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◇「康和の経筒」―末法の世
平安時代中期になると、仏説にいう正法の世は遠く去り、像法の世も過ぎ、いよいよ末法到来の危機を人びとは切実に感ずるようになった。永承七年(一〇五二)に末法の世にはいったと信ぜられたが、大和長谷寺の焼亡・疫病流行など、仏説に類似した社会現象の頻発は、人びとに末法への自覚を深めさせた。
無常観・厭世観が行きわたり、人びとは往生浄土の教えにあこがれ、また釈迦入滅の五六億七千万年後にこの世に出現し、釈迦に代わって衆生を済度するという弥勒仏出現の世に期待をかけた。
そのためには経典を書写して経筒に入れ、これを経塚に哩納して弥勤出現の世まで残そうという風習が起きた。経典は一定の方式に従って写されたので如法経と呼ばれるが、法華経が多く写された。甲斐国にあってこの如法経書写を行った人に寂円という憎がいた。
寂円は山城国乙訓郡の人、六三歳で出家して諸国遍歴の聖となり、康和元年(一〇九九)ごろには甲斐国に落ち着いた。そして翌二年正月、当国山東郡(山梨東郡)内牧山村米沢寺の千手観音の宝前に籠居して、法華経八巻を如法に書写する大願を起こし、足掛け四年を費やして無事念願を果たすことができた。
そこで康和五年(一一〇三)三月二四日、写経を柏尾山寺往生院の仏前に移し、四月三日、往生院主でかつて比叡山において天台を学んだ尭範を導師として盛大な供養が行われた。関係者には供具頭藤原基清以下の名が知られるが、惣行事として三枝宿禰守定・同守継・権介守清らが名を連ねているのは、三枝氏がこの寺の大檀那であったためであろう。次いで同月二二日、写経は経筒に納められ、経筒はさらに土製容器に入れられ、寺の東方「白山妙里の峰」に哩納された。
ここは大善寺の東方一キロメートル弱の山腹で、今も白山平と呼んでいる。西に甲府盆地の東部一帯を眺望できる景勝の地で、経塚を営造するにふさわしい霊地であった。
たまく昭和三七年(一九六二)一月末、東京電力の工事中、ここで経塚群が発見され、関係遺物も多数出土したが、その一つに「康和の経筒」があった。
高さ約三〇センチメートルほどの鋳銅製の大きな経筒で、筒身と蓋とに計七八三字におよぶ長文の銘があり、無名の勧進僧寂円による経塚造営という、いままでまったく知られていなかった上記の史実が明らかとなった。
寂円が弥勤出現の世を期して哩納した経筒は、こうしてあっけなく掘り出されてしまったが、これによってうずもれていた史実の数々が明らかにされ、とりわけ浄土教の地方発展に貢献した寂円の不滅の業績が脚光を浴びるにいたった意義は大きい。
しかもこの大事業は寂円一人の仕事ではなかった。「その員(かず)を知らず、名を記さず」といわれる無数の結縁者に支持されて、初めて彼の大願も成就したのである。
経塚の営造は中世以降も引き続き行われ、山梨県下でも数カ所から遺構や遺物が発見されているが、営造の目的も父母や祖先の追善供養など時代によって変遷があった。
◇「康和の経筒」図 解説
一九六二年一月末、勝沼町の柏尾白山平経塚より出土。鏡銅製で円筒形をなし、かぶせ平蓋式で総高29㎝、身高28.8㎝、身口径17.5㎝と大型である。蓋(写真上)の表面に4行39字、筒身(写真下)の周囲に27行744字、計783字という稀有の長文の銘があり、しかも蓋の部分が表意、青身の部分が本文の役割をもっており、さらに文体が漢文体に宣命体を混じた和漢混淆文という珍しいものである。この長文の銘は、勧進僧寂円による如法経書写の発展から写経・供養、さらに埋納にいたる過程や、関係人名・地名などを詳記しており、経塚営造について極めて貫重な資料を提供している。関係者の筆頭に国司藤原朝臣・供具頭藤原基清朝(臣)の名があることや、「惣行事」として散位三枝宿禰守定権介守清らが見えることは、この一連の行事に大善寺を氏寺とする在庁官人三枝氏一族が深くかかわっており、国衙権力の支えによって、寂円も無事大業をなし遂げ得たことを推察させる。
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甲斐国志 神社仏閣
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柏尾山大善寺の歴史
*可レ令三早衆徒等領二知甲斐国柏尾寺一事
『甲斐国志』 巻之百二十一 附録
右如二申状一高右大将家御代建久八年(1197)堺二寺内敷地四至一御寄附之後建仁(1201)建保(1218)覚書以来度々預二御下知一衆徒等管二領廓内一致二御祈祷一之処康元元年(1256)十二月十日件重書等焼失之間弘安二年(1279)十月賜二紛失之御下文垂納二置彼御下文一於二当所鎮守権現宝殿一刻応長元年(1311)十一月十六日社壇回禄之時炎上尊畢重可レ成賜二紛失状一重仇衆徒管領之実否並文書焼失之真偽被レ尋二当寺在所深沢郷地頭逸見彦三郎長氏、武田八郎助政、同四郎三郎政泰、野呂孫次郎政行等之処一所レ申無二相違之由所レ書二進起請文一也者早守二先例一可レ令二領掌一之状依レ仰下知如件
正中三年三月廿五日 修理権太夫平朝臣花押
右柏尾山所蔵ナリ同寺所蔵鎌倉以降ノ印書甚多シ今省二略之一以下五章ハ国衙補任状並二寄進状等ナリ同寺所蔵ム
*春進 按足利高経男斯波陸奥守家長花押ナリ 散位は国衙之在庁官人 甲斐国小岡郷内上野小七郎跡並塚原同人跡事 合田畠六町余
右為御敵初雁五郎当寺炎上之間不退行法令陵遅之者也仍為 将軍家御祈頑寄進如件
建武四年七月十六日 陸奥守 花押
柏尾山衆徒中
〔註 建武は一年・二年しかない〕
当該 延元二年(1337)
甲斐国小間邸内鮎野小七郎事任陸奥守殿奉進状寺家知行更不可有相萱供仇執達如件
暦応二年(1340)四月十九日 散位 花押
柏尾山衆徒御中
文和四年(1355)二月廿一日国中御敵等令乱入之間武田修理元信香取柏尾山出陣為凶徒等対治為将軍家御祈商当国関所内壱所
可奉寄進候於四至者追可有其沙汰候仇寄進之状如件
文和四年三月廿五日
修理元信春 花押
信春ハ武田刑部大輔信成之男
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長寛勘文について
久安年間(一一四五〜五一)、甲斐守・藤原顕時は熊野権現の霊験を授かったとして、朝廷の許可を得て熊野本宮に八代荘を寄進。時の熊野別当湛快は、八代荘が熊野本宮の荘園であることを示す牓示(ぼうじ)を立てた。ところが、応保二年(一一六二)に甲斐守となった藤原忠重は、前代の取り決めを一方的に無視する行動に出る。忠重は目代の中原清弘を現地に派遣。甲斐の国の官人・三枝守政らと合流した清弘は、軍兵を率いて「荘園」に乗り込み牓示(ボウジ 境界杭)を撤去。強制的な年貢の取立て、「荘園」の人々や神人への暴行を重ねたという
この事態に対し、本宮側は朝廷に訴え出る。長寛元年(一一六三)、裁定を命じられた明法博士の中原業倫は、ことの経緯と「熊野権現御垂迹縁起」をもとに、「伊勢の神体と同体である熊野権現」を侵犯したことは罪になるとして、絞刑とするよう勘申(報告)した。この「伊勢と熊野が同体である」ということについては藤原範兼ら、有識者の意見申述が続けられ、結果、藤原忠重は伊予に配流、中原清弘は投獄されている。 この「紀伊熊野神社社領八代荘停廃事件」の過程で、裁定のために著された勘文を集成したのものが「長寛勘文」と呼ばれている。 〔註 この時期の甲斐国司〕
○応保1年(1161)2月26日【『妙法院文書』】
◆甲斐守…藤原盛隆。在任。後白河院判官代として院庁下文に署判を加える。
○応保2年(1162)1月27日【『山槐記除目部類』】
◆甲斐守…藤原忠重。従五位上。藤原忠重が甲斐守に任じられ
る。
○応保2年(1162)4月7日【『長寛勘文』】
◆甲斐守…藤原忠茂。
甲斐守藤原朝臣忠茂並目代右馬弁中原清弘在庁官事人三枝の守
正ら罪名爰に忠茂去年春除目被拝除。
○応保2年(1162)10月6日【『長寛勘文』】
◆甲斐守…藤原忠重。
忠重が目代中原清弘や在庁官人三枝守政に命じて熊野社領八代
荘を停廃する。
○応保2年(1162)10月28日【『応保二年除目大間』】
◆甲斐権介…不任。除目。欠員の甲斐権介は不任。
○長寛1年(1163)1月29日【『長寛勘文』】
◆甲斐守…藤原忠重。熊野社の訴えに対して、陳状を提出する。
○長寛2年(1164)1月21日【『公卿補任』】
◆甲斐守…藤原盛隆。父藤原顕時の大宰権師辞任の替として、甲
斐守に任じられる。
○長寛2年(1164)6月29日【『山槐記』】
◆甲斐権守…橘以明。在任。梅宮社への奉幣使をつとめる。
〔解説〕
こうした記事は、目代中原清弘や在庁官人三枝守政が一方的に悪人扱いされているが、藤原顕時は熊野権現の霊験を授かったとして、朝廷の許可を得て熊野本宮に八代荘を寄進した行為も唐突であり、三枝守政の行動も理解できる。この当時の八代荘がどれだけの範囲かは定かではないが、これまでの領地を取り上げた、藤原顕時
や朝廷の判断も現在では理解できない事で、こうした記事の扱いは歴史学者やその道に携わる人々は、そのまま引用や紹介されるのでは、時代背景を加味して公正に取り扱う事が望まれる。
大善寺には「葡萄縁起」もあるが、これは歴史書の中では明確に記されたものはなく、後世に伝記として加えられた可能性もある。
甲州と葡萄の関係について、明確なのは、甲斐を妻の故郷に持つ山口素堂が、元禄八年に来甲した折の『甲山記行』に、
勝沼昼休み、此ところあふげば天目山、臥てみれば一里ばかりの間みな葡萄の実なり。
下くぐる心は栗鼠やぶどう棚
伊沢川日上人(日蓮)の一石に一字書つけてながし玉ふも拾ひつくして求るによしなし。
さびたりとも鮎こそまさめただの石
とあり、確かな資料である。
〔葡萄 - Wikipedia〕
日本で古くから栽培されている甲州種は、中国から輸入されたヨーロッパブドウの東アジア系が自生化して、鎌倉時代初期に甲斐国勝沼(現在の山梨県甲州市)で栽培が始められ、明治時代以前は専ら同地近辺のみの特産品として扱われてきた。(ヤマブドウは古くから日本に自生していたが別系統にあたる)。
文治二年(一一八六年)に甲斐国八代郡上岩崎村の雨宮勘解由によって発見され、栽培がはじまったとされる。甲州の栽培は徐々に拡大し、正和五年(一三一六年)には岩崎に十五町歩、勝沼に五町歩の農園ができていた。江戸時代に入ると甲府盆地、特に勝沼町が中心となり、甲州名産の一つに数えられるようになった。
松尾芭蕉が「勝沼や馬子も葡萄を食ひながら」との句を詠んだのもこのころのことである。正徳六年(一七一五年)の栽培面積は約二十haに上った。
〔註〕芭蕉は、この句を詠んでいない。また雨宮勘解由についても確かな資料を持たない。
〔勘解由使〕
勘解由使(かげゆし)は、日本の律令制下の令外官の一つ。平安時代初期、地方行政を監査するために設置された。その後、監査の対象は内官(京都の各官職)へと拡大した。勘解由使の官庁である勘解由使庁は、太政官の北西、中務省の南に位置した。和名は「とくるよしかんがふるのつかさ」。
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三枝守国の遺跡 竹川義徳氏著
『夏草天目道中記』より(一部加筆)
甲斐源氏がまだ発展しない以前において、わが甲斐国、とくに東郡地方に大きな勢力を張っていた豪族があった。これらの一族を能呂党といい、その始祖を三枝守国といった。こんどの夏草天日道中室二日目の一宮町南野呂と勝沼町柏尾の大善寺、第四日目の大和村天目は守国将軍と深いつながりがあり、その道跡があるところとされている。前々から三枝守国について調べてみたいと思っていた故ちょうどよい機会なので守国の遺跡をとくにたずねて見た。以下はその荒削りである。
◇第三日日午後一時、一校は東八代郡一宮町南野呂に鎮座まします大宮神社に参拝した。このお宮を大宮橋立明神といい、橋立明神(イザナミ、イザナギ二神)と守国将軍が祀られている。拝殿に向かって右手の草やぶの中に守国親王の碑がある。碑文に
守国親王は仁明天皇の子で、新羅の賊が攻め寄せて来た時、筑紫にこれを討って大功があったが、後にざん言をこうむってここに流され、この地でなくなったので民がその道徳を慕ってここに祠を建てこれを祭り、水旱、疾疫を祈った。武田氏も祭祀したが天正十年に兵火に焼かれたのを徳川氏の世にその臣三枝氏が再建した。
という意味が刻んである。
社記には、この時の功によって庄園を播磨の国で賜わり、大事大弐に補せられたとあり、その他の諸記録を総合すると、守国はこの地で鎌田氏の婿となって男五人を生み、長徳四年(九八八年)九月十九日、百六十歳で卒去し、橋立明神と唱え奉ったことになっている。守国将軍の館址と称するところが南野呂にあって、いま東御所、西御所という地名が残っているという。
守国の五人の男を石原太郎守氏・能呂介守将・林戸介守党・隠曽介守継・立河介守忠といい、三枝・能呂・林戸・於曽・立河・辻を三枝七名と呼び、ほかに裏七名なるものがあった。これらの一族を能呂党といい、能呂郷(『大日本地名辞書』に、今一桜村・相興村・石庭村、祝村等なるべしとあり、現在祝村は勝沼町、その他は一宮町)を中心として勢力を張っていたというが、その事蹟についてはよるべき資料が見当たらない。
〔守国伝説〕
三枝守国の氏名の起こりについては
「仁明天皇が八幡神社に参籠中、深夜神のお告げに、天から童子が降って来て、丹波国安大寺の榎木の三俣の枯木の内におるから宮中に召して厚く養育し国土安全を計るべし」といわれて夢がさめ、翌朝榎木の枝の中から童子をさがし当て養育した。ある年異国から賊が攻めよせて来たので、童子に詔(みことのり)して賊を討たせた。
童子はこれを退けて大功をたてたので、三枝の姓を賜わった。また八幡神の神勅によって国を守護したので名を守国と命じた。
と、まことに辻褄の合った言い伝えがある。これを世に守国伝説という。東山梨郡誌の七里村の項でも守国伝説を取りあげて三枝守国の起こりとしているが、県下の守国の子孫といっている人たちが各地にあるが、その中にはこの説話を信じている人もある。
だが、三枝の姓は遠く人皇二十三代顕宗天皇の御代から起こっている。太田亮氏の姓氏家系辞書所載の三枝部の記事を借用して総合すると、顕宗帝がみなしろべ(御名代部)「御名代部は特種の人の御名を伝える部である」として三枝部を設けた。「日本書紀巻十五」 に顕宗天皇三年(四八七)二月十三日さきくさべ(福草部)を置く。とあり、姓氏録三枝部連の条に、「顕宗天皇御世、諸氏人をよび集め、酒宴を賜わった時、三茎之草が宮廷に生えたのでこれを採って献じ奉ったので三枝部連とした」とあり、三茎草は、「甲斐国古社史考」に「三枝にて山百合の花なるべし」とある。これはめでたいしるしによるところの命名だと、太田亮氏ははじめ『日本書紀』の記事が名の起りだと思ったが、広瀬無声氏が「御父の清寧天皇の御歯が、さきくさ(三枝)なす押歯ませり」と古事記顕宗天皇の項にあるのがもとであろうといわれたので、前説をひるがえして押歯(八重歯)説をとったといっている。
このようにして三枝部が西暦一世紀にすでに置かれているが、守国伝説によると、守国がはじめて三枝氏を賜わったのはこれより百五十余年後の承和年中人皇五十四代仁明天皇からだというなら約四世紀のへだたりがある。果して守国が三枝氏を名乗ったのが三枝氏の皮切りであるかどうか迷わざるを得ない。守国が甲斐国における三枝氏の始祖であることはある意味においてはうなずかれる。
守国以前に甲斐国に三枝直平麻呂がいたことが『続日本後紀』に載せてある。山梨郡の伴直富成の十五歳になる娘が郷人三枝直平麻呂に嫁して一男一女を生む。憲翠(八三七)平麻呂死去云々とある。守国の生まれたのは、百六十歳の翌の長徳四年(九九八)から逆算して承和六年となり、平麻呂はそれより二年前に死んでいる。
守国の入峡は、東八代郡誌では「任明天皇本州能呂に左遷せらる」とあり、承和は十四年までであるから、六年生まれとすると八歳の時来たことになり、『勝沼町誌』では、守国は寛平年間来たことになっている。寛平元年(八八九)に来たとしても平麻呂の死後五十余年を経ている。平麻呂に一男一女があったのでその子孫があったのか、あるいは一代で絶えてしまったのか不明であるが、甲斐に栄えた三枝一族は守国の子孫と見てよかろう。
では三枝族はどこより来たか、
後世甲州の三枝氏一族は先祖の守国が丹波より来るといっているのは、丹波氏族であることを証するものであって、この氏族の根源丹波より発するものであり、また大宮橋立明神は一宮町橋立明神および山梨市歌田の橋立明神(この外山梨市大野の橋立明神、勝沼町の橋立明神あり)等と同じく丹後国与謝郡天橋立より勧請したもので野呂、林部など三枝一族の氏名々になう地にあり、この氏族が丹波地方より来たことを証明するものにあらずや。
という意味のことを太田亮氏はいっている。守国伝説の守国出現を丹波国安大寺の榎木というのも丹波氏族であるからであろう。三枝氏族の詮議はこのくらいで他日にゆずることにする。
◇野呂の次に夏草道中の一行は勝沼町柏尾の大善寺に寄った。大善寺と守国との関係は、守国が野呂郷に居住し、守護仏薬師如来を鎮護し大善寺を氏寺とした。(大和村天目の三枝常正氏所蔵の文書には柏尾山三枝寺とある)守国は天禄二年(九七一)に堂宇を再建したが、弘安二年に焼失した。いまの国宝薬師堂は焼失後再建したものであるという。なお守国の末裔守経は弘化年中稚児堂および守国の像を安置するため一宇を建立したという。守国の墓は山門の前にあり、草むらの中に五輪塔と宝篋印塔が立っている。
◇道中第四日目の終点、大和村天目をたずねたところ、ここにも三枝守国の由緒があった。まず部落の入り口のトンネルを出たところに、守国ゆかりの古屋敷と称するところがあった。守国とつながりのあるところは前記の南野呂の西御所、東御所と、『東山梨郡誌』にある塩山市下萩原の平ラ城というところがある。守国にあやかる旧蹟がこの村の外にも東郡にはさがせばあるかも知れない、県内に武田家の遺蹟と称するものが沢山あるように。
天目には三枝を名乗る家が何軒かあった。その中の三枝常正氏方に伝わる三枝家の系図をはからずも拝見することが出来た。この系図は大宰大弐三枝守国から書き起こし、嫡男守将以後代々野呂介といい、守の字を冠した名が続いている。時間がなかったので写真にとって来たので引き伸ばしてゆっくり検討したいと思っている。
Ⅲ街道沿いに残る文化財等
(山梨県歴史の道調査報告第四集〔甲州街道〕山梨県教育委員会)
四 勝沼町
*白山平経塚 昭和三十七年一月東京電力の発電所水路工事中に発見され、康和五年(一一〇三)銘のある経筒が発見された。長文の刻銘があり、甲斐古代史の重要史料として注目された。経筒は今重要文化財に指定され、東京国立博物館に保管されている。出土地には白山祠(石祠)が祀られており次の刻銘がある。
「大善寺現住法師高覚代 寛政九巳歳十一月吉日造立 世話人高柳伝兵衛」
(中略)
*柏尾の古戦場 明治元年三月六日 近藤勇らの新撰組を中心とする甲陽鎮撫隊と板垣退助らの官軍との間で激戦が行われた所。『東山梨郡誌』には銃痕のある大鳥居が残るとあるが今はない。
*芭蕉翁甲斐塚 俳人渡辺梅童の建てたもので芭蕉の句が刻まれている。
芭蕉翁甲斐塚
はまぐりのいけるかひあれ年の暮
宝暦十二王午年十月十三日 八代郡下草々庵梅童」。
並んで同人が明和六年(一七六九)に造立した石灯篭がある。
*大善寺 新義真言宗智山派。白山出土の康和五年銘経簡に見える「柏尾山寺往生院」が当寺のことと思われ、史料上の初見であるが、この時は天台宗系であったと推定される。寺伝では、行基草創とも三枝守国開創ともいわれるが、いずれも後世の時代的要請によって成立したもので、建久八年(一一九七)十月の当寺文書にみえる平安前期草創という伝承が、本尊(薬師)が弘仁仏であることからしても信憑性が高いとされる(磯貝正義「古代豪族と宗教」・『郡司及び采女制度の研究』)。
甲州街道沿いには、大善寺前の旧道寺領域を示す鳥居が東西に建てられていたため、旅人の目を引き、多くの道中記に触れられている。
☆『広重道中記』には、「ここに柏尾山大善寺といふ寺あり、門前に鳥居ありて、額に馬一疋・牛一疋とあり」とあり、
☆『津久井日記』は「往還に大きやかな成花(鳥居)表たてり、是柏尾村柏尾山大善寺なり、領知境往還の跡先に鳥居を建るは、門内債知たる事、とのゆるし文公より給はるとの事なり、此間八丁余と云」と記す。
☆『並山日記』
にも、「道はばとひとしき鳥居たてり、(中略)、さて其かたはらなる草むらを見るに、傍示の朽たる倒れ伏したり、何とかあるとひきおこしたるに、
東西神願両門之内口附無レ之馬不レ可レ乗
と見えたり、(中略)
此しんくわ(神願)より西は柏尾山大善寺領にて、かなたのはてにも又此門あり」とあるが、今は国道が旧街道と大善寺との間を通り、鳥居もその位置がわからない。古刹であるため今も多くの文化財を蔵しており、本堂(薬師堂)は弘安九年(一二八六)立柱の本県最古の建築で国宝に指定され、その中に安置される薬師三尊は重要文化財。安元三年(二七七)以下戦国時代の文書・徳治二年(一三〇七)の鰐口、庭園が県指定文化財である。(以下略)
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『山梨県姓氏録』に見る「三枝氏」
山寺和夫氏著 サンリオ発行 昭和62年刊
顕宗(げんぞう)天皇の御名代の三枝部の伴造とその部民の後裔であるという。伴造というのは「とものみやつこ」と読み、上古時代各部(田部・民部など)の首長として、その部を統轄したもので世襲制だった。なお部というのは、上代職掌によって団体をなしたものの意で、接尾語のように下につけて用いている。忌部・卜部・陶部・玉造部・機織部・物部などがある。(字源、『日本史用語大辞典』、『古文書用字用語大辞典』)
『姓氏家系大辞典』によると、三枚部(さいぐさべ)は、顕宗天皇の御名代の民で、その名の起こりは姓氏録・左京神別三枚部連条に
顕宗天皇の御世、諸の氏人を喚び集めて、饗を賜ふ。時に三重
の草宮庭に生ず。採りて以って献じ奉る。仇りて姓を三枝部連
と負ふ」
とあるという。(原文のまま)
古代の三枝別は、垂仁帝の後裔で、古事記の垂仁段に
大中津日子命は、三枝之別(中略)等の祖なり
とあるが、三枝部と関係があるかどうかは詳らかでないと太田亮氏は述べている。
次に三枝公についてであるが、公はきみと読み、貴人を尊敬していう言葉である。雄略紀九年三月条に「吾主大伴公何庭在也」(わがあるじおおとものきみいずこにおはすや)と記されているとおりである。この三枝公は毛野氏の族で和泉国(大阪府)に住んでいた。毛野氏というのは「けぬ又けの」と読み、古代東国に毛野国があって、その後上下の二国に分れた。これが後世の上野・下野の二国(今の群馬・栃木両県)であるという。毛野氏は崇神天皇の皇子豊城入彦命の後裔で、東国第一の大族である。後に上毛野君、下毛野君の両族に分かれ、各地に栄えたものがすこぶる多く、関東から奥州に亘り繁茂した。毛野氏の氏神は赤城神社で日光・駒形・箱根社は常その分社という。(尊卑分脈、諸家系図纂)
さて三枝直は甲斐(山梨)の三枝部の伴造で、その直姓をいっている事から、甲斐の国造族である。三枝直の直というのは「あたい」と読み、上古の地方官の名である。国造(くにのみやつこ)や県主 (あがたぬし)類がこれで、その後姓(かばね)の一つとなった。後世甲州三枝氏が、先祖の三枝守国は、丹波(京都・兵庫)から甲州に来たものと伝えているのは、甲州三枝氏は丹波道主族である事を証明している。
山梨県の三枝氏は、甲斐国造族三枝直の後裔と伝え「長寛勘文」に「甲斐国在庁宮人三枚守政」とある。守政は国守藤原朝臣忠重の命をうけ、軍兵を引率して熊野領八代荘等を荒しまわった。このため熊野所司から中央政府に対し訴えが出され、絞罪に処すべしとの中原朝臣業倫から命令が出された。この業倫の勘申を載せたものが長寛勘文で、長寛元年四月七日 (一一六三)の事である。以上から考察して、甲斐三枝氏は国造族として栄え、当時在庁長官として勢力があった事がわかる。この子孫が大いに栄え、後孫を各地に伝えている。
一宮町南野呂にある大宮橋立明神の本殿背後に古墳があるが、三枝氏祖先の墳墓であろう。
伝説によると三枝守国に五男子があった。能呂介守将、林戸介守党、隠曽介守継、立河介守忠、辻御館守貞の五人の事である。この五人のうち、石原氏を除いて前の四人は鎌田氏が生んだのであるが、守氏だけは石原氏の腹から生まれたものと伝えられ、このため守氏を除いて守国に四男子があるといわれていた。このためか、『寛政重修諸家譜』は四人の名を記している。
伝説はさておき、能呂以下の氏が、三枚一族の苗字として存在した事は確実のようである。このうち能呂は野呂郷に住んだ三枝の宗族ではなかったかと思われる。
後世この子孫を能呂党といっている。次に林戸は林戸郷に住み、地名を負って氏とし、立河も隠曽もこの地の名である。前記のほか辻氏があり、これに三枝を加えて三枝の表七名といい、窪田・石坂・山下・沓間 (久津間)・内田の各氏も三枝より分かれた氏であるところから、これを三枝の裏七名といっている。七名というのは、七名字・七苗字という事である。
三枝守国の男子五人の長男能呂介守将の家系は次のとおりである。(尊卑分脈)
能呂介守将―同守久―同守明―同守氏―寛覚(去養坊)―長俊(実は守氏の弟柏尾寺寛覚の子)―能呂新六守長―野呂介守泰―同盛息―同盛速―同盛秀―同景盛―盛信、弟野呂介景氏―同盛政―同盛親―同盛家―同盛香―同守繁―同行久―同定久―丹波守、守綱(道見)―右衛門尉虎吉(土佐守、武田信虎、信玄に仕えた)―源左衛門守義、弟土佐守昌吉(平右衛門)―守昌
しかし、『甲斐国志』によると、三枝宗家は永い間、その家系が継絶していたのを、武田信虎の時祖先が三枝氏と同族であった石原守種の二男丹波守、守綱(道見)に三枝宗家を興させ三枚氏を嗣がせた。守綱の子は土佐守虎吉で、その家系は次のとおりである。
土佐守虎吉―源八郎昌吉王佐守)―伊豆守、守昌(勘解由)―隠
岐守、守全―能登守、守輝―丹波守、守英―備中守、守県―源之
助守恭―右近守政―亀之助守典(六千五百石)」
(『寛政重修諸家譜』、『諸家系図纂』)
前記土佐守虎吉の嫡男勘解由左衛門守友の後裔は、徳川幕府に仕えて甲斐のほか、赤松流の三枝氏、菅原姓三枝氏等がある。菅原姓のものは徳島児の三枝氏で、菅原眞実の末流に尾蘇山城守(隠曽氏)という者があり、甲州に住んだが、御醍醐天皇の御代(一三一八)に、岡山県にあった戦に戦死したと『姓氏家系大辞典』は載せている。
三枝氏は次の家紋を用いている。
三階松 三階松丸 二引両丸
山梨県下に住む三枝氏で、史実に残されている主なものを挙げてみよう。
◎三枝土佐守虎吉
武田信虎の時、家蹟が絶えている三枝氏を、石原守種という者の祖先は、三枝氏の同族という事から、その二男丹波守守綱に旧祀を興させて嗣がせた。守綱は法名を道見といい、その子が土佐守虎吉である。(入道して栄富者齊という) 天正十年三月武田家滅亡後、嫡孫守吉と共に西八代郡市川大門町の文珠堂で徳川家康に拝謁し、その後千七百拾壱貫八百文の本領と同心五十六騎を付けられた。天正十二年四月十四日逝去、行年七十三歳。東八代郡豊富村木原の曹洞宗龍華院末、吉久山三星院(旧三枝院)に、法名を「三星院宝山玄玖居士」という位牌が安置されている。夫人は慶長十八年十二月三日逝去、法名を永光院笑月理慶大姉といい、山県三郎兵衛尉昌景の娘だという。しかし、この人は継室で勘解由守友等の母ではない。
◎三枝備後専守龍
尊卑分脈、三枝系図によると、土佐守虎吉の弟となっており、元亀二年十二月の武田信玄の印書にも備後守と記されている。(『甲斐国志』)
◎三枝五郡右衛門守之
土佐守虎吉の弟である。
◎三枝新十郎守直
土佐守虎吉の弟で、甲陽軍鑑に初め奥近習六人の一人だったが、その後騎馬三騎、足軽十人の足軽隊将となった。(甲斐国志)
◎三枝勘解由左衛門尉守友
土佐守虎吉の長男で、初め宗四郎といい、奥近習六人のうちの一人だった。その後騎馬三拾騎、足軽七十人の足軽隊将になり、名を勘解由に改めた。三枝氏系図によると、永録七年守友二十七歳の時、騎馬五拾六騎の隊将になったことが記されている。高天神城攻略戦に武功をたて、静岡県の飯田と名和の地内に合せて参百貫文の采地を賜った。天正二年七月二十八日付の武田勝頼より山県善右衛門殿宛の文書等から考察して、守友は宗四郎の名を善右衛門に改め、山県昌景の猶子になったという事である。そして翌天正三年五月に戦死したので本姓の三枝になったのであるから、実際には三枚勘解由と名乗ったのは、ほんの短い期間だけだったようである。守友は天正三年五月二十一日長篠の役に戦死した。行年三十八歳、法名、墳寺等詳らかでない。守友の子宗四郎守吉(後に彦兵衛)は、武田家滅亡の時幼年だったため、祖父虎吉と共に徳川家康に拝謁し、軍務に従った。守吉の子宗四郎守重は土佐守に任ぜられたが慶安四年死去した。守重の子は摂津守、守俊である。
◎三枝源左衛門守義
三枚系図には土佐守虎吉の次男とし、長篠の役に戦死した。男子が二人あり、源十郎守秀と平蔵守広である。
◎三枝平右衛門昌吉
土佐守虎苛の子で、初め源八郎といい奥近習五人のうちの一人で使番十二人衆になったと甲陽軍鑑にある。
その後平右衛門に名を改め、天正十年武田家滅亡後、徳川家に仕えて士隊将を命ぜられ、土佐守に任ぜられた。大阪の役には御旗奉行を勤めたが、その後大納言忠長卿に附属し、寛永元年六月九日逝去した。行年七十五歳、法名を「枝元院功太玄誉大居士」という。その子は源八郎守昌で伊豆守に任ぜられ、父と同じく大納言忠長卿に仕えた。慶長郷村帳に土佐守六千石、伊豆守千四捨石を甲州に采邑を持つと記してある。寛永十六年十一月二十九日逝去した。法名を「松岩傷害参宗悦大居士」といい、その子は能登守守全である。
◎三枝監物吉親
土佐守虎吉の子で、『甲陽軍鑑』は小姓衆と記しており、徳川幕府に仕えた。男子が二人あり、喜内守次、七内守垂という。
◎三枝甚太郎守光
土佐守虎吉の子である。虎吉に女子が二人あり、長女は大木因幡守の妻で、次女は天川又三郎の妻である。
大木・天川両氏は甲州の人であるが、天川氏は早世して椎子があったので、土佐守虎吉がこの稚子を養い、成長して三枝源蔵守英といい、徳川家に仕えた。
◎三枝喜内守時(八田村下高砂)
浪人三枝恒八の家記に、喜内は三枝土佐守虎吉の末男三枚監物吉親の子で、天正十年三月、吉親父兄と共に市川文珠堂(市川大門町)で、徳川家康に拝謁したが、病弱だったため、いつも父のもとに住居していた。
喜内は元和二年国千代に附属したが、国千代が甲州国除の後、中巨摩郡八田村野牛島に蟄居したという。寛永十五年九州島原の乱の時、浪人の姿で島原に行き、徳川家の臣立花左近将監の麾下に入り、軍務に精励したが、この時弟の七内も島原へ行ったという。天和三年十月逝去すとある。喜内の子は七右衛門守家といい、四世の後孫を恒八という。
喜内の墓は竜王町慈照寺にあり、野牛島の三枝家が護持している。
次に山梨娘下に住む三枝氏の分布状況をみると、県下の姓氏一五〇のうちの五一位で、これは八二二世帯である。(全国の姓氏順位では七五三位)
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