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本日は狭山池を巡る、農業用水について、西除川を含めて話を進めてみたいと思います。
狭山池は全国的に見ても由緒の正しいもので、古事記・日本書紀に出ています。
平成へ掛けての改修で、造られた時の土木工事の跡が発見されています。池の傍に博物館の建物が造られて、もっとも大きな成果が展示されています。
日本書紀・古事記の中で、崇神・垂仁天皇のとき、河内の狭山に多くの池・溝を開けと書かれていて、南河内が開発された事が判ります。
池や溝を掘ると言う事業が行われています。本には農業に関する土木工事を取り上げています。
河内の狭山に多くの池を造ることは、農業が国家の基本であった事が、証明されて居ます。
当時は狭山の地は水が枯れていて、農業が遅れていたので、多くの池を造ったことが、書かれて
います。崇神天皇の時代に出ている事から、本当にそうだと言う歴史上の確認が出来ていませんでした。戦前の歴史教科書では、神武天皇から延々と続いて現在まで書かれています。私たちは戦前までその様に教えられてきました。日本の始まりを古くする事で、歴史を造っていました。
実際の歴史の流れの中で、崇神天皇の事は良く判っていません。
仁徳天皇は、5〜6世紀と思われていました。歴史の事実が記載されていたかが疑問でした。
狭山池の創設は、崇神天皇の時代と思われていましたが、平成の改修で、616年頃、7世紀の初めと確認できました。実際はそれより200年も後の事でした。
今回の平成の改修で一番の成果は、7世紀の初めに造られた事が判ったことです。
狭山池より下の方に水を配る土木工事で、水田開発が行われています。
他の遺跡でも溝・池水路を考えることが必要に成りました。
併せて治水に関しても、人命を守る役割を果たしてきたか、農業用水として開発されたかが、本当に考え直す必要が出ています。
日本書紀には、農業は国家の基本であり、狭山の地に多くの水を開く事に成りました。
戦後までは農業は国家の基幹産業でありました。何時頃から始まったかをさかのぼってみます。
続く
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はじめまして☆☆
楽しい記事が沢山ありそうですね!携帯からのお邪魔なので、家に帰ってから続きを読ませてもらいます。
2008/7/23(水) 午前 9:15 [ あや ]