高野街道記気まぐれ補足 別館

主に高野街道、河内長野付近を中心に書き込んでいます。こんな事を知っているといった方はご教示頂ければと思います

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群馬県の水田風景
田の大きさが1.5mの大きさでしたが、火山灰地帯の為に水の溜り難い所でした。水が抜け易いので、小さく区分されていました。水が抜け易い為に仕切りを入れて、早いうちに全体に水が行き渡る様に考えられています。早い時期に青森県まで稲作が広がっていた事が判ります。

1981年・82年の発掘では、弘前で弥生時代の中期の遺跡が出て、当時稲作が行われていた事が
判ります。当時寒冷地に強い稲が造られていました。
火山灰に埋められていたので、網目状に畦が出土しています。
水田感慨は稲作には大切な事です。

見て頂いているのは、エジプト文明の中で、ナイル川の中腹にルクソールと言う場所があります。
センネンジェムの墓の壁画には、色彩鮮やかな灌漑農法の絵が描かれています。
絵の下段には周囲に水路が描かれて、果樹園の実が実っています。絵の中央部と最上段にはパピルスを刈っている場面と、小麦の収穫の場面が描かれています。これは紀元前2000年前の絵です。
農業は洋の東西を問わず描かれてきました。

狭山池について
西除川(天野川)と今熊川(三谷川)の合流点に造られています。東は羽曳野丘陵と西は泉北丘陵の谷筋を流れています。その北側に堤防を造り水を溜めました。コントロールとして必要な樋を造り、
水を抜きました。堤防には東・中・西の三箇所に樋が造られています。

616年に造られた堤防は、5.4mの大きさで築かれています。水門を開けると北へ水が流れ出ます。
出来た当時の堤防は300mの長さでしたが、現在では更に大きくなり500mの幅と成っています。
水を抜く樋が設けられていて、田に水を季節によって配っています。

もう一つの大切な事は「除げ(よげ)」と言うことです。集中豪雨で雨が多く降ったりした時は、池の
水が満水となると。堤防が壊れますので、余分な水を逃がす為の避難場所で、西余川が造られて
います。昔は西岸の所に造られていましたが、今回の回収では更に西南の方へ移動しています。
池の回りは遊歩道が造られて、一周3km在りますので、皆さんジョギングを楽しまれています。

「西除げ」を遡ると天野川に合流します。もう一つ「東除げ」も在りました。元は丘陵地帯を流れていた、物です。人工的に水を配水する為に設けられています。これらは大きな労力を投じて造られています。

谷池を造る上でも、土木的な高度の必要がありました。
天野川が狭山池に流れ込み、狭山池から下の方は、西余川を造ったので、西除げの延長上の天野川が1735年(亨保20年)西除川と呼ばれています。
現在でも西除川(天野川)と言われていますが、行政的には西除川と呼ばれています。一級河川の大和川の支流として示されています。

狭山池は7世紀の初め人工的に造られました。造られた当時は判りません。
1703年大和川が堺方面へ人工的に造られました。それ以前は、狭山池の水が大阪まで配水されていました。池より北の範囲で利用されてきました。
池の決壊などが在ると改修されてきました。

行基菩薩は、東大寺の廬遮那仏(るしゃなぶつ)を造営されました。
社会事業に注力して、橋や灌漑池・農業用水など事績を上げて認められて、大仏まで造る人に
成りました。狭山池では、60cm堤を高くしました。盛り土には敷葉工法が使われています。
奈良時代にも何度かの改修工事が行われています。
732年(天平4年)狭山下池が作られました。これは現在の太満池です。
762年(天平宝字6年)律令国家と成り、池の高さが9.5mまで大きくなりました。池の面積は変わっていません。


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