甲斐の武将 勝沼氏(かつぬまし)『山梨百科事典』山梨日日新聞社刊 一部加筆
武田氏の一族。武田信縄の子。信虎の弟に五郎信友があり、勝沼氏を称した。
勝沼(山梨県勝沼町 現甲州市)は甲斐国栗原筋の村名である。
武田系図に、信縄の男信虎の弟次郎五郎信友(安芸守)が勝沼殿と称し1560(永禄3)年11月3日死、法名不山道存庵主とあるが、1520(永正17)年都留郡岩殿七社権現の棟(むな)札に「御奉加鳥目百匹武田左衛門大輔信友」と記され、「妙法寺記」によれば1535(天文4)年8月22日、相模の北条氏綱が甲斐郡内に侵入し、小山田越中守信有の軍が敗れ、小山田弾正有誠らとともに武田左衛門大輔信友が討ち死にしており、特に勝沼勢は240人討ち死にしているとあるので、系図の永禄3年は誤りである。
加藤氏信友の子は男2人。兄は丹波守信元。弟は丹後守信厚で加藤氏を相続した。「甲陽軍鑑」などでは、勝沼氏が異心あり、武蔵の藤田右衛門と内通したが露見し永禄3年11月3日山県昌景に処断されたとあるが、この勝沼氏は信友ではなくてその子信元である。系図はそれを誤って信友の下に注記したものであろう。
なお、加藤駿河守信邦の子に加藤丹後守景忠があり、郡内上野原の城主となり、1582(天正10)年3月12日武州箱根崎で死、年43。法名傑宗道英居士というが、信友の子丹後守信厚と同じ人物であるか否かは明らかでない。
理慶比丘尼また、武田氏滅亡を記した「理慶尼記」で有名な理慶比丘尼は、勝沼入道不山すなわち信友の女であり、初め雨宮氏に嫁したが、勝沼氏が処断された時雨宮氏と縁を断ち、柏尾山(大善寺)にはいり、護摩堂の阿闇梨(あじやり)慶紹を師として尼となり、山内に庵室を結んで住んだ。1611(慶長16)年8月17日死、大善寺に墓がある。
丹波守信元の子は僧となり、日閑と称し、相模の今井村信隆院に住したが、1640(寛永17)年寂。<服部治則氏著>
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甲斐の武将
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甲斐の武将 加賀美遠光(かがみとおみつ)南アルプス市『山梨百科事典』山梨日日新聞社刊 一部加筆
生、1143(康治2)年、甲斐国若神子(山梨県須玉町)逸見の館で生まれ(?)幼名は豊光丸。甲斐源氏の始祖新羅三郎源義光の曽孫で、武田氏の始祖太郎信義の弟にあたる。
今の若草町加賀美に居城、大井、奈胡東・西河内領(峡西地方から南巨摩郡鰍沢町にかけての一帯 富士川町)および於曽郷(塩山市)を治め強大な勢力を誇った。1170(嘉応2)年、高倉院の病気治癒祈願の功により昇殿を許され、定紋「三階菱」をたまわるとともに近江国志賀郡の管領に任じた。
また1180(治承4)年、有名な富士川の合戦に長男光朝(秋山)、2男長清(小笠原)を従え、知勇もって敵を撃波、余勢をかって平家追討軍として一の谷、屋島・壇の浦に連戦した。その戦功により後鳥羽院恩賞をたまい、信濃守兼北陸道探題となる。また1189(文治5)年の奥州平定には大将として参画、源頼朝の勢力拡大に多大の功があった。
だが一方、頼朝の権力欲の犠牲者としてわが子太郎光朝を失う悲運に見舞われている。遠光は長命で、ゆかりの寺「法善寺記」に「寿齢八十八歳ニテ卒ス、法諱シテ遠光院殿長本深甚誉大功大居士卜号ス」とある。
<塩沢忠氏著>
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