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甲斐大善寺の歴史

柏尾山大善寺の歴史
『甲斐国志』巻之七十五 文化十二年(1815)
佛寺部第三 山梨郡栗原筋 一部加筆
筆者挿入箇所 ゴジック体)
〔名称〕
柏尾山大善寺
真言宗新義檀林七ケ寺の一なり、号自性院城州醍醐報恩院末、御朱印寺領三拾弐石六斗余、柏尾村と称す。古文書には、「柏尾寺」また「かしはをの山寺」とも見えたり、
〔土地〕
寺境二万三千五十坪、山林東西十五町十間、北八町余(西南は勝沼の堺より菱山に至る、北より東は初鹿野に界を接す、南は三日河に限り、古にいわゆる深沢郷の内なり)寺内八町三拾間、官道に懸れり。                                         (上り勝沼宿へ二十九町、下り鶴瀬宿へ十町)東西に界柱あり門を西神願(シンカサン)、東神願と云う。板橋(長十二間)横吹川に架す。古文書に「かしはをの橋」と見えたり。今も公役なり。
〔所属の郡〕
この地は山梨郡に属すなれども慶長中(1596〜1614)の書類並に寛永十九年(1642)所賜御朱印には八代郡とあり、以来故の如くなれば当寺に於いて今も八代郡と称するなり。
〔寺記 創建〕
寺記曰、元正天皇養老二年(718)八月、行基菩薩草創、号柏尾山、聖武天皇勅賜鎮護国家大善寺定額並御祈願所宣旨鎌倉以降為将軍祈宿所恒例之巻数進之故守護所の使寺内不入の先規也。
 
❖行基(ぎょうき)) 天智天皇七年(六六八年)〜 天平二十一年二月二日(七四九年二月二十三日)は、日本の奈良時代の僧。僧侶を国家機関と朝廷が定め仏教の民衆への布教活動を禁じた時代に、禁を破り畿内(近畿)を中心に民衆や豪族など階層を問わず広く仏法の教えを説き人々より篤く崇敬された。また、道場や寺院を多く建立しただけでなく、溜池十五窪、溝と堀九筋、架橋六所、困窮者のための布施屋九所等の設立など数々の社会事業を各地で成し遂げた。朝廷からは度々弾圧や禁圧されたが、民衆の圧倒的な支持を得てその力を結集して逆境を跳ね返した。その後、大僧正(最高位である大僧正の位は行基が日本で最初)として聖武天皇により奈良の大仏(東大寺)造立の実質上の責任者として招聘された。この功績により東大寺の「四聖」の一人に数えられている。
 
*表門官道ヨリ石段(百八十四段)下馬札禁制札を掲ぐ。
*二王門(石段の上南向き前に石橋あり、額は山号の三字記、黄檗悦山著
❖黄檗悦山
 
江戸中期の渡来禅僧。福建省泉州生。姓は孫、法諱は初め髻輝定珠、のち悦山道宗。明暦三年長崎福済寺蘊謙戒琬の招きにより渡来。木庵に謁し、ついで宇治黄檗山万福寺の継席に従った。山内に塔頭慈福院を創建、大坂南岳山舎利尊勝寺を開山したのち、万福寺第七代住持となる。宝永六年(一七〇九)寂、八十一才。
 
大善寺の開祖 三枝氏
承和六年(八三九年)
三枝氏の祖、守国生まれるという。
 
承和十一年(八四四年)(『続日本後紀』)
〇丙申。甲斐国言。山梨郡人伴直富成女。年十五。嫁郷人三枝直平麻呂。生一男一女。而𣴎(しょう)和(?)四年平麻呂死去「也」。厥後(そのご)守節不改。年巳卌(四十)四。而攀号不止。恒事齋食。敬於霊床。宛如存日。量彼操履。堪節婦者。勑。宜身免其戸田租。即標門閭。以旌節行
 
 
五月十四日、山梨郡の人、伴直富成の女年十五歳、郷人三枝直平麻呂に嫁し一男一女を生む。夫の死後貞節を守り、礼を尽くしたので、終身戸の田祖を免じ、その節行を表彰する。
  
〔柳沢吉保奉納 観世音菩薩画像一幅〕
宝永二年酉(一七〇五)二月とこれは御朱印にあり、二月十九日引き渡しなり。吉保初め懇下望み被封の上、本州恵林寺不動明王へ祈願の願書を捧げ置きしに、封を受け後に願いを解いたと云う。
柏尾山(大善寺)に奉納の画幅あり、記に云う、奉蔵、武州川越城主従四位下行侍従兼出羽守源朝臣柳沢吉保とあり。
【筆註】この記載事項は重要である。これまで、一蓮寺や常光寺それに恵林寺の所蔵物については詳細の記があるが、この柏尾山大善寺に奉納されたという画幅(観世音菩薩画像一幅)については触れられていない。調べてみる必要がある。
『甲斐国志』大善寺の項を見ると、
「水晶念珠一聨」同寄付なり。寛政中、松平甲斐守様(吉里)当寺に詣でし、懇望さるるに依りて之を贈る。和歌一
首を詠じて謝せらる。藩臣久城部次兵衛、吉田権十郎をして添え書き致意せしむ。
法性院とののも賜へる念珠をゆつり 
聞こえけるかしこさを謝す 保光(吉保)
 かすかすに念の珠くりかえし 
むかしを今になほあふかなむ
◎『白旃檀釈迦の坐像」松平美濃守保明の北堂看経仏なり。故ありて当時(寺)に納む。
*『回国雑記』(文明十九年(1487)聖護院宮准三后道与の道の記也)
 
かし尾といえる山寺に一宿し侍りければ住持のいはく
後の世のため一首を残しはべるべきよし、しきりに申
し侍れけれは、立ちながら口にまかせて申しつかはし
ける、かし尾と俗語に申ならはし侍れとも柏尾山にて
侍るとなん
   かけたのむ岩もとかしはをのつらから     
ひとよかりねに手折てそしく
〔*『回国雑記』〕
名所、古寺の巡歴記。聖護院門跡准后道興著。長享一 (1487) 年成立。著者が文明十八年(1786)から翌年三月までに、北陸、関東、奥州諸国を遊歴した折の紀行文。

甲斐大善寺と柳沢家

 
*寛永十年(1633)六月七日源守昌の願文(按に忠長卿国除の後守昌暫く浪人也)古詔状の案に二章自性院とあり一章は五月日、一章は寛永十年癸西(1633)三月日各御奉行所とあり、辰三月二日三枝善右衛門祈願書(按に名は守知時に兄守重病に伏す)三枝系図二巻(土佐守守重能登守守全)所寄附なり、
*元禄十四年(1701)四月十八日御裁許状一章
*宝永三成年(1706)松平美濃守子息、伊織、」左門両人より二十五所ノ祈願所へ米五十俵配分老臣ノ連署一章
 
〔柳沢経隆 伊織(やなぎさわつねたか)〕
元禄七年十一月十六日(一六九五年)〜享保十年八月二十三日(一七二五))は、甲斐甲府新田藩主、のち越後黒川藩の初代藩主。側用人として有名な柳沢吉保の四男。母は側室正親町町子(田中氏とも)。正室は大納言正親町実豊の娘・直子。官位は従五位下、刑部少輔。
江戸神田橋邸にて生まれる。幼名は安通、伊織。元禄八年(一六九五年)六月十九日、将軍徳川綱吉の命令を受けて横手姓に改姓した。その後の元禄一四年(一七〇一年)十一月二十六日、松平姓を名乗ることを許される。宝永六年(一七〇九年)六月三日、父より1万石を分与されて甲府新田藩主となった。宝永七年(一七一〇年)四月七日に元服する。
 
〔柳沢時睦(やなぎさわときちか〕左門
元禄九年六月一二日(一六九六年)〜 寛延三年四月二十四日(一七五〇年)は、甲斐甲府新田藩主、のち越後三日市藩の初代藩主。側用人として有名な柳沢吉保の五男。母は側室の正親町町子(田中氏)。官位は従五位下、式部少輔。幼名は左門。
誕生の年、将軍徳川綱吉の柳沢邸御成の時に御目見し、元禄十四年(一七〇一年)に松平姓を名乗ることを許される。宝永六年(一七〇九年)、父から甲斐山梨郡、八代郡内に一万石を分与されて帝鑑間詰の甲府新田藩主となった。享保九年(一七二四年)、甲斐から越後三日市に移封されたが、まもなく藩主を弟の保経に譲って隠居した。寛延三年(一七五〇年)に死去した。
 
*寛永十九年(1642)七月十七日ノ御朱印以後代々奉頂載、年首拝賀す、」塔頭六坊光明院、(無住)正覚院、(無住)遍阿院(無住)玉善院、一乗院、正蔵坊以上本山派の修験なり御朱印の内毎院千五百坪配分、
*口十七(男六、女十一)
*馬二、末寺三、
門前民戸十七口六十四(男三十四、女三十)
*柏尾村上云寺内(僧三人家僕八人)
*掌寺(雨宮久兵衛、三枝好兵衛)
○岩崎権現(祭神五所熊野三阻、伊豆、箱根)
社地(五十間七十間)上岩崎村にあり大善寺兼帯、別当光明院と云う、御朱印社領二石八斗八升(下岩崎村の内に在り)慶長八年(1603)四奉行証文並に寛永十九年(1642)以来御代々の御朱印大善寺納之
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