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(三) 狭山池の築造と行基菩薩の改修
狭山池の場合は、平成の改修で発掘された結果、616年(推古天皇16年)の段階で築造されたと
思われます。
発掘調査で判った事は、北へ流すために造られたヒューム管の役目を果たす「木樋」が出て、材質の高野槙の木で造られていました。10mの長い大きな丸太を刳り貫いていて、同じ材質で蓋も造られていました。
「樋」を年輪年代測定法で調査した結果、推古天皇の時代に生えていた木である事が判りました。
最近では、色んな木の年輪を収集して編年が造られています。年輪は一年毎に違いが在り、正確な年代が計測できます。
木材のサンプルは、過去の古い時代の建造物で、「井戸枠」・「曲げわっぱ」などからも判ります。
15cmの「曲げわっぱ」が在れば、50年間の歴史が判ります。
狭山池の樋から、616年の木樋が出てきました。その頃、狭山池の樋として埋められて、堤防が完成した事が判明しました。
5〜6世紀に造られたと日本書紀・古事記に書かれていた物が、不明でしたが616年(7世紀初め)と判明しています。
その後南河内の発掘が進んできていますので、色々はっきりして行くと思われます。
5〜6世紀は河川の氾濫が多く在りました。水田耕作は水を引いて、配る事であり、難しい事はありませんでした。狭山池の様に、流れている川の谷部に堤を造って、樋を埋めています。そこには考えのシステムが出来上がっていた事が判ります。
私は7世紀に成って始めて出来たシステムで在ると考えます。
大きな谷を仕切っての灌漑が起きたと思います。河川管理の考え方が、平野部での灌漑を中心に
行われてきた結果と思います。従来の河川の利用は、丘陵部への水を配る事は出来ませんでした。
水田開発は出来なく、普通は畑作が行われてきました。
7世紀に成ると谷池と言う堤防を造って、下流の畑へ水を配る考えが出てきました。
又同じ時期に、羽曳が丘の丘陵地帯のように、レベルが上の土地にも水が配られ始めました。
写真で見て頂くのは、佐賀県唐津湾の風景です。玄界灘の面して、砂丘が出来た裏側に、朝鮮
半島から伝来してきた水田耕作の後が見られます。砂丘地帯の裏側の丘陵に水田稲作が起きて
います。丘陵地帯の比較的水が確保されやすい所での参考です。
唐津市の稲畑遺跡は、2500年前の水田耕作である。
福岡県の板付遺跡も同じような遺跡です。日本では縄文時代の終わり頃、出現しています。
又、稲作が行われた時の土器の写真です。収穫した米の収穫品を入れる甕、米を炊くための甕、
など当時の日常生活の用品です。
弥生時代の初期の遺跡として、7〜8年前京都大学構内で発掘された弥生時代の水田跡です。
田の寸法は2m×3mの長方形の幅で水田が並んでいました。
地面の高低差に合わせて並んでいます。田の表面は荒れていますが、人が歩いた跡です。
田の中を生き生きと歩き回る人の声が聞こえるような風景です。透き上げをする様子が想像でき、
当時の人間の活動が判ります。
八尾空港の喜志遺跡は、弥生時代の後期の水田跡です。
畦の高さが、5〜10cmぐらいで、本来畦と言う物は、人間が通る物と思われていますが、当時の
考えは、田に水を張るために造られています。
田の寸法が大きすぎると、広い水面を造るために困難で、小さく3m四方の寸法が採用されたと
考えます。
写真で転々と白い物が残されていますが、稲の株の跡です。今の様にきれいに並べられて植えては居ませんでした。扇形に植えられていたと思います。
移植栽培が行われたのは、種まき形の田植えでは、雑草と区別がしにくいので、田植えの風習が
起きました。
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初めまして (^_^)/
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2008/7/27(日) 午前 7:36 [ アイドル裏情報 ]