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【三】 禅恵を巡る一級資料
武家政権が終わり、手を組みました。
足利尊氏と弟の足利直義対立しました。正平一統(1351年)10月から11月に足利尊氏と後村上
天皇とが合体しました。しかし翌年2月には破綻しています。
後村上天皇は、武家を信用していませんでした。北畠親房に任せて京都に入場を待ちました。
二代将軍の時、崇光天皇を拉致して、光厳・光明と一緒に、賀名生より河内金剛寺に連れ込んだ。
正平9年(1354年)71歳の時の奥書に、北朝の三院が金剛寺来住と書かれています。
東西6km、南北3kmの範囲の中に送られてきた事が判りました。禅恵は歓迎していません。
正平9年〜13年に至る間、後村上天皇が賀名生より入山しています。一方上皇たちは、観蔵院に
居住されています。天皇が居られる間に、山木皆失った、坊舎損失した、と書いています。
○ 正平10年(1355年)72歳 殊更物騒に成り、騒がしい事を嘆いています。
○ 正平11年(1356年)73歳 後村上天皇は、摩尼院に住居して、光厳・光明・崇光の三院は、観蔵院に住んでいました。寺中坊々一宇も残さずと書かれているように、天皇を守るために、南朝方の
宿舎に使用されています。
○ 正平12年(1357年)74歳 正学頭・法印と成る。10月9日文観坊殊音(しゅおん)が改名して
小野僧正弘真が亡くなった。禅恵は自分の先生として、仰いだ人で、国師で護持僧と成った人です。金剛寺では代表的な人物です。南北朝時代に東寺の一長者で、醍醐寺座主で在った人です。禅恵と一緒に金剛寺に来ましたが、80歳で亡くなりました。金剛寺境内に墓所が在ります。
先帝・当今二代に渡っての国師であり、門弟隋一の者として認められた。真言密教の免許皆伝を受けています。印信(印可)を受けました。
真言立川流
平安時代末期左大臣阿闍利仁寛によって始められた真言密教の流派の一つ。
醍醐寺座主・東寺長者を歴任して後醍醐天皇の信任が厚かった文観弘真(1278〜1357年)によって、後に教義・理論が大成されたと言うが、資料が十分残っていないので、その実態は謎が多い。
教義の基本は、真言密教の即天成仏の教えを、男女二根の交合でもってユガとする(精神の統一
修行によって絶対者と合一)と言うもの。男と女、日向と日陰、胎蔵界と金剛界の様に対比するものである。合体こそが極楽往生出来ると言う、邪教的な分派が多く出来ました。
後醍醐天皇が一番信任されて人でした。
○ 正平13年(1358年)75歳 後村上天皇が金剛寺に行宮されて5年が経ちます。皇居として使用されている間に山林坊舎が著しく損失しています。この5年間で山林を切りつくし、坊舎の土地も無くなってしまった。
○ 正平14年(1359年)76歳 学頭・法印・大和尚と成る。天皇が行宮して6年が経ちました。
山木全て切り払われてしまった。坊舎破損している。寺僧が逃げ出している。騒がしくて学問が
出来ない。
正平14年12月23日後村上天皇は、観心寺へ移幸された。
足掛け6年の間、ありがたい事は何も無かったと言う気持ちが連ねられています。
○ 正平15年(1360年)77歳 畠山国清による、金剛寺焼き討ちが始まりました。
畠山氏は室町幕府の関東執事であった。河内・和泉の守護を兼ねていました。
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