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柏尾山大善寺の歴史『裏見寒話』による
○薬師如来 柏尾村 御朱印寺領多し
          別當 眞言宗 柏尾山大善寺
一部加筆
 
仁王門に下馬札あり、本堂は善美厳重なり、毎年四月十四日祭礼、護摩を修し、「だき切り」(惰鬼切と云う意味か)と云、一丈余の柱を建、横手に材木を結び、山伏是に登りて火を打、香を焚き、錫杖を振て念咒(ネンジュ)祈祷をす、彼横手に藤の輪の掛あるを、刀を放て落す、是を「シキ切」と云。
七覚山
翌十五日は七覚山に此祭あり、此祭に麻上下を着し、鎗を持たせたる士参詣する、村里の者御代参と称して参詣の人を彿う、彼の士も揚々として寺中を過ぐ。  
予、之を里人に訪うに、東郡桜井村に、小倉何某と云える浪士なり、田地多く貯え、長屋門関書院富饒に見える由、由緒有り今日ここに出られると答える、その後同勤の楼井信厚(号市右衛門晶)の話を聞くに、小倉は江府(江戸)三枝家より十人扶持を送られる、但しこれは三枝家の代参として、横根の観音へ月参の代参、また相尾の祭にも代参として出るに就て、扶持米を得て士に列す、
武田信虎と三枝氏
抑その謂れを尋ねれば、武田信虎がひととせ柏尾の奥山に遊猟せられしに、古松の枝上にて頻(シキ)りに小児の泣声開えければ、人を登せて是を見るに、彼松の枝の三ツに分れたる真中に、當歳の小児挟り居れり、信虎怪しみ養育するに、成長に随い聴明世に勝り剛強また雙(ソウ)なく、寔(マコト)に智勇兼備無比の人傑たるを以て寵賞他に異り、先祖の知れさるか故に、三松(さんかいまつ)を紋とし、三の枝を取て三枝を姓氏とす、此由緒に依って、今以て月々代参を彼小倉に勤めしむ、横根は守本尊也と、斯の稀有の故実に依って、柏尾にての賞翫(しょうがん)夥(おびただ)しとぞ、(小倉は信厚より姓を譲りて桜井と名乗らしめる、その先桜井、勢州(伊勢)の臣として忠良跨股たる故にや、今は桜井縫殿右衛門と号す、
守国将軍・三枝氏
昔より云伝わるに、大古守国将軍と云人あり、何れの国にか夷起りけるに、勅して八幡の神託を聞かしむるに、丹波の国篠山の大けん寺の川に柳瀬あり、址を以て討しむへしとなり、果たして山の中松の三枝なる處に童子あり、これを守国将軍として討しむとなり、その子とも三枝氏なり、其後武州石原に移りて別れたる子孫を石原氏とする、其後甲州野呂村に住居せり、彼山に毎夜々々光物飛来ると云う、役人行って見れば石原に残せし守本尊欒師なりき、守国が袖に飛入りけると也、(按ずるに、これは守国に非ず、守国の子孫なる哉)直ちに柏の葉をもってその所に置き、寺を建て柏尾山と名付たりと云、故に野呂村辻にて生れし子孫皆辻氏という、依りて三枝、辻、石原の三氏は同姓なりと云う、按ずるに、この書の説甚だ不審なり、先の守国将軍覚束なし、大けん寺もその字なし、何れの国に夷起已前にもあらば、この類の先祖もあらんか。
駒嶽(駒ヶ岳)
『甲斐国志』巻之三十 山川部第十一 巨摩郡武川筋
従五位下伊予守 松平定能編輯 文化13年(1816)刊
 
〔駒カ嶽〕 
横手、台が原、白須、諸村ノ西ニ在リ、樵蘇スル者山祖干ヲ貢ス、山上ヲ甲信ノ界トス、大武川ニ沿イテ南方山中ニ入ル事若干里ニシテ、石堂二所アリ、下ヲ「勘五郎ノ石小屋」卜呼ヒ、上ヲ「二條ノ石小屋」卜呼フ、此ヨリ上ハ絶壁数拾丈ニシテ、攣援スべカラス、樵夫山伐ノ者卜雖モ至ラサル所ナリ、遠ク望メハ「山頂巌窟ノ中ニ駒形権現」ヲ安置セル所アリ。

富士山 甲斐国志

甲斐國志巻之三十五 従五位下伊豫守定能編輯----山川部第十六ノ上都留郡----
 郡ノ西南に当り南面は駿河に属し、北面は本州に属す。
東南は大行合(八合目)より東の方、大天井、小天井、それより下りて「七ツヲネ」
それより「天神峠」見おろし「かご(籠)坂」へ下る事百五間、又東南へ下る事二丁三拾七間にして、甲駿の国界たり。西は「藥師カ嶽」より「無間谷」、「三ツ俣」それより、長山ノ尾崎に下り、「三ヶ水」、「狐ヶ水」、裾野に至りて「裂石(われいし)」まで、また甲駿ノ國界ナリ。八合目より、頂上に至りては、両国の境なし。東南、籠坂峠より西北「裂石」に至るまで裾野の間、拾三里故に古へより「駿河の富士」とは云えども、七分は本州の山なり。
天正五年武田勝頼、浅間明神への願書に古人云。三州に跨ると雖も、過半は甲陽の山なり、とあるはこれなり。(古より三州に跨る諸記にあれども、実は二州のみ)登山路の北は、吉出口、南は須走口、村山口、大宮口の四道なり。そのうち須走道は八合目に至て「吉田道」と合す。故にこの所を「大行合」と云う。村山道、大宮道に合す。故に頂上に至ては唯南北二路なり。南面を表とし、北面を裏とすれども、古より諸園登山の族人は北面より登る者多し。故に北麓の村落吉田、川口二村に師職ノ者数百戸ありて、六七両月の間参詣の族人を宿せしむ。これにて案内者を雇ひ、これに旅具等を持たしむ。
吉田より「鈴原」まで三里、道険ならず故に馬に跨(またが)り登山する。まず、「山役銭」として参詣の旅人より、師職共百二十文請け取る(古は二百四十四文なりしとぞ、今はその半減なりと云う。この内不浄祓いの料三十二銭、役行者堂二十銭。(賽銭)「中宮」三十二文、(内十六文は休息料)。
「薬師が嶽」、二十文。(内十四銭は大宮の神主、六銭は吉田の師職)古へは、この役銭を領主に上納せしとぞ。天正十八年十一月十五日、領圭加藤作内より與へし文書に----不二(富士)山御改に付き河尻氏に被卯付候。以先書訴之條の如く先規爲、道役料、青鋼四貫文、師職共慥(たしか)に上納爲其記、刀一慨棄光作寄附於神前可帯之委細者可爲前々事----、とあるは是也。「採薬小録」に駿河大納言様山の道法御改の節、上吉田村鳥居より御改の由、富士の山上まで、吉田よりおよそ三百五拾七町七間半ありとぞ。この鳥居は浅間社中五丈八尺の大鳥居の事なり。
<日本武尊>
是より登山門を出て、松林の間を南行すること三町ばかり左方に、一堆丘あり。大塚と称す。塚上に小祠あり、「浅間明神」を祭る。土人相伝え云う、上古日本武尊(やまとたける)東夷征伐の帰路、道を甲斐國に取り、富士を遥拝したまえし地なり。後世、塚を築きその徴とし、上に小祠を建るとぞ。口碑に伝わる歌あり----あつまち(吾妻路)のえみし(蝦夷)をむけしこのみこ(御子)の 御威稜にひらく富士の北口----是よりして北口の道は開けしとぞ。
<諏訪ノ森・麗水(浅間神社の御手洗の源)
林間を行く十一町にして高原に出つ。この林を「諏訪ノ森」と云う。御林也。また南行する事、十町ばかりにして小坂あり。この地を「御茶屋」ト云う。古へ茶店などありし地なるべし。またここより東方八町ばかり、麗水湧出る所あり。およそ広野の間絶えて水なし。唯ここに在るのみ、これを「泉津」と称す。土人相伝えて云う、----建久四年源頼朝富士野の狩の時、此広漠の地、一滴の水なくして、士卒皆渇に憎みける時、頼朝心に淺間明神を念じ、鞭を以って巖を打しかば忽ち麗水湧出づ----。因て此水を「仙瑞」とも名づくと云う。今「泉津」と云うは詑なりとぞ。然れとも、天正の末の文書にも「泉津」ノ水道云云とあれば、猶古より「泉津」といひしにや。また「夜倍ノ水」トモ云いて、夜に入れば水倍増すと云う。この水引來ること数十町にして「浅間明神」の社地に入り、御手洗となる。
<胎内穴>
また道より西へ入る事十一町にして、大なる洞穴あり。胎内穴と云う。洞口径五尺ばかり、石面滑らかにして創るが如し。入る事四五丈にして、傍に折れて下り背向し足よりして、漸く下る是を「子ガヘリ」と云う。少し下りて平なる巖上に出る。然れども上岩甚夕迫り立事不能葡(這う)匐(腹ばい)して漸く進む。この所乳房の形をしたる岩あり。水溜りて落ちる事乳の如し。また進む事十丈ばかり少し広くして歩行しやすし。最向きに大日の銅像を安置する。これ浅間明神の本地佛なり。「産ノ紐」という岩あり。紐のめぐり集れる形なり。盤石あり。圓に〆盥(たらい)の如し。中に胞衣の如き岩あり。これより奥、なお深く見ゆれども、狭くして入事能はず。窟中すべて人の胎内に似たるか故に名づくと云う。
「浅間明神」、出現の古跡とて、富士参詣の族人必ずこの洞穴に入る事とす。洞上二大なる「石地藏」あり。傍らに島「籠屋」(こもりや)一宇あり。この辺りすべて縄を紛乱せるが如き形の石あり。鋼色にして重亦鋼鐵に類せり。焼石の溶流して斯く結ばれたるものと見ゆ如レ此。小穴裾野の内数多あり。想ふに、貞観の爆火に大石焼解て、大木の根これが爲に?範となりて纏ひ固まり、数百年をふるままにその木、朽失してその跡かかる空穴となれるなるべし。
また本路に返れば四方石垣をめぐらし、山路その間を通ずる地あり。中に茶店一宇(あり)その両端に株木門あり。この所を「遊興」ト称する。何の所爲たる事を知らず。これより行くこと二町ばかり、「姥子」とト云地あり。古は小堂ありて「三津河原ノ姥ヲ安置スル所ナリ」と云う。礎石今なお存せり。この辺りより東五町ばかりに「白緑松ノ古木」あり、大二圍余「籏掛松」と云う。相伝え云う、建久四年裾野巻狩の時、旗を此松に掛けしとぞ。また路より西方十町ばかり、大木(が)五株並立てり。大各五圍余、鳥居木と称する。淺間社中大鳥居造営の材なりと云う。また行く事十余町にして、道漸く急なり。この辺りを?(りゆう)が馬場」と云う。古は淺間の祭禮に「流鏑馬」ありし地なりとぞ。後止て、今は勝山及下吉田浅間祭礼に流鏑馬あり。この?カ馬場」の神事を移せるなりと。
天文十七年、小山田信有カ印書に
----?の馬場」之上へ鳴物從古法度之事候間、此段向後可被相心得者也----とあり、古へはここより山上、鳴物を禁ぜし所以なり。しばらく山足に迫りて「鈴原」と云う所あり。俗これを「馬返シ」云う。登山門より、この島に至るまで三里、茶店四軒あり。人皆馬より下りここより上は歩陟(のぼ)る。路益々急にして、古木立繁り、荊棘(いばら・とげ)道を塞げり。この地「高御坂峠ノ絶巓(いただき)」齊しと云う。登る事二町ばかりにして「大日社」あり。「鈴原大日」と称する。「勝山記」に享禄三年三月、?カ馬場」の大日堂炎焼。同じく大日像、焼めされ候とあるはこれなり。その頃はこの辺りまで?カ馬場」と云ひしにや。大日堂の?カ馬場に在しを焼失の後、山上に移せるにや。傍らに神明の社あり。(出。神社部)これを一合目と称する。すべて是より頂上に至るまで、里数を称せずして、「合勺」を以って、数へ十合に極まる。「神社考」に曰、----孝安天皇九年十二年六月、富士山湧出、初雲霞飛來如穀聚云々依之後に「穀聚山」とも称する。山形平地に穀を盛るが如くなればなり、故に穀を量るに升を以ってするに准らへ、山路を測る称号とすると云う。およそ一合を一里に准らふ。その実は鈴原より絶頂に至るまで七里ばかりなり。一合五勺に鳥居あり、少しく上りて平地あり。古へは「定禅院」と云う。小堂ありて、吉田の西念寺塔中清光院の住僧、毎歳六七月の間参籠して「常念佛執行」せりと云う。今は廃せり。宝永四年、同八年「念佛供養」の石塔あり。そのころまでは小堂もモ存せしにや。
<二合目・「小室淺間明神」>
二合目に「小室淺間明神」の社あり、蓋し、「三代實録」に載せる所、貞観七年十二月九目祭る所の杜なるべし。(神社部に詳なり)傍に「目本武尊」社ありしかど、今廃して神躰木像は本杜の社殿に納人たり。文治五年、覚実、覚臺坊と云う者、願主として造立の由神像に記したれば祠もその時の造営なるべし。また武田機山入道信玄手親所に彫刻の自像あり。これまた末社の一なりしか、今は廃して本社に納めたり。(共に神社都に詳らかなり)「役行者堂」、淺間社の西にあり、本尊ハ役行者にて、八代郡右左口村七面山圓楽寺兼帯する。「古役ノ小角」伊豆の國に配流せられし時、この山を踏分け始めて頂上まで極むると云う。圓楽寺は本山伏の住む山にて、その徒は「小角」の跡を追い、この山に入るを修行とする。故に「小角」を、この地に祭れるなるべし。この此所の塵役銭十二文を収める。毎歳六七月圓樂寺より僧侶が來て修法あり。ここより少し西へ上れば、広さ数拾丈の一片石ノ上を週ぎ巖路滑らかにして、攀(はん)難し。石面に空穴あり、径二尺ばかり、深さ七八尺、「御釜」と称する。 この辺りより上は「女人ノ参詣を禁ずる」。永禄七年六月、小山田信有が文書に(小佐野越後所蔵)、「女性騨定之追立」とあるはこれなり。また上る事二町ばかりにして小屋あり。「道祖神」を祭る。庄左衛門、幸右衛門と云う者二人、これを守りて、杖を造りて道者に売る。これを「金剛杖」と称する。三品あり、上直百銭、中五十文、下十六文、また役銭八文を収む。
<三合目・三軒茶屋>
三合目この所に「三軒茶屋」と云う。小屋二字、傍らに小祠あり、道了、秋葉、飯縄の三紳を祭る。三神の銅像あり。元禄元年六月三日月行「〔曾月(一字)〕?蒙御告新鋳小猿屋伊預持」と刻字あり。(月行者、富士信者五世の法嗣なり)
<三合五勺>
三合五勺に小屋一字あり、大黒天を安置する。
<四合目・御座石淺間・日本武尊(やまとたける)>
四合目、この所に峨々たる巖石あり、高三四丈、廣六七間その上に浅間明神の小祠あり。「御座石淺間ト號ス」相並びて「日本武尊」の小祠あり。永禄七年六月、小山田信有の文書に、「中宮之御座石云々」とあるは是なり。
<四合五勺・桜屋地>
四合五勺目。古くは小屋ありし所なり。「桜屋地」卜称する。近世まで桜の大木ありて、五月のころ花開く。里よりこれを望めば、一片の白雲の如しと云う。
<五合目>
五合目、茶店五軒あり。この内一軒は手洗水、四軒は役銭請取の小屋なり。その役銭は三十二文は古くは参詣人に神供を配分せし料なりと云う。今は止めて唯役銭のみなり。また上る事三町ばかりして、「稻荷ノ小社」あり。古棟札あり、曰、----奉寄進富士山中官旦那太田右衛門二郎宣定本願頂仙、天文三年五月三日と同大日社、淺間社、都て三社、これを「中宮ノ社」と云う。永禄四年五月八目、武田信玄文書に爲社造営於吉田役所年々。十貫文づつ寄附云々とあり。永禄八年皿正月黒駒関銭の内十貫文寄附の事あり。永禄九年十二月、信玄ノ文書に、御供籾子毎月一駄づつ、寄附とあれば、国主より尊信せし事可レ知。茶店に懸鏡一枚あり。小屋主、織居と云者「空谷」より拾い得たりと云、文字あり。曰、----奉立願三十三度参成就子孫繁榮故也。富士淺間大菩薩、永禄三年四月十二目奉レ鋳所也、上野州群馬郡大工小島彌右衛門慰定吉総社の住人敬白----と、あり、?カ馬場」よりここに至りて、古木天を蔽ひ蘿藤(つた・ふじ)道を遮ぎりて、攀(のぼり)がたき所多し。ここより上は、砂石山をなし、草木不レ生。因て「毛ナシ」と称する。登路益々嶮し、四方を眺壁すれば、名を得る所の高山、皆目下に見える。またこの所に「遙拝所」あり。これ最頂へ攀(のぼ)る事不レ能者の拝する所なり。
<五合五勺・日蓮>
五合五勺、ここより西方へ小御嶽参詣の道あり。横吹と云う鳥居あり。横道三十間ばかりにして大門に出る。中腹より北方へ差出たる峯なり。社中、長二町ばかり横吹よりここに至りて鳥居六基あり。社中の事は神社部に詳なり。ここより、また西へ回る事二里ばかり呈して「天狗ノ庭」と云う地あり、古木甚だ短くして葉繁り皆人意を以って、作るものの如し。これみな烈風にもまるヽか故なるべし。小御嶽大門の前より頂上へ上る道あり「ケイアウ道」と云う。西風常に烈くして甚だ攀がたし。これ古道にして、今は道筋絶えて登る者なし。五合五勺、道より南の巖?を「経カ嶽」と云う。相伝え云う。僧日蓮の法華経を読誦せし地なりとぞ。堂一字あり、その内に銅柱に題目を鋳付たり。但し、日蓮参籠の地は少しく、上に巖穴あり。今「姥ガ懐」と称す。これ日蓮、風雨を凌ぎし所なり。その時、塩屋平内左衛門が家に宿し、彼が案内にて登山し、この所を執行の地と定めけるとぞ。「日蓮年譜」に文永六年、これ歳如。甲州吉田、埋手書妙経一本(二本イ)富嶽半腹以爲後昆流布地人因名其所、曰、経嵩云々。是也。また少し登りて「不浄カ嶽」、古は六七月の間、山伏この所に籠居し、登山の旅人、不浄解除の祓せし所なり。故にかく称すると云う。ここより中堂廻ノ道あり。信者が山の中腹を回るを云う。少し上りて、小屋あり、「穴小屋」と号す。本尊不動明王、別に地藏菩薩二体あり。一は鋼像甚だ古物なり。一は鉄首銅身の像、銘あり。尾州口羽郷先達、天文廿二年五月吉目ト鰐口あり。古道より掘り出すと云う。長久二年六月一日と刻字あり。貞観六年爆火より、長久二年に至りて、百七十八年かく神器奉納の事ありしなれば、爆火の後無レ程登山せし事可レ知。
<六合目>
六合目、この辺りすべて「カマ岩」と云う。遠く望めば岩の形「カンマン」の梵文に似たり。故にかく称する。今、「カマ岩」と云うは詑なりと云う。されどかく称するも、すでに久しき事にや。大原旧記(「勝山記」カ)に、永正八年八月、富志(富士)(釜)石燃えるとあり、この巖間より今もモ時々煙立つ事あり。火氣伏したるにや。(文化年代)小屋あり「端小屋」と云う。
<七合目・聖徳太子>
七合目この間小屋およそ九軒。この辺りより道益々急なり。「駒カ嶽」と云う所に小屋あり。「聖徳太子の像」並「鋼馬」を安置する。新倉村如來寺兼帯す「太子略伝」に云う。----推古帝六年夏、四月、甲斐國貢一驪駒、四脚白者、云々。舎人調子麿加之飼養、秋九月試馭此馬、浮レ雲東去、侍従以仰観、麿獨在御馬有、直入雲中、衆人相驚、三目之後、廻レ輿帰来、謂左右曰、吾騎此馬、瞬レ雲凌レ霧、直到富士嶽上、轉到信濃、飛如雷電、経三越、竟今得レ帰----、按ずるに、この古事を以って「駒カ嶽」と云いて、太子を安置せるあり。
<七合五勺・富士行者身禄・富士行者「身禄」>
七合五勺より上に、小屋三字あり。東方の巖を「亀岩」と云う。」その形の似たればなり。稍々上れば、「鳥帽子岩」と云うあり。享保十八年六月十三目「富士行者身禄」が入定の地なり。小屋あり、身禄の木像を安置する。その流れを汲む者、年々ここに登拝する。田辺十郎右衛門これを進退す。これより道益々嶮しくして、足進みがたし。不毛の砂中定まれる道もなし。一歩進めば半歩退き、雲霧脚下より起り、忽ち勝れ忽ち曇り、須曳の間明晦不レ定。
<八合目>
八合目は所レ謂、「大行合」なり。須走口より登る者、ここに会す。小屋四字あり。およそ登山の者、早天に吉田ヲ発し、日暮れに着す。須走口もまた同じ。或は鳥帽子岩に宿するものあり、ここより下瞰すれば中腹より下は、皆平地の如く見ゆ。日暮れは、西天の雲紅色にして綿を散せるが如く、千萬里の間に渺漫たり。夜に入り四鼓過るまでも猶如レ此。故に夜更けに至るも不レ暗八鼓より、はや東方明になり、横雲は萬里の海上に扉き、その間に島の如きもの数限りなく見える。漸々に紅雲東海に満れども、日の出まではなお、数刻の間ありと云う。大小屋に懸鏡あり。刻、----日大日尊奉納、富士岩駿州有度郡横田住人河村三郎右衛門、天正十九年六月吉日、大工家政----と。上の小屋に銅像の項地藏を安置する。雨天には水氣を含む。故に称して「汗カキ地蔵」と云う。
<九合目>
九合目に小屋一軒あり。「向ヒ藥師」と云う。およそ中腹よりここに至るまで、小屋の地は山を穿ち、その内に柱を建つ。屋上は山と齊く石を以って、これを葺く。左右と前は、石を積みて壁とし、唯出入の戸を開くのみ。ここより上は道最も急なり。すこし上りて大圓石あり、白色にして滑澤あり影を窮す事鏡の如し。裂けて五段となり、その裂目直にして利刀を以って、割るが如し。ここにて東方へ向ひ日の出を拝す。日海上に浮きて、良友久しく大数十里ならんと見える。地平を離れんとする時、「彌陀三噂」の影巖上に写ることあり。これを「來迎」と称する。日己に海面を離るゝとみれば、轉瞬の間に天に升り、大常の如し。この圓石を「日ノ御子」と称する。『神社考』に、----貞観五年秋、白衣神女出現、雙立舞遊、時火災揚有圓光、即祭レ之、号火御子----蓋しこれを謂うか。また上れば嶮岨愈々甚し、これを「胸突」と云う。岩壁の胸に迫るを云うなり。絶頂へ向かいて、両岸に木匡(わく)を建て、石を盛る事数十層、その間を升降する。これを「鳥居御橋」と云う。
<富士山頂上>
頂上に登り、左右を「薬師嶽」と云う。薬師の佛龕あり、別当大宮司(駿州富士郡の大宮神主)、役銭二十文(内十四文は大宮司、六文は吉田)小屋八字。四方に石を横にして壁として、一方に戸を開く。駿州須走の者ここに住して団子餅を売る。甚だ小にして、腹に満たず。およそ中合より頂上に至る。飯を炊くに、薪なく、また水なし。薪は中腹より以下深谷の内より採りて、谷々の小屋へ負擔(かつぐ)して送る、故に上るに随いて直彌々貴し。水は山陰の水を取って来て屋上に置き、中の流滴を汲む。峯ノ周回五十町。中央ハ空坎(あな)なり。深数百丈最底には常に雪あり。或は忽ち雲を出し、忽ち風を生す。周囲の峯を八葉と云う。空坎を内院と云う。高低の八峯を八葉の蓮花に喩え、八葉に各々佛号を配當し、坎中を都卒の内院に比す。「都ノ良香」の記に、曰、
----日頂上有平地、廣一許里、其中央窪下、體如炊甑、甑底有神池、池中有大石石體驚レ奇、宛如蹲虎、----云云「神社考」に曰、----中央有大窪、窪底湛池水、色如レ藍染レ物、飲レ之味廿酸治諸疾、----云云。「神池」、今は存せず。数百年の間、砂石轉落して、埋まれるにや。窪中に南岸より指出したる巨巖あり、「獅子岩」と云う。その形、獅子の蹲踞するが如し。所謂、「體如蹲虎」とあるは、これを謂うか。八合辺りより、頂上も至るまで、異鳥常に栖む。その形、鵲(カササキ゛)の如し。「内院燕」と云う。「藥師ガ嶽」
 
*通校するに天平中(729〜749)阿弥陀如来を所安置の本尊西明寺は何頃にか照して、鎌倉以前より薬師如来を本尊とし、今の金堂に安置せしにや、
*暦応二年(1339)の注進状に「浄瑠璃寺薬師如来」とは見えたれど金堂は不載、此時の火災にも免れしやらん、
*天文廿四年(弘治元年 1555)九月五日造営供養の記に天文九年(1540)八月十一日、一昼夜大風あり本堂以下破損して国主晴信の下知を得国中棟別一升勧進他力を以て修治すと云々、実に五百年来の旧造ならんこと左もあるへし、
*本尊薬師(木仏坐像長三尺相伝う行基の作正月八日開扉、一七日国家安全の祈願護摩執行、正月九月大般若経転読)同宮殿(積二間余三重椽(?)金飾美麗也、屏に武田菱の紋あり、刻書に云う、甲信太守武田晴信公御武道堅固御祈祷之故也と)
*日光月光(長各八尺余)
*十二神将(長各三尺五分許但一鉢は後世所修補工尤も劣れり)右運慶作也、毎像脊中に記あり、子神に記して云う、大善寺十二神将始勧進僧厳海密房仏師僧運慶三河公筆師僧上実円勝房嘉禄三年(安貞元年 1227)大戈丁亥閏三月十五日始之、『西神記』云う、嘉禄三年(1227)大戈丁亥五月十一日西神造立始之、右志者為四恩報恩為大法師円融現当二世之悉地成就円満也、右金剛弟子順円大仏師道慶三河公、末神の胎中に記云う、大仏師僧運慶願主金剛弟子阿闍梨湛禅安貞二年(1228)大東戈成子三月廿一日、又再興ノ板記に大将彩色本願大泉坊長胤法印(旦那杉田与五右衛門、梶原源右衛門、坪井住金藤縫助)
*永禄五年(1562)壬戌四月十日、本願東坊長秀開眼供養師護摩堂阿闇梨玉泉坊慶紹(八幡松枝百文松本道泉内万仁百文)薬師如来一躯(金造)相伝う、三枝守国の守本尊也、
*賓頭慮尊者(旧作ナリ、作者不詳)
*大黒天(木像弘法ノ作上空不動明王(木像也伝云信玄の所寄)
*七号袈裟一襲(信玄所寄赤地金爛)
 
*水晶念珠一聯(同寄附也)
寛政中(1789〜1801)松平甲斐守、当寺に詣し懇望さるるに依りて之を贈る、和歌一首を詠して謝せらるに依り藩臣久城部次兵衛、吉田権十郎をして添書致意せしむ)
 法性院とののもたまへる念珠をゆつり
きこえけるかしこざを謝す      保光 
かすに念の珠をくりかえし
        むかしを今になほあふかなむ
*白栴檀釈迦ノ坐像(松平美濃守保明(柳沢吉保)の北堂看経仏なり故ありて当時に納む)
註〕柳沢 保光(やなぎさわ やすみつ)は、江戸時代中期の大名。大和郡山藩第3代藩主。郡山藩柳沢家4代。2代藩主柳沢信鴻の長男。
*大般若本尊十六善神(画面に書あり、主願道清岩崎竹内筆者和泉表絹本願西光坊長祐律師、文明十六年(1484)甲辰霜月廿三日)
〔註〕この他、文政二年(一八一九)の修復箱書がある。
 
*大般若経(元禄九年(1696)土屋定直寄進)

〔土屋定直〕

元禄二年(一六八九年)〜宝永二年閏四月九日(一七〇五年五月三一日))は、常陸土浦藩の嫡子。老中を務めた第二代藩主・土屋政直の三男。官位は従五位下、出羽守。
兄・昭直が早世したため代わって嫡子となる。元禄九年(一六九六年)に徳川綱吉に初御目見し、元禄十六年(一七〇三年)に叙任する。兄と同様、宝永二年(一七〇四年)に早世した。代わって弟の陳直が嫡子となった。
 
*仏前供物器三具(銘云寄進永禄四年(1561)七月七日柏尾山常什杉之坊明乗と、按ずるに杉之坊古迩今審ならず、又虎四月四日杉之坊明乗がたつ子と云う者に授くる遺状一通あり、文中に行平秋広の二刀小鍛治の脇差云云と見えたり、今倶に其伝なし)
*金鼓銘(奉施入柏尾山大善寺鰐壱口徳治二年(1307)丁未十一月廿日願主権律師快俊)
*銅燈籠二(奉寄進甲州八代郡柏尾山大善寺慶長十三戊申(1608)五月十三日大久保石見守(長安)敬白)
〔大久保石見守〕
1545〜1613 天文十四年生まれ。はじめ武田信玄につかえ,武田氏滅亡後徳川家康にしたがい猿楽(さるがく)を業とした。鉱山開発の才能をみとめられ、石見(いわみ)銀山,佐渡・伊豆(いず)金山などの奉行を歴任。慶長九年東海・東山・北陸三道の一里塚建設を指揮した。慶長一八年四月二十五日死去。六十九歳。死後不正が発覚したとされ大久保家は改易となった。
 
*不動明王画像一幅(竪壱丈壱尺二寸五分横壱丈五尺余表具天弐尺玉寸地壱尺二寸五分縁弐尺弐寸五分)巨勢金岡筆也
〔巨勢金岡〕
平安時代前期の宮廷画家。巨勢有行または采女正・巨勢氏宗の子とする系図がある。官位は従五位下・采女正。
中納言・巨勢野足を曾祖父に持つ少壮貴族の出身であったが、その豊かな画才を朝廷に認められ、宇多天皇や藤原基経といった権力者の恩顧を得て活躍した。貞観十年(八六八年)から同十四年(八七二年)にかけては宮廷の神泉苑を監修し、その過程で菅原道真や紀長谷雄といった知識人とも親交を結んだ。
日本画独自の様式を追求・深化させ、唐絵の影響を脱した大和絵の様式を確立させた功労者とされる。またその子孫は、後世において巨勢派と称される画家集団を形成、宮廷画や仏画の分野において多大な影響力を発揮した。しかし、その作品は一切現存してはいないと伝えられているが、ネットで検索で数点見える。
 
〔柳沢吉保奉納 観世音菩薩画像一幅〕
宝永二年酉(一七〇五)二月とこれは御朱印にあり、二月十九日引き渡しなり。吉保初め懇下望み被封の上、本州恵林寺不動明王へ祈願の願書を捧げ置きしに、封を受け後に願いを解いたと云う。
柏尾山(大善寺)に奉納の画幅あり、記に云う、奉蔵、武州川越城主従四位下行侍従兼出羽守源朝臣柳沢吉保とあり。
【筆註】この記載事項は重要である。これまで、一蓮寺や常光寺それに恵林寺の所蔵物については詳細の記があるが、この柏尾山大善寺に奉納されたという画幅(観世音菩薩画像一幅)については触れられていない。調べてみる必要がある。
『甲斐国志』大善寺の項を見ると、
「水晶念珠一聨」同寄付なり。寛政中、松平甲斐守様(吉里)当寺に詣でし、懇望さるるに依りて之を贈る。和歌一
首を詠じて謝せらる。藩臣久城部次兵衛、吉田権十郎をして添え書き致意せしむ。
法性院とののも賜へる念珠をゆつり 
聞こえけるかしこさを謝す 保光(吉保)
 かすかすに念の珠くりかえし 
むかしを今になほあふかなむ
◎『白旃檀釈迦の坐像」松平美濃守保明の北堂看経仏なり。故ありて当時(寺)に納む。
 
*『脊記』云初度愛甲州岩崎一分ノ地頭武田築前権守源武政以鏑表具被加修理者也、
〔武田築前権守源武政〕
大善寺の嘉元4年の記録に「岩崎一分地頭武田筑前権守源武政」とあるのが初見、この地は、武田信光の子信隆が領地。
 

*嘉元四年丙午(1306)二月廿八日、爾后之表本当寺住僧式部公長遷此近里勧化被加修補畢、時住寺岩殿権少僧都明泉代別当権大僧都栄賢表具師錦之住僧聖通延徳元年己西(1487)九月八日、人皇六十代醍醐帝延享年中(1744〜1748)金岡一書之明年代に糺す、

*慶長壬寅七年(1602)迄凡七百年歟、慶長七壬寅七月十二日注之(当寺護摩堂住)紹宥、
*又寛永十二(1635)亥延亨二丑(1745)両度裏打表具の記あり文之を略す、毎年七月六日夜ヨリ一七日護摩修行天台大師画像表装に記云、奉表補給天台大師御影甲斐国柏尾山公用也、
*天正五年丁丑(1577)霜月大師当番常行堂総持院慶相法印願主是也、太刀一握(銘云運有天命依義軽武州住昭重作天文二年(1533)八月十四日)
右の外古画器品あり寛永以来宝永正徳頃に至り、三枝、土屋、神尾、佐竹等ノ諸家より仏像、諸具祭旗、幕、戸張の類寄贈する所甚多し、今皆省略して記さず、毎四月十四日祭礼舞台にて児子舞、衆徒剣舞等あり、
*藤切り祭
庭上に二丈許の柱を建て藤蔓を縄とし、これに纏い修験者一人が柱上に攣ぢて修法し、終り剣を以って其縄を両断となし、地に墜すを、香火群集の人噪(さわぎ)立ちて左右に之を引き勝負を争うことを旧式とす(或は勝負に因りて年内吉凶を占うとも云う)この「柏尾藤切」と謂う覚山の祭祀にも此式あり、彼所にては真截(しんきり)と唱う。
 
*『回国雑記』(文明十九年(1487)聖護院宮准三后道与の道の記也)
 
かし尾といえる山寺に一宿し侍りければ住持のいはく
後の世のため一首を残しはべるべきよし、しきりに申
し侍れけれは、立ちながら口にまかせて申しつかはし
ける、かし尾と俗語に申ならはし侍れとも柏尾山にて
侍るとなん
   かけたのむ岩もとかしはをのつらから     
ひとよかりねに手折てそしく
〔*『回国雑記』〕
名所、古寺の巡歴記。聖護院門跡准后道興著。長享一 (1487) 年成立。著者が文明十八年(1786)から翌年三月までに、北陸、関東、奥州諸国を遊歴した折の紀行文。
 
*寺宝に安元三年(1117)下し文一章花押あり(寺伝に平相国の下文也云う、柏尾寺社迯脱の大衆如本可令帰住云々惧に花押讃等に所載と異なり附録に録す)
*九月八日禁制写一章平花押(以下写本八通の事は前に記せり、此状仮名文なり、延慶三年下知状に拠る、按に建久九年(1198)塔供養の時の禁制一見えたり、北条時政の押か)
〔北条時政〕平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての武将。伊豆国の在地豪族の北条時方(もしくは時兼)の子。源頼朝の正室・北条政子の父。鎌倉幕府の初代執権
*建仁四年(1204)二月廿八日下知状写一章、遠江守花押(別所四至の内先例に住す云々とあり、寺の東に今も別所と云う処あり是か)
*建保元年(1213)十二月廿九日下知状写(菅野図書允清原図書少允清原、柏尾山四至内乱入狼籍輩事と云々、建仁建保は実朝将軍の時也)
 
*嘉禄二年(1226)十一月三日下知状写(武蔵守平、(北条時房)相模守平(相模守平朝臣 執権北条時頼(朽木家古文書))
〔北条時房〕
北条 時房(ほうじょう ときふさ)は鎌倉時代初期の武将。北条時政の子。北条政子・北条義時の異母弟。鎌倉幕府初代連署。延応二年(一二四〇年)死去。享年六六。時房死去後の連署は一二四七年に甥北条重時が就任するまで空席となった。
〔連書〕

鎌倉幕府の役職。執権の補佐役であり執権に次ぐ重職で、実質上の「副執権」

*嘉禎三年(1237)十二月六日下知状写(左京権大夫平(源義清)、修理権大夫平(藤原宗兼))
〔源義清 (左京権大夫)
源義忠(八幡太郎義家の三男)の四男、河内経国(義行)・義高・忠宗の弟、義雄の兄、義久の父、義高の祖父。
 
*建長元年(1249)十二月廿三日守護所文書一章文字剥けて不分明花押は脊面にこれ有り
*弘長二年(1262)十月十八日紛失状写(武蔵守平朝臣(北条時房)、相模守平朝臣(北条時頼))
*弘安七年(1283)八月廿三日下知状写一章(左馬権頭、陸奥守)三月十四日宣旨一通皇后宮大進在判進上土御門前原大納言殿とあり、柏尾寺造営の事なり、弘安七年(1283)と見えたり
〔北条業時 左馬権頭、陸奥守〕

一二五九年(正元元)四月七日、従五位下に叙し、弾正少弼に任官。七月二七日、左馬権頭に遷任。一二八三(弘安六)四月十六日、連署に異動。七月二十日、従五位上に昇叙。駿河守如元。九月二十六日、正五位下に昇叙。駿河守如元。 一二八四年(弘安七)八月八日、陸奥守に転任。

〔弘安七年 1283 八月二十三日 甲斐大善寺文書〕
*関東御教書

 当寺本堂大善寺造営の事、勧進甲斐国中、その功を終しむべきの由。仰せ下さるる所なり。仍って執達件の如し。

弘安七年八月二十三日      左馬権頭(貞時御判)
                陸奥頭 (業時御判)
 
 
*正安三年(1290)大善寺請衆交名草勧進何某云々の書二通
*延慶三年(1310)五月五日下知状三章(陸奥守平朝臣、相模守平朝臣)信濃国棟別十文銭貨勧進の事同一章は隠岐守殿とあり(同年九月五日一章あり写なり、隠岐前司入道殿とあり)
 
延慶三年(一三一〇)
五月五日、鎌倉幕府より大善寺に下知状が発せられる。
その文中に嘉禎三年(一二三七)に鮎沢宿雑事を免じたことが記される。
〔「大善寺文書」関東下知状(山4六〇二)〕
甲斐国柏尾山衆徒等申、信濃国棟別 拾文銭貨事右如解状者、当山者薬師如来之霊場、行基菩薩草創也、右大将家建久年中雖被定寺内四至、更無立錐之田地、爰文永七年有火災本堂大善寺以下焼失、去弘安七年可勧進国中之由被成御教書畢、而地頭御家人等依無一分
之助成、未遂数宇之造営、建久九年当山塔供養時、有狼藉之輩者可搦進之由被仰下畢、嘉禄二年賜国中人夫、嘉禎三年被免鮎沢宿御雑事畢、代々将軍家御帰依如此、早不論神社仏寺之領、無謂権門勢家之地、賜信濃国棟別、欲致本堂以下造営云云者、任申請充取件国
棟別拾文銭貨、可令遂造営功之状、依仰下知如件、
  延慶三年五月五日  
平朝臣(花押) 陸奥守(大仏宗宣)  
平朝臣(花押) 相模守(北条師時)
※嘉禎三年の鮎沢宿雑事免許についての関東下知状は、東京大学史料編纂所の影写本が残されている
 
*正中三年(1326)三月廿五日紛失状、修理権太天平朝臣花押(北条貞顕なり)。
〔北条貞顕(ほうじょう さだあき)〕
鎌倉時代末期の武将。北条氏の一門で鎌倉幕府第十五代執権(在職は正中三年三月十六日(一三二六年)執権と成る。三月二十六日、執権退任。出家、法名:崇顕。一三三三年(元弘三年、正慶二年)五月二十二日、鎌倉幕府滅亡に際し東勝寺で北条高時らと自刃。享年五十六。
 
*建武四年(1337)六月十三日足利家の寄進状(左兵衛尉源持平泰□□)各花押あり。
*建武四年(延元二年)(1337)七月十六日陸奥守花押(右押譜所載斯波陸奥守家長の押也)
*小岡郷寄進状一章、暦応二年(1339)四月十九日散位花押一章(是は国街在庁宮人乃証状なり、以上三章皆小岡郷の事を載せる)。
*暦応二年(1339)五月日注進状案文一章(建武三年(1336)五月炎上の事なり)。
〔暦応二年(1339)四月十九日〕『柏尾大善寺文書』
国衙在庁の証状の添状も有之
一色氏・金丸氏・土屋氏の家系を按に本州の在りし。
一色氏は左京大夫範氏四世の孫満範より出る趣なり。武河(上条南割)の大公寺の所建大興寺殿(範氏法名)の牌子あり。始祖の香火場に営む所なるべし。 
 
*観応二年(1351)六月廿日名主職補任状一章留守所(花押)
国別当(花押、国衛在庁より出づる所の許状なり)
*文和四年(1355)二月廿五日修理亮信春寄進する所の証状(信春は武田氏也)
 
〔武田信春(たけだのぶはる)
没、一四一三年十一月十六日(応永二十年))は、南北朝時代から室町時代前期にかけての武将。甲斐武田氏第十二代当主。信時流武田氏の子孫で武田信成の子。官位は陸奥守及び伊豆守。
兄弟に基信、武春、布施満春、栗原武続がいる。子は信満、穴山満春(武田信元)、下条信継、市部信久、吉田成春、観音寺遠大西堂、法弥陀仏(一蓮寺住持)、上杉禅秀正室、小笠原長基正室、武田信繁室など(信春の系譜・子女については「円光院武田家系図」をはじめとする武田家系図類に拠る)。
 
〔鎌倉期の武田氏〕
資料『山梨郷土史研究入門』山梨郷土研究会 山梨日日新聞社 平成四年(一部加筆)
 治承・寿永の内乱とそれに続く初期の鎌倉幕府内の政争の過程で、鎌倉御家人としての武田氏の礎を築いた武田信光以降、南北朝内乱の過程で守護大名としての武田氏の礎を築いた武田信武に至る、鎌倉期の武田氏についての研究は、いわば武田氏研究における空白部分ともいえる。この期の武田氏研究の困難さは関係史料の絶対的な稀少性にあることは言うまでもないが、従来の諸研究が『吾妻鏡』や『甲斐国志』のみを利用してきたことは問題であり、また山梨県関係の史料に終始していたことも問題である。実際、広く鎌倉期の諸史料にあたってみると従来の諸研究では触れられていない人物の存在が確認されるのである。
また、信光から信武に至る世系を、暗黙のうちに武田氏の嫡流=甲斐武田氏の嫡流とみなしていた点も問題である。これは武田信玄に連なる世系が即武田氏の嫡流であり、同時に甲斐武田氏の嫡流であるという、いわば二重の信玄中心史観の表れといえる。
 鎌倉期の武田氏について述べているもののうち、以上の点からみて最も。通説的であるのは広瀬広一『武田信玄伝』(昭19、同43再)であるといえ、以後における研究はこの広瀬氏の成果をどの程度超えられるかという点であるといえよう。
 その点において、まず挙げなければならないのは佐藤進一『鎌倉幕府守護制度の研究』(昭23、同46増訂版)である。佐藤氏はここにおいて、甲斐守護として武田石和政義を、安芸守護として武田信光・信時の二人を検出された。特に政義については、現在に至っても甲斐守護として確認しうる唯一の人物であり、また彼が信光から信武に至る世系に属さない信時の弟政綱に始まる武田石和氏の人物であることは重要であった。
次に河村昭一氏は『郷土資料安芸武田氏』(昭五九)において、安芸守護の武田氏についてさらに詳細な検討を加えられ、政義の甲斐守護在任と同時期に再び武田氏が安芸守護に在任していたことを明らかにされた。これらの守護研究によって、武田氏は甲斐・安芸両国の守護であったこと、そのうち甲斐守護としては武田石和氏の政義が、安芸守護としては信光から信武に至る世系が確認された。
 また、湯山学「『他阿上人法語』に見える武士(一)」(『時衆研究』六三号、昭50)において、鎌倉後期に武田石和総家(宗信)が伊豆守を受領し、北条得宗家の被官であったことが明らかにされ、その存在に注目された。これらを承けて黒田基樹「鎌倉期の武田氏」(『地方史研究』211号、昭63)は、甲斐・安芸守護、伊豆守の受領名の継承に着目し、鎌倉中期の信時の安芸下向以降、信時とその子孫は同国に在住して安芸守護職を相承する存在とみなし、これを、「安芸武田氏」と呼び、信時の弟政綱の家系(武田石和氏)は北条得宗家の被官として甲斐守護職に補任されこれを相承する存在とみなし、これを「甲斐武田氏」と呼び、両者の関係を惣領制規制から脱した同等のものとみなし、甲斐・安芸両武田氏の存在という設定を試み、また、伊豆守の受領者が武田氏の惣領を示すという推測をした。
 以上は、守護在任者を出した、信時から総武に至る世系と武田石和氏という二つの家系についてのものだが、この他『吾妻鏡』以外の史料によっても、甲斐甘利荘地頭信賢(武田岩崎信隆忠)、安芸佐東郡地順奉継(同息)、和泉坂本郷地頭義奉(信時弟信奉孫)、等を始めとして多くの武田氏の一族が確認され、とりわけ武田一条氏と武田岩崎氏が注目され、今後はこれらをどう位置付けるかが課題となっているように思われる。
 また、室町期以降の守護大名武田氏の祖である信武の動向も重要で、これについては佐藤・河村両氏によって、信武は南北朝内乱の過程で武田石和氏と対立・抗争し、その結果甲斐守護に補任されていることが明らかにされ、黒田はさらに、信武は安芸武田氏の出身であり、そのことから信武の後安芸守護を継承した氏信を実名と伊豆守の受領名とから信武の嫡子であり、甲斐守護を継承した信或は庶子であること、すなわち信武の嫡流は氏信の系統(安芸、のち若狭武田氏)であることを指摘した。信武にはこの他に信明・公信・義武の諸子であったが、それぞれ甲斐守護代、幕府奉公衆、鎌倉府近習衆として確認され、そのこと自体、守護大名武田氏の成立を考える上で興味深いが、南北朝期には鎌倉期以上に多くの武田氏の一族が確認され、これらの位置付けによって、逆に鎌倉期の武田氏を照射することが可能といえる。鎌倉期及び南北朝期の武田氏についての研究は緒に就いたばかりといえよう。〔黒田基樹氏著〕
 
〔註〕
正平七年(一三五二)三月二十九日、足利尊氏、大善寺の祈祷巻数。
(大善寺の僧が必勝祈願の祈祷回数や経典数を記録して報告する。
〔註〕
正平十年(一三五五)二月二十五日、去る二十一日甲斐の南軍、武田信春を攻める。信春は柏尾大善寺に陣を敷き、この日大善寺衆徒に闕所(幕府や領主により没収された土地)地寄進を約して祈祷させる。
〔註〕
正平十二年(1357)二月二十五日、足利尊氏、大善寺に祈祷を依頼する。(大善寺文書)左の記事と同じ。
*延文二年(1357)(足利)義詮(あきら)将軍始立御祈祷事可被進巻数由文書あり。
〔足利義晧〕
正平十三年(一三五八年)四月に尊氏が没し、十二月に義詮は征夷大将軍に任命される。この頃には中国地方の山名氏や大内氏などが向背定まらず、九州では懐良親王などの南朝勢力は健在であった。早速、河内や紀伊に出兵して南朝軍と交戦し赤坂城などを落とすが、一方幕府内では、正平十六年(一三六一年)に細川清氏・畠山国清と対立した仁木義長が南朝へ降り、さらに執事(管領)の清氏までもが佐々木道誉の讒言のために離反して南朝へ降るなど権力抗争が絶えず、その隙を突いて南朝方が一時京都を奪還するなど政権は流動的であった。しかし細川清氏や畠山国清が滅ぼされ、正平十七年(一三六二年)七月、清氏の失脚以来空席となっていた管領職に斯波義将を任命。正平十八年(一三六三年)には大内氏、山名氏が幕府に帰参して政権は安定化しはじめ、仁木義長や桃井直常、石塔頼房も幕府に帰参し、南朝との講和も進んでいた。同年、義詮の執奏により、勅撰和歌集の十九番目にあたる『新拾遺和歌集』は後光厳天皇より綸旨が下った。正平二十年(一三六五年)二月には三条坊門万里小路の新邸に移っている。この間に義詮は訴訟制度の整備に着手し、評定衆・引付衆を縮小して将軍の親裁権の拡大を図った(御前沙汰)。園城寺と南禅寺の争いでは、今川貞世に命じて園城寺が管理する逢坂関等を破却させた。正平二十二年(一三六六年)に斯波氏が一時失脚すると細川頼之を管領に任命した(貞治の変)。
 
*武田氏に於ても観応(1350)、文和(1352)以降巻数ノ受取書、寄進状等信成、信春の花押並に晴信の寺領証文、太刀奉進の折紙も存したり、彼家世々崇敬のこと諭なし、
〔註〕
正平二十年・貞治四年(一三六五)閏九月二十一日、武田信春、甲斐菱山内丸山村を大善寺に寄進する。

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