山梨県偉人伝 地名八田(石和)八田達也『山梨百科事典』山梨日日新聞社刊
生、1854(安政1).8.12−歿、1916(大正5).6・4。
甲斐国山梨郡栗原筋歌田村(山梨市)の志村家に生まれ、八代郡鵜飼村(石和町)の八田家の養子となる。
1876(明治9)年同村の戸長となり、このころから養蚕改良を志した。1882(明治15)年県会議員、翌年八田らの提唱になる山梨養育協会設立。1884(明治17)年福島県の温度育法を参考に、山梨県内に温度育の普及を図った。
その後、県蚕糸業取締所頭取、県蚕糸協会会長を勤め、県庁にはいって農商課長、山梨県技師を歴任、1899(明治32)年東八代郡長、翌年北都留郡長に任命されたが辞任、1908年(明治41)年山梨県農会長となった。「蚕事輯説」「新撰養蚕書」などの著書がある。
1930(昭和5)年の建碑になる八田の彰徳碑が、甲府市舞鶴公園内にある。
<飯田文弥氏著>
|
甲州市の偉人
-
詳細
山梨県偉人伝 地名八田(石和)八田章平『山梨百科事典』山梨日日新聞社刊
山梨県石和町の区の1つ。武田氏館が市部にあったとき大廊と称して家臣の屋敷を構えた所であったが、躑躅ケ崎に館を移したとき家臣もまた府中に移り空地となった。信州先
方衆の末木市之丞が戦功によって武田信玄からこの地8町8反歩(8・8㌶)をたまわり、一族とともに移り住み、地名を八田とし自分も八田と姓を改めた。
八田章平1868(慶応4)年、新撰組隊長から入隊を強要された八田章平は入隊を固辞し、逆に旧武田浪士63人で護国隊を編成して官軍に属した。章平は市之丞の嫡流であり、その屋敷、書院は県指定の文化財である。甲州道中が官道として開かれてからはその沿線に人家も増加し、宿八田、沖八田の2部落となった。
1880(明治13)年、明治天皇県内ご巡幸のみぎり、掃き立てから絹布になるまでの養蚕の実態を伏見宮殿下の台覧に供した八達館主八田達也も八田氏の一族で、その屋敷跡には当時の屋敷神が森の中に祭られている。大廓の地名は現在も字名として残っている。
<鶴田利達氏著>
八田家書院(はったけしょいん)
山梨二県指定文化財。石和町八田の八田政恕の住宅にある別むねの書院である。
八田家は武田氏の家臣で、信玄のころには守卸蔵前衆として仕えた。のち徳川氏となり郷土の家柄として幕末に至った。古くから当地に邸宅を構え、徳川氏の御朱印により安堵された屋敷には、周囲に土塁と堀を設けた外郭が備えられ、現在もその一部が保存され、豪族屋敷の面影をしのばせている。当初の建物は、兵火や笛吹川氾濫などにより変遷を免れなかったが、書院だけは江戸(1603−1867年)初期の建築で、代々の努力により保存されてきた。「永。屋根は入母屋(いりもや)造り茅葺である。内部は床、書院つきの奥の間と床だけの中の間、玄関を付属した三の間が並び、数寄屋風の影響を認める簡雅な意匠を表現した書院遺構である。なお関係資料として「永々日記」「家政歴年誌」「地相絵図面」「八田村古絵図」「土蔵棟札」の5点がともに県文化財に指定されている。<羽中田壮雄氏著>
|
山梨県偉人伝 抜隊(ばっすい)『山梨百科事典』山梨日日新聞社刊
生、1327(嘉暦2)−歿、1387(元中4).2.20。
相模中村の生まれ。いみな(諱)は得勝。抜隊は法号。
出雲雲樹寺孤蜂覚明和尚に参じ、「万挙を隊と道(い)う」の語から抜隊の号を与えられ、印可(宗門の免許皆伝に当たる)を受けた。平生富士山を愛し、近江に住んだころ富士山に法を説いた奇瑞を夢見たといわれ、ついに甲斐に入国した。守護武田信成、厚く帰依して塩山の地を寄せ、向岳庵を創建して開山に請じた。南朝後亀山天皇は皇運回復を祈願された。1547(天文16)年、武田晴信の奏請により、勅命により「恵光大円禅師」とおくりな(謚)され、以後向岳寺を改めて向岳寺と唱えることになった。<佐藤八郎氏著>
姓は藤原。1378(天授4)年武蔵から入国、高森(塩山市上竹森)にはいり、1380(天1授6)年向岳庵をはじめた。戒律きびしく、鎮守罰酒神を勧請、正法興隆を祈念、行道持戒の僧を擁護した。<値松又次氏著>
|
山梨県偉人伝 田辺有栄(たなべ ゆうえい)『山梨百科事典』山梨日日新聞社刊 一部加筆
生、1845(弘化2).10.7−歿、1911(明治44).9.14。
大小切税法廃止反対運動甲斐国山梨都下於曽村(塩山市 現甲州市)の豪農の出。1872(明治5)年大小切税法廃止反対運動の請顔文を起草した。
実業界・政界1878(明治11)年貸附会社盛産社を創立、翌年県会議員、山梨の民権運動の指導者となる。1880(明治13)年峡中同進会の国会開設請願総代となり、また明治天皇巡幸の際、古屋専蔵とともに国会開設を直奏しようとした。1890(明治23)年初の衆議院議員となり、その後殖産事業に責献した。<飯田文弥氏著>
|
山梨の侠客 黒駒勝蔵・武居の吃安 甲州の勤皇博徒今川徳三氏著『日本の歴史』「任侠の群像」人物探訪10
暁教育図書株式会社 昭和50年
次郎長と勝蔵 天田五郎の『東海遊侠伝』(明治十七年刊)によると、清水の次郎長が黒駒の勝蔵を目の仇にするようになったのは、文久元年(一八六一)十月以降のことだとしている。
次郎長はこの十月、伊勢古市の丹波屋伝兵衛の仲介で、伊豆の赤鬼金平と菊川宿(静岡県金谷町)で、仲直りの手打式を行っているが、その席に勝蔵は金平側の見届け人の一人として顔を出している。
その前後の話であろうが、勝蔵の子分、秀五郎、吉五郎その他五、六人が、当時興津に住んでいた相撲取りの盛之助の家を襲い、袋叩きにした上に、家財道具を持ち去るという事件をひき起こした。
これは盛之助が勝蔵の賭場で借り星をつくりながら、返済しなかったからだが、当時、盛之肋は病身であったことから近隣の同情をあつめたらしく、誰いうともなく次郎長一家の仕業だと、噂になった。
悪者にされた次郎長は腹を立て、早速勝蔵に抗議して返答の次第によっては殴り込みをかける、という強硬なものであったから、びっくりした勝蔵は秀五郎の首を持参の上、盛之助の家財道具を返して、詫を入れてきたので、一応は納まったものの、それから両者の間がしっくりせず、互いに反目するようになったという。その年、次郎長四十二歳。勝蔵は三十一歳であった。
竹居の吃安の島破り 勝蔵は天保三年(一八三二)甲州八代郡若宮村(現山梨県東八代郡御坂町若宮・旧黒駒村)の名主小池募兵衛の次男として生まれたが、三人兄姉の末っ子であった。
楽天的で太っ腹な性格であったと伝えられているが、家柄の良さと末っ子として甘やかされて育ったからであろう。少年時代、武士を志して村内の仲間二人とともに江戸に出たものの、思惑通りにならず村に戻った。
ところが百姓仕事も気に染まず、博突に手を出し、博徒の群れと交わるようになったが、名主の倅ということで博徒たちも一目おき、なに事につけ別扱いに
する風であった。
そしていつの間にか、八代の綱五郎、塩田の玉五郎といった、のちに黒駒一家の中核となる者たちの兄い分(兄貴分)にまつりあげられ、当人もいい気分でいたようである。
その程度なら単なる山家の博突打ちとして、何ということのない一生を終えたであろうが、安政五年(一八五八)八月になって、勝蔵の運命を決定づける事件が起きた。竹居の吃安の島破りである。無論勝蔵は吃安とのめぐり逢いによって、自身の運命が狂わせられようとは、夢にも思ってみなかったのだが、その年勝蔵は二十七歳。吃安は四十八歳であった。
武居の吃安吃安は八代郡竹居村(現八代町竹居)の名主中村甚兵衛の四男だが、少年の頃間違いがあって同村の者に傷を負わせ、そのために村を放逐されて博徒になったという経緯のある男で、嘉永二年(一八四九)の博徒狩りに引っかかって、伊豆新島に島送りになった。
博蛮常習者の島送りは例外をのぞいて終身刑であったから、在島八年にして島を破る決意を起こさせたのだが、竹居村に戻ってみると、勝蔵が〝良い顔〟
でいる。
そこで身の保全を図るため弟分として迎い入れ、吃安一家の筆頭に据えるとともに、連れ歩いて勝蔵のテコ入れをした。
勝蔵も千㍍ばかり御坂峠寄りの戸倉村を本拠にして、勢力の拡充につとめたので、子分も最盛時には九十余名を数えるという勢いになった。
吃安は島破りの際、島名主の前田吉兵衛という老人を殺している。二重の罪を犯した重罪人であるので、いつ迄も安全でいられる訳はないのだが、吃安にとって都合のよいことに、生まれ在所の竹居村と、その周辺の何か村かが、田安家の所領地であったことである。
いってみれば天領の中にポツンと、田安家の所領地がある、という形であるから、石和代官所の者もうっかり踏み込めない。逮捕するにはいちいち田安家の許可を得なければならぬ、という厄介な土地である。吃安はその盲点を逆手にとって、所在を常に転々としている。
尋常な手段ではいかぬ、とあって八州廻りの出動となった。ところが八州廻りの手先である岡引きといわれる土地の道案内人が、吃安一家の脅しにおびえて、命令通り動かなかった。
祐天吉松 手を焼いた八州廻りは、勝沼(現勝沼町)を本拠にして、田安家の岡っ引きをつとめる祐天吉松(のち新徴組に入り山本仙之肋と改める)を起用、吃安の逮捕に乗り出した。
祐天は早速、館林の浪人(群馬県館林市)犬上郡次郎という剣客や、正体不明の三蔵という博徒を連れて来て、勝蔵の紙張りに接する国分村(現一宮町)に一家を張らせて、子分を集めたのだが、短時日に六十余人を擁するという快調ぶりで、黒駒一家を脅かす存在にのしあがった。
祐天の狙いは、勝蔵を刺激すれば、黒幕の吃安もきっと姿を見せるであろうから、そこを狙って一網打尽という計略である。で、三蔵子分が勝蔵子分をだまし討ちにすれば、勝蔵子分がその報復を加えるという、血なまぐさい抗争が、文久元年(一八六一)三月から五月にかけてくり返され、同月三十一日には双方喧嘩仕度で金川原に出張り、決着をつけようというまでにエスカレートしたが、肝心の吃安は姿を見せず、勝蔵らは捕方の包囲を受け、その囲みを破って逃げ出したものの、それ以来甲州に定住できぬという割りの悪い羽目に追い込まれるのである。
その上、吃安は犬上の甘言にうまうまと乗せられ、同年十一月に捕らえられ、翌年十月には、一説に毒殺といわれるが牢死するのである。
斬首 文久元年五月、甲州を迷われた勝蔵は駿州にのがれた。従って『東海遊侠伝』に記しているように、菊川宿の手打ち式に出席したのは事実であろうが、遊侠伝は続けて、その後勝蔵は甲州、信州を転々としながら、泥棒行脚の旅を続け、これが発覚して信州の岡っ引き岡田の滝蔵に追われて、東海道に逃げ込む身になったのだ、としている。
事の真偽は別において、吃安の牢死は当時、駿遠州を転々としていた勝蔵の耳に入り、憤激した勝蔵は吃安の恨みを晴らすべく、子分らとともに元治元年(一八六四)の三月と十月の二回にわたって、甲州入りをした。
三月は失敗したが十月は、目指す仇の一人犬上が、等々力村(勝沼町)の万福寺の庫裡にひそんでいるのを突きとめて襲い、首を刎ねて見事に恨みを晴らし、余勢を駆って黒駒の山中に立てこもり、三蔵の首を狙った。が、果たせぬまま年を越し翌慶応元年(一八六五)六月までねばる間に、カイセンに感染、治療のため山を下って西湖村(富士五湖の一つ西湖・現足和田村)に滞在して間のない七月三日、迫手の手がのびたことを知って一家を解散、東海道から勢州に向かった。
例の荒神山の喧嘩には穴太(あのう)徳に加勢して話題をまいたりした後、明治元年正月三日、鳥羽伏見戦争をきっかけに結成された、倒幕の綾小路らの赤報隊の一員として加わり、名も小池勝馬と改めた。
少年時代の夢が三十七歳にして実現したのである。
その喜びを明治四年作成の「勝蔵口書き」の中で、
良き手引きを得て召し抱えの身になったのだ、と率直に申し立てているのだが、事志しに反して赤報隊は京都の作戦計画の都合で、中途から引き返し命令を受けた。これを不服として進撃して行ったのが相楽総三の率いる一隊で、偽官軍ときめつけられて相楽以下幹部の者が首を射ねられるという悲運なことになって
いる。
勝蔵の属した部隊は命令を奉じて京都に戻り、再教育の上、五月、四条隆謌(たかうた)に預けられて、徴兵七番隊となったが、兵の大部分は近江人(滋賀県) で占められていた。
勝蔵は江戸から奥州に転戦、京都に戻り、更に東京と改称になった江戸に、明治天皇の供奉の一員として東下、といった目まぐるしい日々を送るのだが、明治三年の軍制の改革で解隊に追い込まれていた。
隊名も東京第一遊軍隊と変わるなど、余計者扱いになったので、転身するべく仲間数人とともに、甲州の黒川金山の開発をもくろんで八月、一応十日の休暇をもらった。十日ばかりで掘り当たるはずがなく追い目になって掘り続けていると、脱走と官名詐称の疑いあり、として手配の身になった。それを知ると伊豆下田の蓮台寺温泉に行き、自首の形でつかまったのは翌四年一月二十し五日。身柄は甲府に送られた。
ところがその一か月ばかり前、原隊は解隊、仲間は皆故郷に引きあげていた。勝蔵の脱走罪も不成立になるところだが、元治元年の犬上殺しその他の罪は帳消しになっておらぬ、という歯切れの悪い理由で起訴され、斬に処す、という判決があったのがその年の十月十二日。中一日おいて山崎の仕置場で斬首、という手回しのよさで勝蔵は命を断たれた。時に四十歳。人生これからひと花咲かせようという年頃であるが、時の権力者のご都合主義にふり回された一人であった。
甲斐の侠客名が何人も見える
|



