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その後、図書館で探し当てた資料は、何と大正四年四月三日刊行の藤田精一著「楠氏研究」という八十年前の書物だけで、この伝承を全面的に否定するものであった。
植村清二著「楠木正成」によれば、楠木氏に関する史料を網羅した書物として、「楠氏研究」を超えるものは、未だにみられないと言ってよいらしい。
もったも植村博士も指摘されるとおり、この書の著者の思想は、逆賊足利を容赦しないという信念で凝り固まり、「梅松論」が述べる正成が義貞の誅殺を献策したという説などは、賊側の書の妄言であると一蹴してしまうのだから、逆賊の嫡流である義詮が正行を敬慕していたという説は、たとえ正行の人格を称揚するものであっても、積極的に認めたくはなかったろうが、だからと言ってことさら美談にけちをつけているとは思えない。
ともあれ藤田氏によると、義詮と正行の墓が並んでいるという伝承の根拠は、次のとおりである。
宝筺院は前記の義詮の遺言を聴いたとされる黙庵禅師によって開かれた寺であるが、黙庵の後を嗣いだ二世院主の呉渓が記したとされる文書が、天龍寺塔頭壽寧院所蔵の正行の木牌の添文として残されているという。
「楠氏研究」が引用しているその内容を白文のままで記すと、こうである。
當院開基、黙庵禅、後諸国行脚之時、與楠正行、有懇志。朝臣亦寄依于禅師、其後貞和五年、南朝正平三年正月五日、又至河内國。時聴朝臣出陣。同國讃良郡岡山里字四條畷也。自行陣営、訪朝臣。爾時朝臣直正容儀参禅而曰、白雲立峯、禅師言下答曰、雷電切雲。朝臣再拝莞爾而曰、余明日軍素覚悟討死矣。願窃葬賜余首於貴院、禅師諾之。其翌日、朝臣與足利勢忠戦于四条畷、一族郎黨等悉討死。禅師不違其遺言、窃包隠其首級於法衣、葬當院、弔慰朝臣之雄魂矣。
永和三丁巳四月 呉 渓 (印)
其後、足利二代将軍義詮公、亦深寄依于禅師。将軍一日召禅師時、偶談至楠朝臣首塚云々也、愁然正容而曰、楠家之一族者、雖吾家之怨敵、眞可謂南朝忠臣矣。吾逝去之後者、可建墓碑於正行之墓側也矣。其後貞治六年十二月七日義詮□□禅師即又如其遺命云
要するに、「黙庵は生前の正行と交誼があり、正行が四條畷の合戦に臨むに当って戦死の覚悟を告げられ、その首級を宝筺院に葬ることを託された。
よって黙庵は戦場から正行の首を法衣に包んで密かに持ち去り、遺言に従い、院内に葬って供養した。その後たまたま将軍義詮にこのことを語ると、義詮は容を改めて、楠木一族は当家の仇敵であるが、南朝のためにはまことに忠臣であると讃え、死後には正行と墓を並べたいと言った」というのである。
この添文の内容は、直ちにそのままには信じ難いように思われる。
当時、僧侶が戦場におもむき、死者を供養する習慣があったとはいえ、南軍の総帥である正行の首級を得ることは、足利方にとって何よりの功名であったに違いなく、密かにこれを持ち去るなどは、至難の業であったろう。
正行の生涯を全四巻にわたって描いた歴史小説である田中俊資著「楠正行」は、黙庵が宝筺院に正行の首塚を築き、後に義詮の遺言によって、義詮の墓がこれに並んで建てられたという説を、そのまま採用し、四條畷合戦前夜に黙庵と正行が対面したというくだりも前記の呉渓の添文に従って書いているが、さすがに黙庵が戦場から正行の首を持ち去ったとは記さず、楠木一党の首は師直によって都にもたらされたが、黙庵が尊氏、直義兄弟に乞い、正行の首をもらい受けたということにしている。
しかし、そういう疑点はあるにしても、もし前記の文書が真実呉渓の筆によるものであるとすれば、その記事の大要を疑う理由は乏しいであろうが、「楠氏研究」はこの点に疑問を呈し、「文体書風ともに当時のものと異なるのみならず、正月五日に正行が四條畷に在陣し、六日に戦死したというのも史実に合わない。かつ義詮の遺骨は鎌倉光明院に納められたもので、天龍寺内に義詮の墓碑が建てられたとも信じ難い。」と指摘している。
もっとも義詮が逝去の日に黙庵らの僧を招き、何事かを言い残したことは、「空華老師日用工夫集」貞治六年丁未十二月の条に、「府君七日逝去、其日戌時、召天龍・春屋・等持・黙庵対面。坐換衣、盥嗽、被法衣坐椅子上、遺嘱諸、合掌而終」とあることによって確かめられるが、その内容は分からないという。
これらの論述の当否については、いうまでもなく私には判断することができない。
ただ宝筺院に正行の首塚があり、その隣に義詮の墓が建てられたという説の文献上の根拠が、呉渓名義の文書しかないことは、おそらく確かだろう。
そもそも正行の首塚なるものが、どこかに存在するのかという点も、「楠氏研究」には記述がない。
前記の小説「楠正行」は、正行の首塚の所在については、宝筺院にあるとする説の外に、宇治市六地蔵西本願寺末寺正行寺にあるとする説があり、この説は、四條畷合戦の後に、安間了願、了意父子が、正行、正時の首級を運んでこの地に葬り、正平十年に寺を建てて了願寺と称したが、後に正行寺と改めたというと、紹介している。
師直が合戦の後に楠木方の首級を都にもたらしたという記事は、「園太暦」に見えるようで、そうだとすれば正行の首がどこかに葬られたことは間違いないはずだが、確実な史料でこれを確かめることはできないようである。
印刷術で大量に複製された文書が氾濫している現代とは異なり、どんなに重要な記録でも、原本がなくなればその写しを求めることが期待できない時代のことだから、当時はあったはずの記録がなくなるのは当り前のことで、正行の首塚どころか、父の正成の首でさえ、どこに葬られているのか、確認はされていないようだ。
尊氏が正成に敬意を払って、その首を河内に送り届けさせたというのも、実は太平記が記しているだけで、これを裏付ける古文書は現存しないという。
ただ正成の人物を論じるに当って常に引用される「梅松論」の「まことに賢才武略の勇士とも、かやうの者をや申すべきとて、敵も御方も惜しまぬ人ぞなかりける」という賛辞に照らしても、尊氏がそういう計らいをしたと信じるのは自然であろう。
しかし義詮には、果たして正行に心を寄せるだけの余裕があった
だろうか。義詮は自ら戦場で正行と相見えた経験はないが、正行死後の楠氏の惣領となった正行の弟正儀には散々な目にあわされ、敗走の途上で腹を切る覚悟をしかけたこともあったはずだ。菊水の旗印は義詮にとって、またとない鬼門だったのではあるまいか。
それでもなお義詮に正行を敬慕する思いがあったとすれば、戦争が下手で酒好き女好きの凡将というイメージを超える何かが、彼にあったと認めなくてはなるまい。
新聞よりの抜粋です。新聞社名を忘れてしまいました。
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