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(参考)
皇母阪陵墓参考地
観心寺境内東隅に、「コウボ阪」と言う地名が在る。弘法阪と言い、弘法大師が本寺を再興された時、度々往来されたので、この名が在ると考えられていた。明治13年春楠公首塚改築工事の祭、ここの石垣全部取り外して使用され、数百年の苔むした石碑はいつの間にか失われてしまって、昔の面影が全く無くなった。
昔から観心寺には新待賢門院の御遺体が火葬されて山内に御埋葬申し上げたと言う寺伝が在ったので、第37世永島真隆氏と寺の相談役山中観光氏の両名が研究された結果、ここが新待賢門院(阿野廉子)の御遺骸を葬り奉った所であることが明らかに成った、従ってこの墓地への阪は、元は皇母阪と呼ばれたもので、いつの間にか弘法阪に、誤って伝えられたのである。
阿野廉子は悪女の典型と言われて居ます。倒幕に貢献した人々の論功行賞に介入して、賞の配分が不公平に成ったといわれます。これは太平記に書かれたものです。
尊氏を九州へ追放して、一時は南朝方が政権を取りましたが、九州へ追放された尊氏が九州の武士団を集めて、船と陸上から神戸・湊川へ上陸しました。
京都の公家たちは危機感が無く、楠木正成はゲリラ戦法を主張したが聞き入れられず、大軍が居る湊川へ死を覚悟で出陣しました。
楠木正成は、観心寺中院で、8歳から12歳まで滝覚坊に学問を学び、大江時親に兵法を学んで居ます。大矢船北町には「矢伏せ観音」が在ります。祭神は天照大神ですが、両脇に仏様(十一面観音)が在ります。神は仏の姿で、神は仮の姿です。神仏習合の風習が見られます。
明治元年に神仏分離令が出されて、明治4年には廃仏毀釈が出されました。
その運動の中で仏様が棄てられて行きしまいました。
東北の中尊寺・瑞願寺は、神仏習合で祀られていました。
修験道の人は、希望で分けられました。明治4年に廃仏毀釈が出される事で、行われたと思います。
吉川英治さんの「太平記」と言う物語は、毎日新聞に1300回掲載されました。
私本太平記の研究は、遅れており、日本史の中で空白である。
人間の素晴らしい英知を持った人が、壮烈な自滅を遂げたのが楠木正成です。43年間の一生が、
6年間に凝縮されて居ます。
本日拝見して頂く仏像は、祈りの対照として考えてください。
如意輪観音は国宝です。日本の国宝は燃えないと言う定義が在ります。
昭和24年法隆寺の壁画を模写していた時、模写する人が食事中の時間に、電熱器の放置で燃えました。模写した方は燃え残り、本物が燃えてしまいました。
大変な出来事で、燃える物は大切に保存する事が決まりました。
新国宝は昭和26年決められました。第一号は京都太秦の広隆寺の弥勒菩薩半跏坐像です。
観心寺の如意輪観音は第5番目の指定です。弘法大師製作で、六臂で手が六本在ります。
「八面六臂」と言う忙しさの表現が在ります。
如意輪観音様には、四臂、二臂の物も在ります。
観心寺は、真言宗のお寺で、金堂の中には、胎蔵界・金剛界の板曼荼羅が在ります。
日蓮宗の身延山久遠寺の曼荼羅も、板曼荼羅ですが、文字で書かれて居ます。
西国三十三箇所とは、和歌山・奈良・京都・兵庫・岐阜に掛けてある、観音霊場のことです。
第一番の那智山青岸渡寺は、ポピュラーな如意輪観音様です。第三十三番は谷汲山華厳寺で、
その中に7〜8箇所に如意輪観音が、お祀られて居ます。
観心寺の如意輪観音様は、ひざ上の高さが1.2mです。当時の色彩が残されている貴重な仏様です。ここは戦前まで33年に一回しか、ご開帳が行われませんでしたが、最近では、毎年4月17・18日
ご開帳されて居ます。
昭和33年には、手首が二本盗まれて居ます。現在は修復されて居ます。
観心寺の創建は、701年役の行者によって造られたと伝えられて居ます。
役の行者と言う表現は複数の人たちです、当人の場合は役小角と言います。
出生は、現在の御所市茅原と言われて居ますが、私は吉祥草寺か福田院のどちらかだと思います。
1999年11月蔵王権現の全国の150体を一同に揃えた展示会が奈良で有りました。
河合寺からも出展しました。河合寺には現在本尊;大日如来が在りません。
竜泉寺に行ってしまって居ます。
高野街道を河内長野中心に紹介しています。
わいわいマップhttp://waiwai.map.yahoo.co.jp/map?mid=cuKZ1gfEm9xQIy5M3W1kNum.Tog9G5jnYy.c4Ncy17Y-高野街道記きまぐれ補足用地図
http://sakuratosiro.fc2web.com/koyakaidoukitop/framepage4.html高野街道記もご覧ください。
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