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本日は楠木正成公と言う、中世の英雄・忠臣愛国の中心人物の話をします。
楠木正成と言うと、赤阪城・千早城の戦いなどが在り、小学校の教科書で習って来られたと思います。
千早城に付いては、「千剣破城」と書いて読ませる所も在ります。
富田林から202号線を走り、千早橋を越えて走ると、その付近よりハイキングコースとして歩かれる人が居られます。途中で山へ入られるので、千早城へ登る人が少ないと感じます。
千早城へ登る653段の階段が在る、正面口の反対側に多聞小学校へ入る道が在ります。
千早峠へ向かう道の麓を、千早川が流れます。
多聞小学校の近くに「千剣破城」標識が在ります。
昔は山間に高野豆腐の工場が在りました。
私の話はこの様に、何処へ飛んでいくか、判りませんので宜しくお願いします。
楠木正成は、幼名を「多聞丸」と言います。
お母さんが男の子を授けて欲しいと、信貴山の毘沙門天にお祈りしました。そこで出来たのが正成です。毘沙門天と多聞天はどの様な違いが有るかと言うと、本来は同一の仏様です。
毘沙門天は北方を守る、ヒンズー教の守り神でした。
「天部」と言う仏様は沢山居られます。戦いの時グループで戦う時は、毘沙門天と成り、一人で戦う
時は多聞天と成ります。
楠木正成がどんな人であったのかを、本日話して見ます。
本当は摘み難い人で、皆さんは忠君愛国の士としてご承知と思います。
最近は「悪党」と言う表現で話されて、テロリストや悪党の意味で使われますが、当時は意味が違っていました。悪党と言うのは、強いと言う意味が在ります。
「建武の中興と」言う、当時の天皇が行った改革の原動力と成った人です。
楠木正成の戦いは、中国から輸入された、「孫子の兵法」を使わず戦いに望んだ人です。
中国の場合は広々とした所で、戦いが行われました。関東軍はその兵法で望みましたが、楠木正成は上手に山岳地帯を利用して、戦いを進めました。
「悪党」の定義は難しい物です。建武の中興が出来た時の褒賞では、正成は河内・和泉の守に任じられて、従五位を授けられています。
そこに朝廷のずるさが在ります。河内と和泉では、当時は一緒の考えが有りました。
大和川の内側と言う意味です。
河内を統一したのは、神武天皇の時代です。「ニギハヤノミコト」実在の人物です。
生駒の辺りには「ナガスネノミコト」が住んでいて、「剣矢(けんせん)神社」に祀られて居ますが、
その甥に当たる人です。ニギハヤノミコトは、天から生駒に降りてきて、神武天皇に土地を献納し
ました。
高野街道を河内長野中心に紹介しています。
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