山梨の偉人たち 田辺冶通(たなべはるみち)『山梨百科事典』山梨日日新聞社刊 一部加筆
生、1878(明治11).10ー歿、1950(昭和25)・1・30。
山梨県神金村(塩山市 現甲州市)の出身。
郵便1905(明治38)年、東京帝国大学を卒業して横浜郵便局長を振り出しに、逓信省参事官を経て1919(大正8)年大阪逓信局長、翌年東京逓信局長、さらに本省逓信局長を歴任した。
政界1927(昭和2)年大阪府知事に任ぜられ、1932(昭和7)年建設の満州国に渡り、同国参議に就任、1939(昭和14)年平沼内閣の内閣書記官長、次いで逓信大臣となり翌年、貴族院議員に勅遺された。さらに1941(昭和16)年、第三次近衛内閣の内務大臣に就任した。 <飯田文弥氏著>
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甲州市の偉人
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山梨の偉人たち 田辺宗英(たなべそうえい)甲州市『山梨百科事典』山梨日日新聞社刊 一部加筆
生、1881(明治14)年・12.15−歿、1957(昭和32).3.18。
実業界於曽郷に属した山梨県七里村(塩山市 現甲州市)の出身、田辺七六の弟。1909(明治42)年早稲田大学法学部を卒業して東京電灯に入社、続いて三ツ引商事、東洋モスリンの常務取締役をはじめ数多くの会社の重役に就任、
ボクシングまた報国新報社長や1927(昭和2)年には帝国拳闘会を創立して会長となった。その後、後楽園スタヂアムの社長となり、また日本プロボクシング・コミッショナーに就任、スポーツ界に果たした功績は大きかった。
政界1955(昭和30)年12月、民主・自由両党合同になる自由民主党山梨県連結成のさい、初代会長に迎えられた。<飯田文弥氏著>
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山梨県偉人伝 田辺七六(たなべしちろく)『山梨百科事典』山梨日日新聞社刊 一部加筆
生、1879(明治12).3・1−歿、1952(昭和27)・8.1。
山梨県七里村(塩山市 現甲州市)の豪農で、酒造業を営む田辺七兵衛の長男として生まれる。1899(明治32)年明治法律学校を卒業して家業に従事する。
政界1907(明治40)年村会議員、1915(大正4)年県会議員に当選。間もなく政友会山梨県支部幹事長となって、当時の非政友派(山梨同志会)に対する政友派の劣勢挽回に努力し、その名声は「カミソリ将軍」の異名で称せられるようになった。この間、七里村長にも就任。
実業界続いて実業界進出を企て、政.財界で知られていた若尾逸璋八への膝下(しっか)にはいり、1921(大正10)年富士水電株式会社の常務取締役となったのが、実業界への第一歩。これを初めとしてその後、中央電力、東北電力、富士川電力など、電力事業に顕著な活動が見られた。この間、世評に「犬猿の同居」やと騒がれた政敵河西豊太郎との共同になる東北電力の経営は有名。
政界1924(大正13)年第15回総選挙で衆院議員になり、以後1942(昭和17)年第21回総選挙まで連続当選、この間、政友会支部長、政友会本部常議員から総務などを歴任して1936(昭和11)年、農林政務次官に就任、さらに政友会顧問となり、1939(昭和14)年5月政友会幹事長となった。翌年10月大政翼賛会総務、1945(昭和20)年3月大日本政治会衆議院部長。
実業界一方、実業の面ではその後、電力事業のほか、東洋モスリン、関東ガスをはじめ諸会社の重役、後楽園スタヂアムの会長に就任し、1939(昭和14)年日本軽金属を創立して副社長となった。
政界太平洋戦争後、日本進歩党の結成に参加して常任総務となったが公職追放をうけ、解除後は自由党へ入党している。
没後2年を経た1954(昭和29)年、彰徳碑が塩山市向岳寺に建てられ、また伝記「田辺七六」が刊行されている。<飯田文弥氏著>
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