした(歌田昌収家・資料)。
(注)朱子学 物の道理を究め尽くして、我が後天的の知を究め、人格・学問の成就を期すとする、采の朱薫の見解。江戸時代の官学。
(註)陽明学 物に存する心を正し、先天的の知をみがき、人格・学問の成就を期すとする。明の王陽明の見解(『広辞苑』による)。
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山梨県所縁人 田沼健(たぬまけん)甲府測候所を新設『山梨百科事典』山梨日日新聞社刊 一部加筆
山梨県知事生、1846(弘化3).11.16−歿、1909(明治42).7.6。
新潟県高田村蓮池横町20番地で、高田藩士田沼善太夫、通称恒の長男として生まれる。名は利遂、通称周太郎。高田藩20石取り。木村容斎の高弟。1869(明治2)年9月高田藩史監、翌年10月藩少属等出仕。廃藩置県で柏崎県へ出仕。
1873(明治6)年8月新潟県少属、県令楠本正隆の知遇を得て、彼が東京府知事となるやその下小書記官となり、1883(明治16)年6月神奈川県大書記官、1885年6月ハワイ国皇帝から勲章受領する。
山梨県知事1893(明治26)年3月21日、第9代山梨県知事となる。在任3年6カ月で1896(明治29)年8月12日退官後は横浜に閑居した。
山梨県では1894(明治27)年コレラ、赤痢の流行にあたり防疫に大功があった。また1895(明治28)年甲府測候所を百石町(丸の内二、三丁目)に新設、1895(明治28)年秋の県会では予算にいちいち修正を加えるなど恐れられた。<鈴木喜太郎氏著>
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甲斐の偉人たち 歌田靱雄(ゆきお)・稔 韮崎市『甲斐史学』第18・19合併号 昭和38年 佐藤八郎氏著 一部加筆
歌田靱雄略伝 歌田執雄は通称を兵部といい、安改元年(1858)、下円井村諏訪神社(宇波刀神社)祠官、丹後守藤原昌之の嫡男に生まれた。
歌田氏は世々京都白川神祀伯家、卜部神道管領家に仕え、また日野家にも縁故深く、歌道・有職にくわしく、武川筋神職総代として、国主大名の格式で将軍家年賀登城を許された家柄である。
執雄は幼にして府中御崎神社両官、北辰一刀流・心形刀流の達人、水上貞道につき、神典、和漢籍、武芸の伝授を受けた。貞道は敬神勤王の志厚く、土佐の板垣(旧姓乾)退助と旧交があつた。
靱雄が志学の幼齢を以て断金隊に加わり、殊勲をたてた陰には、恩師貞道の教育が大きな支えとなっていたのである。
執雄の武芸は、貞道の外、千葉周作の高弟森要蔵により宝蔵院流水月派槍術の伝授を受けている。城中における靱雄の活躍は、満々たる武芸の自信に基づくことであったと思う。
東北が鎮まると、明治二年(1869)三月を以て断金隊は解隊され、靱雄は、再び学問修業に進み、神田大和町の碩学井上頼園の門に入った。この『断金隊出陣日記』の奥書にも、その浄書に際して頼囲の親しく校訂したことを記している。研資一年余、頼圀の推挙を得て水戸弘道館に学ぶことを得た。弘道館は当時昌平校と並んで綜合大学であった。当時の学友に阪正臣・大口鯛二(いづれも後年御歌所寄人)・佐野広乃(旧水戸藩士、本県に来り一宮浅間神社宮司、峡中新報記者となる。本県政党史上の先覚者)らがいる。
明治六年(1873)弘道館を卒業、帰郷すると、直ちに創立直後の公立円野学校初代校長に迎えられた。弱冠二十歳。在職四ケ年の後、明治十年には、抜擢されて徽典館授頭に任ぜられた。当時の門下生に、内藤昌英(第二高等学校−仙台−
教授)・志村勘兵衛(東山梨郡日川村−山梨市−歌田の素封家)らがいる。
明治十五年(1882)、教職を辞して家に入り、円野村諏訪神社(宇波刀神社)・郷社南官神社・同武田八幡神社など諸社の祠官を勤めた。
明治二十年(1887)円野・清哲・神山三村の戸長に官選され、同二十二年(1889)八月、新町村制による初代円野村長に民選され、同二十六年(1893)九月、北巨摩郡会議員に当選、地方自治に貢献した。
秋雄の交友範囲は頗る広く、主な人物に八田達也・田辺有栄・栗原信近・三枝七内・千野林蔵・渡辺青洲・依田道孝らが挙げられる。
明治三十五年(1902)四月十五日、靱雄は中道にして病に斃れ、諸人痛惜のうちに洵爛多彩な生涯を終わった。行年四十九歳であつた。
靭雄は、資性高邁、名利に恬淡で、終生武芸に意を用い、早朝木剣を振ること数百回、終って正気歌・弘道館記・出師表などを高吟朗誦するを日課とした。明治十九年(1886)、稔と改名したが、本文では便宜上靱雄で一貫した。
靱雄の令息昌翰翁は、当年八十六歳、神職として、又教育界、郷土史学界の耆宿である。令孫昌収氏は郡下鳳来小学校長(白州町)で、その容貌は靱雄の再来を思わせるという。(佐藤八郎氏誌)
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