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資料2は畿内における出現期古墳の分布を示しています。
出現期の古墳は、3世紀後半で、淀川三島野古墳群の弁天山古墳が120m級の物で、南片野・森1号が3世紀の古墳で、100m級です。乙訓古墳群の向日市の前方後円墳は100m級です。
又木津川を遡り、山城の椿井大塚山古墳は、鏡が32面出土しています。
墳丘の大きさは不明ですが、180メートルと言われていますが、私は140m級と思います。
前方後円墳です。
3世紀後半には、淀川水系には、要所に古墳が造られています。摂津・乙訓には、独立した
政治勢力が出来ていたと思われます。
一方大和川水系では、奈良盆地東南部の最上流の桜井・天理市に集中しています。
それ以外の第二段階以降は、南は葛城の地域・北は出現期の顕著な古墳は見られません。
柏原の玉手山9号墳は、小さな60m級の前方後円墳であるのみです。
私の考えでは、南の大和川水系では、大和と言われる所で大きな古墳が造られて、南河内には見られません。
畿内内部の大和川水系では、一つの政治的統合が出来上がって、大和・河内を含む政権の中で、大和政権が確立したので造られなかったと考えます。
北の地方では夫々の首長が独立して活動していました。大和政権は最初から領域は、畿内でも、大和・河内。和泉の地方で、北の摂津等とは違う、独自の政権でした。
巨大な大王の古墳が、南に31基在り、北では1基しかない事で考えられます。
大和政権の盟主(リーダー)の大和王権の範囲は、南の大和川周辺の、大和・南河内・和泉が
基盤でした。奈良盆地から大和へ移るのは盟主の地位が、大阪平野部の勢力に移ったと考え
ます。連合体の勢力の交代があったと思われます。
大和政権に付いて、直木幸次郎先生は資料5「摂津国の成立」で言われていました。
邪馬台国は、大和国と言う事です。3世紀の半ば過ぎには、巨大な古墳が造られて、日本列島の大きな政治的な政権が、大和で造られたのは疑う事が出来ません。
本来の領域は、畿内説の中で、南部の大和川水系であると思っています。
資料5の直木先生と同じ考えです。
表1には「大夫氏族とその本拠地」を造っています。
「前継ぎ君」を出す、執政官的な有力豪族で、蘇我・小懇田・田口・安倍氏が在りました。
文献資料による調査で、6世紀から7世紀の資料です。
大和には8氏・河内には6氏・和泉には1氏・摂津には2氏・紀伊には1氏・近江には1氏が居られて、律令国家の国を示しています。
摂津は、津を管理するという意味で、大阪湾に置かれています。新しい国です。
大阪市域では、摂津だけです。本来は中心が河内国であったとも言われます。
淀川より南側は、河内と考えられていました。本来でも摂津の中でも、大坂に関わるところは、河内で在ったと言われます。
高野街道を河内長野中心に紹介しています。
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